‐‐1902年夏の第三月第三週、エストーラ、ノースタット‐‐
アインファクスは険しい表情を浮かべながら、穀物庫の中身と昨年の収穫高を睨みつけていた。
ウネッザの救出作戦が成功したとしても、国家が立ち行かなくなっては意味がない。アインファクスは飢饉の訪れを如実に感知しており、食糧配給の量を相当に調節してきたが、それでも越冬が困難なことに変わりはなかった。仮にも十数万の人口を抱えるウネッザの人口が食料負担に加わるのである。農務大臣として彼がやるべきことをやったとしても、流石に限界がある。
宮殿の穀物庫もがらんどうである。陛下が節制を重んじていても、カペル王国からの新たな供給がない以上、いつかは底を尽きてしまう。
「アインファクス様、お悩みですか」
臣民一人当たりの平均消費量を書きこんでいたアインファクスが振り向くと、礼服を着崩したフッサレルが立っていた。上着を手にかけており、腰の高さほどのレイヤードからは、ストライプのタイが覗いている。
「フッサレル様。やはり無謀な作戦の清算は困難を極めるのですよ」
アインファクスは表情を崩さずに答える。戸口に手をかけ、穀物庫の中身を覗き込んだフッサレルは、短い感嘆を零し、アインファクスの手元を覗き込んだ。
「食糧生産については良く分かりませんが、どこかから食料を運ぶという事であれば、お役に立てるかと思いますよ」
「どこかから……ですか」
アインファクスは顔を上げる。眉間に寄った皺はそのままに、僅かに口を開け、視線を空に泳がせている。
色味のない穀物庫の隅に麻袋が積み上げられている。普段の備蓄と比べれば、その量は半分ほどもなかった。
「どの道都市部の臣民は餓死寸前の極限状態が待っているでしょう。どこかから持ってくるとすれば、それは国外からということになる」
フッサレルは唸り声を上げる。穀物庫の無機質な壁面が露出しているのを眺め、再び食糧生産高に視線を落とした。
「やはり陛下に相談するのがよさそうですね」
アインファクスは資料をさっとしまうと、穀物庫の分厚い扉を閉める。厳重に二重の鍵をかけた彼は、フッサレルに一言、「失礼」と告げて早歩きで階段を登っていく。フッサレルは慌てて上着を着なおすと、駆け足でアインファクスの後を追った。
「お待ちください、お供しますよ」
穀物庫から続く長い階段を登ると、真っ先に採光窓がある。アインファクスは目を細め、二階へと続く階段に足をかける。視界から採光窓が消え、銀製の犬鷲が彼を睨みつける。アインファクスは足取り軽やかに階段を登り、フッサレルは手摺に掌を滑らせながら階段を登っていく。
「しかしアインファクス様。どう説得されるおつもりです?陛下は略奪行為などを、断固反対されるお方でしょう」
フッサレルは脳裏で、都市を繋ぐ交易路を諳んじながら尋ねる。観光大臣の見立てでは、北方からの輸入ルートが最も現実的であり平和的でもある。しかし、ムスコール大公国が、同盟国の敵国に対して首を縦に振るとは到底思えなかった。加えて、そもそも同国は、制度上、取引の手続きに異様に時間がかかることで有名であった。
こうした疑問に対して、沈着冷静な農務大臣は、資料を持ち換えながら答えた。
「それについては考えがあります。なに、貴方に迷惑はかけませんよ」
フッサレルの視線が僅かに動く。彼の視界の先には、先程の食糧生産高に関する資料がある。その資料に隠されるように、シュッツモート防衛線に動員された陸軍兵士の数を纏めた資料が紛れ込んでいた。
アインファクスは口の端で笑う。彼の口元を見上げる着崩した男の背筋が凍りついた。
階段を登ると、二人は銀製の水差しを運ぶ侍従長のノアとすれ違う。アインファクスは彼と紳士的な挨拶を交わしてすれ違い、フッサレルはやや駆け足で軽い会釈を返した。
ノアが立ち止まり、振り返る。
二人は皇帝の執務室の前で立ち止まった。フッサレルは慌ててタイを整える。その様子を確認したアインファクスがノックをすると、皇帝は、くぐもった声で「どうぞ」と答えた。