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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1902年
107/361

‐‐●1902年春の第三月第二週、カペル・プロアニア国境付近、ヴィロング要塞1‐‐

 深い泥濘に埋まった足が、塹壕足で爛れている


 仲間の片足は切り落とされて、そうじゃないのは撃ち殺されて


 騎士の鎧も撃ち貫かれ、土竜の如く縮こまる


 頼みの綱の蛇だって、鉄条網だって圧し潰される


 君を守るものはもうないよ


 大蛇の足跡は踏み均される、あれは巨大な河馬のよう


 いいや、芋虫かはたまた象か


 蛞蝓のように車輪を回し、突き出た角が上下に動き


 鼻先の大きな砲口から、鉛の鼻水を噴き出して


 柔い木片や鉄片が、みしみし折れて、投げ捨てられる


 深い微睡に沈んだ瞳が、蛞蝓の足に圧し潰される


 君を守るものはもうないよ


 ヴィロング要塞の草原地帯は、最早原形をとどめていない。一進一退の攻防による、破壊に次ぐ破壊の嵐が、巨大な着弾跡や爆発跡、草木が禿げあがるほどの激しい火災の跡、落下した鉄球の穴ぼこなどが、両国の陣地彼方此方に散見される。塹壕のいくつかは無人のまま機能を停止し、豊富な栄養に肥え太った鼠の巣と化していた。

 視線をプロアニア側に向ければ、雑草の中に蠅が集っているのが見える。それが彼らの隠れた背の高い草木の間に点々と残されており、僅かに草から覗く手はいよいよ白骨化が始まっていた。


 これらの耐え難い異臭と惨憺たる光景に、両陣営の兵士は日に日に憔悴していく。新兵が現れてはパニックを起こして要塞に突き返されるカペル王国は慢性的な人手不足で、プロアニア王国の兵士は度重なる興奮剤の服用で手が痙攣したまま敵を睨む兵士達が草原の中を這いまわっている。


 その悲惨さにおいて類を見ないこの戦場で、全滅した塹壕の中でぼんやりと空を眺める半目は、生えてきた雑草や、土の下にいるはずの幼虫などを手で鷲掴みして口に運んでいた。

 幼虫は元より不味くはなかったが、雑草の苦みや異臭などはとうに気にならなくなっていた。彼の足先に蠢いている蛆虫の類は、彼自身が目を逸らし、思考の外に置いていた。彼の頭上は、かつて彼に激しい攻撃を与えた砲弾が通り過ぎ、けたたましい発砲音と共に放たれた機関銃の弾が飛び交う。敵にとってもこの場所が戦略的に無視されているのだと理解してからは、彼も無意味な攻撃をする気にもならない。

 食事と呼ぶにはあまりに侘しい食事を口の中で咀嚼していると、キュウ、キュウと鳴く鼠の影が視界の隅を通り過ぎていく。その影がよく言われる敵への蔑称にも拘らず、彼はその鳴き声に親しみを覚えたし、同時に薬漬けになった敵兵にも、不思議な仲間意識を覚えた。


「御馳走は見つかったか?」


 キュウ、と返事をする鼠は、彼の足先にあるものに集っている虫達を啄む。彼はごわごわとした毛並みを爪先に感じながら、諦観の籠った溜息を零した。


「あーあ、俺もご馳走になるのかなぁ?」


 半目は陽光に目を細める。

 息を潜め、もはや助けの訪れないだろうという絶望の中、彼をひたすら勇気づけたのは空模様であった。敵も味方も自分を生殺しにしている状況において、ただ時間が進んでいることを示してくれるのが、雲の動き、月の軌道、太陽の瞬きであった。


 鼠は知らん顔で御馳走に夢中になっている。起き上がる気力もないまま空を眺めていると、ふと、視界の先が薄暗くなった。


(そろそろ迎えが来たか……)


 鼠たちが身を持ち上げ、鼻をひくつかせながら飛ぶように逃げていく。遁走する彼らのような元気ももはやない彼は、不気味な分厚い影を注視して息を潜めた。


 彼は思わず声を上げそうになる。予想に反して、人型とは思えないその巨大な影は、彼の頭上すれすれを通り過ぎていったのである。

 間一髪のところで身を縮こませた彼の視界が、黒くうねる巨大な鎖のようなもので一杯になる。それが彼の頭上を通り過ぎていくと、彼は何度も瞬きをして、空の青が視界に戻ったのを確かめた。


 何が通り過ぎていったのか、彼にはさっぱりわからなかった。ただ、巨大で、平たい、跛行する何か‐‐もちろん、人間などではない‐‐何かが駆け抜けていったのである。その背後からどかどかと無遠慮に足音が響き始める。心臓の鼓動が高鳴る中、脂汗と泥水が混ざった泥濘にぴたりと貼りつきながら、ひたすら呼吸を止める。肺が動くたびに彼の緊張は最高潮に達し、見開いたままの眼は乾いてもなお瞬きを許されない。彼の頭上をプロアニア兵のブーツが駆け抜けていく。まるで何か強力な盾を得たかのように、彼らは続々と半目のいる塹壕を飛び越え、通り過ぎていく。


 ようやく騒々しい地鳴りの音が過ぎると、味方の陣地の方角でプロアニア特有の兵器が放つ発砲音が響いた。機械的で人の技術の入り込む余地のない爆音が、彼の頭上すぐのところで打ち鳴らされている。


(ヴィロング要塞はもう終わりだ。俺たちは負けたんだ)


 諦観めいた安堵感で、彼の鼓動が収まっていく。彼は暫くそうして空を眺めた後、心持ちで多少身軽になった身を起こす。

 温い風が彼の素肌を吹き抜ける。篝火のにおいが、彼の遥か前方から届いた。


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