‐‐1902年春の第一月第三週、プロアニア、ケヒルシュタイン3‐‐
乱暴に消されたホワイトボードの解説は、フリッツの脳裏にはしっかりと刻み込まれた。足元の靴先が反射する光を頼りに、彼は猫背の革靴を追いかけて歩く。
三人は暗闇の中をゆっくりと散策する。広い工場の中には、塗装用の装置や特殊マスク、天井から吊るされた各種の工具などが並んでいる。
アムンゼンはコンスタンツェ青年に、普段の暮らしぶりや研究費捻出の件など、詳細に質問を続ける。フリッツは青年の侘しくも逞しい暮らしぶりを聞くともなく聞きながら、遅れないようにやや歩幅を広めに走った。
「あぁ、そうだ。閣下、そろそろ本題の方に」
アムンゼンは思い出したように足を止める。フリッツも「あっ」と間の抜けた声を上げる。才能ある青年の登場に、本来の目的を忘れ、困惑していたのである。
「宰相閣下のご提案の通りに、科学省と労働省の方で、共同研究を行っておりました件ですが、ようやく試作品が完成したとの連絡を受けましたので、ご案内致しま……」
フリッツは青年が視界に入ると硬直する。電灯が工場のどこかで灯る音が響いた。アムンゼンはフリッツに手を差し出して言葉を促す。青年はきょとんとして、二人の顔を見回した。
思わずフリッツが溜息を吐き、もじもじと手を組みながら、音のした方へと二人を導く。
工場のラインを外れてしばらく歩くと、技術開発室という小さな個室が現れる。個室は厳重な鍵が掛けられており、内部を覗き込むことも出来ない。フリッツが部屋の前で立ち止まる。慌てて駆け寄ってきたスタッフの一人が、鍵束から技術開発室の鍵を取り、一度失敗しながら扉を開いた。
やがて、スタッフが扉を開ける。フリッツは振り向いて二人の様子を伺うと、先程同様に落ち着かない様子で手を構いながら、重い鋼鉄の扉に手をかけた。
扉を開くと、先程の工場とエントランスを隔てるためのシャッターと同様の、灰色がかったシャッターが現れる。スタッフが再び駆け込んでいき、屈みこむと、鍵束からシャッターの鍵を探し出し、小さな鍵穴に差し込んだ。
スタッフがハンドルを回すと、大きなブザー音と共に、シャッターがゆっくりと持ち上がる。シャッターの中から現れたのは、巨大で奇妙な形の車両であった。
アムンゼンはそれに近づくと、巨大な強化ゴム製のタイヤに触れる。弾力のある頑丈な「足」は、彼の手で触れてもびくともしない。
視線を少し上へと向ければ、長く巨大な砲台が取り付けられている。高射砲とまではいかないが、これまで量産車両の微調整品に頼っていた軍用車と比べれば、はるかに巨大で威力のあるものだ。
この高射砲の威力を支える高い耐衝撃性を持っている足こそが、この車両の肝と言えるであろう。
従来の軍用車両は機動力・燃費を重視して、プロアニアの圧倒的な補給力を支えてきた。しかし、それ自体に高い攻撃力が期待できず、また悪路を越える性能が低い点が課題であった。
つまりは、ヴィロング要塞前に張り巡らされた塹壕を前にすると、歩兵突撃に頼らざるを得ないのである。この歩兵突撃は、巨大なマンパワーでごり押すよりほかにはなく、プロアニア兵の消耗も尋常ではないうえ、熟練度の高い兵士も失うリスクが高い。
そこで、アムンゼンは『悪路に耐え得る戦闘車両』という性能を目指して研究・開発を進めるようにという、曖昧な提案をフリッツにしていた。
アムンゼンは車両周囲をぐるりと一周する。砲台を擁する車体は台形に近い。台形の下にある平らな車体から、宛ら足場のように突き出た足の部分は、これまでの車両のような車輪ではなく、履帯を車輪に取り付けることにより、設置面積を大幅に広げている。履帯の内側には車輪が複数並んでおり、莫大なエネルギーでこの頑丈な履帯を駆動させるのだと理解できる。
「機動力においてはこれまでの戦闘車両に遠く及びませんが、その走破性能は非常に高いものとなっていると推察されます。また、副次的な効果として、車体が安定したため、従来よりも巨大な武器を取り込むことが可能となりました」
フリッツは子供のように車体に触れては細部を観察するアムンゼンに声をかける。その仕草が、初老の彼が持つ自尊心をいくらか満たしたらしい。彼はさらに、今度は少し大きな声で続けた。
「履帯による走行は、いわば物体を「引き摺って歩く」ようなものです。それ故、従来の方式よりも非常に燃費の悪いものとなります。それに管理にも一層気を配らなければならないでしょう。しかし、宰相閣下の要望通りの性能は、十分持ち合わせているかと思われます」
アムンゼンは彼の言葉に構わず、車体によじ登り、車内に入り込む。薄暗く狭い車内には、長い一つの座席が、二人分の操縦席となっている。アムンゼンが潜望鏡を覗き込むと、そこには、上機嫌に口角を持ち上げたフリッツと、興味深そうに兵器を見つめる青年の姿があった。
「フランシウム閣下、是非これを実践投入したい。スタッフには増産体制を整えるように指示をしてくれ」
「承知いたしました。では、そのように伝達しておきます」
草原地帯に見立てた緑の車体の中で、アムンゼンは二人の小さな体を、小さな潜望鏡から見下ろしていた。