‐‐●1902年春の第三月第二週、カペル・プロアニア国境付近、ヴィロング要塞2‐‐
半目が起き上がったころになると、敵兵は遥か前方に陣を敷いていた。彼は寝たきりで狂った三半規管とのしかかる気怠さを何とか堪えながら、敵の視界に入らないように急いで森の中へと向かっていく。
僅かに動いただけで息も絶え絶えになった彼は、木陰に身を潜めつつ、敵兵の動向を観察した。大躍進を遂げた彼らの中心には、奇妙な車輪を持つ自動馬車が置かれている。
敵の兵営がこちらに全く興味を示していないことを確認した彼は、重い頭を押さえながら、足元に落ちた木の実を拾い上げた。その皮を矢先でこじ開けると、ごく小さな火を指先で起こし、軽く炙って口に放り込む。なりふり構わずものを口に含んでいた彼にとっては、栄養たっぷりの果実はまさに救いと言ってよかった。
真新しい川の水を同様に煮沸して滝のように流し込み、何とか体のだるさをとると、次第に醒めていく感覚を頼りに、再び森の入り口まで戻る。敵陣営は勝利に浮かれ、久しぶりに配給された食糧で煮炊きを始めていた。当然、彼らの中心には、技術の粋を極めた芋虫の足を持つ自動馬車がある。それは台形の砲台が乗った角ばった形のもので、少なくとも半目の知識の中にはない乗り物だった。
(何とか味方の陣地に戻れないかな……)
彼は周囲を見回す。広い草原の中を這って進むのが正攻法であるが、それでは敵陣営に単身で突っ込むことになってしまう。良くも悪くも慈悲のない選択に躊躇いがないプロアニア兵に気づかれれば、圧倒的な射程から蜂の巣にされるだけだろう。その案は即座に排除された。
もう一つの案はこの場で待機して救援を待つことだが、先程の大躍進を見た後では、それも現実性に欠ける。となると、少々危険ではあるが大回りして森林の中を迂回し、ヴィロング要塞の裏側まで戻ってから、カペル王国の都市へと直行するのが現実的と言える。
ほかの選択肢がない以上、彼の行動には一切迷いがなかった。彼は森の出来るだけ浅い場所、敵の死角に入りそうな木々の裏側を縫うように、木にぴったりと貼りつきながら移動を始める。カラスの鳴き声や茂みの動く音に体を強張らせながら、少しずつ、敵の陣地の直線上まで進む。
やがて空が朝焼けに染まり始める。長いブーツと丸い兜に身を包んだプロアニア兵の見張り番が、小銃を携えながら要塞の前にある塹壕の辺りを警備している。無駄のない動きで無意味な左右往復をしながら、時折立ち止まって銃口を覗く。そのたびに半目は夥しい量の脂汗をかき、汲んだ水を飲み、呼吸を整えて木々の間を通り抜けていく。
そして朝焼けが青空に変わると、プロアニアの陣地から、けたたましい金属音が響く。鼓笛隊の演奏に合わせて、飛び起きた兵士達は軍靴を鳴らしてリズムをとる。彼らは健康的な艶やかな肌を取り戻して、声高らかに、軍歌の数え歌を歌った。
そこで半目は屈みこんだ。呼吸を整え、森の出来る限り深い場所まで移動する。茂みでさえ音を立ててはならない。彼は慎重に、狩りをするときの要領で、息を殺して森の奥深くまで入っていく。
暫く進むと、背後で砲撃の音が響く。以前とは比べ物にならない、岩を砕く破砕音である。機関銃は固定台から外されて、戦車の裏で周囲を守る。味方達が放つ激しい魔法攻撃も、より激しさを増している。要塞を目前にした芋虫の自動馬車が、ついにヴィロング要塞をその射程に捉えたのである。
半目はもどかしい思いで唇を噛み締める。嗚咽を漏らさないために、肺の辺りを鷲掴みにした。
(鉄兜が、死ぬんじゃないか?)
ほんの短い時間、寝食を共にした坊ちゃんのような戦友。彼はずっと隣にいたこの男があの芋虫に轢き殺される幻想を思った。
もどかしいほど、彼は無力だった。補給も来ない、見捨てられた塹壕で、ただ漫然と命を繋いだ彼は、カペル王国の数多の兵士の記憶から忘れ去られたに違いない。きっと戦場に復帰しただろう鉄兜も、彼が戦死したと思っているはずである。
だからと言って、祖国のために戦うよりも、生き残ろうと足掻くことが優先されただろうか?胸が締め付けられるように痛んだし、実際に彼自身が胸を鷲掴みにしていた。
無力だ。一人では何もできない。隣に来た新兵や、前線まで進んだ古参兵たちに先立たれた。自分だけが生き残って、その死を見ないように努めた。
堪え切れず、涙が零れ落ちた。陽気な自分には人を勇気づける力があるらしいと、自信に満ちていた初めの長い塹壕の中を思い出した。今は遠い、黄金の麦穂のような記憶。鈍くさい鉄兜と、サボり魔の自分の他愛ない会話の数々が脳裏を駆け巡る。
無力な自分の、全身泥や血痕や、汚物塗れの服が異臭を放つ。あの戦場よりも柔らかい異臭である。その薄汚れたブーツの先に、彼は動くものを見た。
大きな尻尾は茶色と白、中央に黒の模様がある。ふかふかの毛で覆われたそれはご機嫌そうに動いていて、一歩間違えれば踏みつぶしてしまいそうに小さい。それが顔を持ち上げると、不意に半目と視線が合った。
「ピロロロロー、ピロロロロロー……」
半目の崩れ落ちそうな精神が、戦友と再会した時のような幸福感に満たされた。その生き物に、彼は覚えがあったのだ。
「おー、お前かぁ。元気、してたか?」
木々のすぐ向こうでは、凄まじい爆音がする。半目を見上げた栗鼠は、同じように鳴いた。
半目の眉尻が降りる。
「そうだよな。怖いよなぁ……」
普段の間延びした声が零れて、不思議と心臓の鼓動が穏やかになるのを感じた。栗鼠はひょい、と跳ね上がると、半目の腹の上に飛び乗り、頬袋一杯に貯めていた木の実のあまりらしい、手に持つ木の実をそこに乗せた。
「え、くれるのか……?」
栗鼠は飛び降りると、そのまま森の中へと消えていく。空腹にあえぐ腹の上に、一つ残された小さな木の実。それはおよそ旨いとは言えないが、食べられないものでもない木の実であった。
半目は慎重に殻を剥くと、背後を確認してから魔法で指先に小さな火をつけ、木の実を炙る。暫く炙ったら、昨晩と同じようにそれを口に放り込んだ。
それは決して美味しくはない。しかし、冴え渡る思考が蘇るだけの栄養価はあるらしかった。空腹は依然満たされておらず、体力も殆ど限界であったが、彼は数分瞼を閉ざし、木陰で眠りにつく。やがて騒々しい発砲音で目を覚ますと、本来の暢気な思考が戻ってきた。
(まぁ、鉄兜のことだし、生きてるでしょ)
臆病さとはこうした戦場でこそ、その真価を発揮されるものである。彼は先程より幾らかマシになった体を持ち上げ、肩を回して凝りをほぐす。ぱきぱきと小さな音が鳴り、暫く自分で肩や脚を揉んでやると、戦場の様子をもう一度確認してから、再び歩き始めた。