‐‐1896年夏の第一月第二週、エストーラ、ノースタット1‐‐
夏のうだるような暑さの中、舞台座前に設けられた食糧配給所には、長蛇の列が出来ておりました。
かつての危機の時代、雹の降る夏を経験した我々にとっても、この酷暑と干ばつ、そしてさまざまな植物を蝕む斑の病の脅威は、あまりに大きいものでございました。
我が国の主要な食糧である麦は今や高級品となり、我々は春の備蓄や動物の飼料として好んで使われる穀物類‐‐粟などはその代表例でしょう‐‐などを分配することで、何とかこの危難を乗り越えようと足掻いております。
陛下は、配給所を頼り、わずかな食糧を求める人々を舞台座の窓から眺めておられました。
陛下も、既に二日も食事にありつけぬまま、舞台座と宮殿の間を往復する日々を送っておられます。時折つくため息には、加齢による嫌なにおいが混ざっておりました。
「陛下、どうかお食事をお取りください。陛下に何かあっては大事です」
「ノア……。いいんだ、君にも迷惑をかけるね」
陛下は杖で体を支えながら答えます。真夏の虫の音が、郊外の森から僅かに聞こえてきます。
リング・シュトラーセ越しに見渡せる市街地と畑には、殆ど人の往来がありません。代わりに、道路を進む荷馬車を追いかける貧しい人々が、道を埋め尽くしております。
「巡幸のたびに、胸が痛むのだ……。私には何ができるだろうか?」
ここ数か月は、毎日の神への祈りさえも空虚に感じられます。私は、それでも、陛下を支え励まさなければなりません。杖を頼りに小さく呻きながら立ち上がる陛下に肩を貸し、一段ずつ、舞台座の階段を降りていきます。
「陛下、プロアニア外相よりお手紙が届いております」
「そうか……。宮殿で読むことにしよう」
このような事態にあって寄越されるお手紙など、その内容が良からぬものであることは疑いようが御座いません。
「陛下、お断りしましょう。このままでは陛下が倒れてしまいます」
陛下がぐらつくたびに、私の体にも耐え難い重圧がかかります。何とか階段を下った後、御用馬車に乗り込んだ陛下は、すぐさま小さな水差しを口に運ばれます。愁いを帯びた目を細めながら、水を咀嚼する陛下を乗せて、馬車は宮殿への「長い道」を進んでいきました。
宮殿に戻ると、陛下は壁伝いに食堂へと向かいます。勿論、これは食事のためではなく、お手紙の受け取りのためでございます。
長い廊下を恨めしく思いながら、陛下に肩を貸して数分、食堂には恰幅のよいプロアニア外務官が背筋を伸ばして待機しておりました。
精悍な顔つきの好青年で、この食糧難だというのに、水も食事も不足のない艶やかな肌をしております。陛下は入室までに体勢を立て直し、皇族に相応しい立ち振る舞いで、外務官と握手を交わします。
「陛下、お会いできて光栄に存じます。こちらが該当の文書でございます」
男は、挨拶もそこそこに、素早く手紙を取り出す。陛下は身を乗り出してこれを受け取ります。それとほぼ同時に、来賓用の紅茶と茶菓子が、両者の前に配膳されました。
「こちらこそ、歓迎いたします。昨今は酷暑が続いておりますが、体調を崩されないように、お気を付けください」
「えぇ、お気遣いありがとうございます。では、私はこれで」
「お待ちください。一服していかれてはいかがですか?」
外務官は無表情で振り向き、茶菓子と紅茶に視線を向ける。しばらく硬直していたが、彼はようやく表情を綻ばせて座りなおした。
「では、お言葉に甘えて」
両者は紅茶を啜り、一息つくと、先ずは固いクッキーを頬張ります。付き合い上やむを得ない事とはいえ、陛下がものを口にしてくださることが、私には嬉しく思われました。
好ましい安堵のため息の後、陛下は穏やかな笑顔で外務官と向き合います。
「プロアニアはいかがですか?噂には馬鈴薯が危機的な状態にあると聞いておりますが」
「えぇ、やはり労働者階級の方々には辛い年となっているようです。ここだけのお話、若者の自殺者も増えました」
「なんと痛ましい……何か協力できることがあれば良いが……」
外務官は紅茶を片手に暫く陛下のご様子を眺めておりました。彼は、湯気の立つ紅茶にいっぱいの角砂糖を入れ、再び紅茶に口を付けます。陛下はゆっくりと、クッキーの甘みを嚙み締めておられました。
「陛下は、臣民に愛されておられるのですね」
陛下が顔を上げます。外務官は無表情ではありましたが、その声音にはどこか温もりが感じられました。
純白のテーブルクロスの上に置かれた金のラインが入ったソーサーの上に、カップが静かにおかれます。
「君主は国家第一で仕えなければならない。臣民に愛されているのは、私が恵まれている証だよ」
「臣民も幸福でしょう。我が国では……国民の顔に笑顔が咲くことは滅多に御座いません。皆労働と、秩序の為に生きているからです」
外務官は自嘲気味に笑います。その含み笑いの中には、どす黒い感情が渦巻いているのでしょう。紅茶を置く手が、わずかに震えております。
静かに湯気を立てる甘い紅茶の波紋を見つめながら、陛下は絞り出すように仰いました。
「舞台座ができた時の、臣民の笑顔が目に焼き付いている。きっと私は、その笑顔の為に生きてきたのだと……。君も若いだろう。舞台座を見ていくと良い。これは私の偉業ではなく、人々の願いの賜物だからね」
外務官は暫く俯いて考え込んでおりました。彼は紅茶を一気に飲み干すと立ち上がり、驚くべきことに彼から手を差し出してきたのです。
「陛下とお話しできて、大変光栄でございました。ぜひ、舞台座に立ち寄らせていただきます」
陛下もゆっくりとご起立され、握手に応じます。外務官は何か感極まったような表情で陛下を見つめ、仕事人のプロアニア人らしく、足早にその場を後にしたのでした。
「ノア。思いの丈を述べられる幸福を、君は感じられているだろうか?」
「陛下、愚問ですよ」
私は後片付けをしながら答えます。陛下は、お手元に置かれた、お手紙の封を開けます。王の紋章で判を押された蝋は丁寧に剝がされ、汚れのない茶色の封筒から、白い手紙が姿を現しました。