‐‐1902年春の第一月第三週、プロアニア、ケヒルシュタイン1‐‐
プロアニア科学相フリッツ・フランシウムは、荒涼とした海原を臨む硫黄の臭い漂う海辺に、煙草をふかして佇んでいた。
沈みゆく斜陽に目を細め、彼は苛酷な戦争の終結と、海の向こうにあるムスコール大公国の経済復興とを待ち望んでいた。
彼の出身はプロアニア王国であり、根っからのプロアニア人ではあるが、かつてムスコールブルク大学で学生達と触れ合ったことで、彼には少なくない心境の変化が生じた。
‐‐自由や平等というのも悪くない‐‐
プロアニアに戻れば生涯に渡って口にすることのないこの文言は、こと科学研究において痛感させられたことであった。
プロアニアの学問は合理的である。ある成果を上げるために、ある研究に投資をし、大量のマンパワーを費やす。国王直属の研究機関や、大学という機構による利便性と軍事転用目的での研究は、その開発の迅速さにおいて、勝るものがないほどである。
しかし、研究者たるもの、合理性や、社会への有効性とは異なる研究分野に関心を持つことは往々にしてあるのだ。ムスコールブルク大学の学生たちは、そうした知的好奇心に満ち溢れている。
知りたいことを、知りたいときに、知りたいように知る。こだわりたい研究を、こだわりたいようにこだわって研究する。
およそ馬鹿馬鹿しいほど素直な研究者たちである。しかし、その姿勢が、ムスコール大公国を技術大国足らしめたのではないか、フリッツはそう考えざるを得なかった。
作業服を着た男性が、海岸線をあてどなく歩いている。その胸部には、ハンザラントワーゲンのワッペンが刺繍されている。彼は作業服を着たほかの同僚たちと、新たな軍用車について話している。
フリッツは彼らの言葉を背中で受け取りながら、煙草の煙を深く吸い込んだ。
プロアニアの人々は一様にまじめに仕事をこなすが、楽しんでいるか否かは判然としない。好きでもない仕事を強要されて、果たしてさらに学びたいと思うだろうか?フリッツは短くなった煙草を砂浜に放ると、靴で火を揉み消した。
白い煙が口から零れる。呼吸のたびに深くなるヤニ臭さが鼻腔をくすぐる。彼は足を少しずらし、火の消えた、殆どフィルターだけの煙草を拾い上げた。
夕陽の空を海鳥が飛び回っている。カラスの鳴き声もけたたましく響く。瘴気のような耐え難い硫黄のにおいと、口から零れる酔いしれそうなヤニ臭さ。それら全てが東から迫る暗い空色に混ざっている。
砂浜の上を行く小高い道路で、聞きなれたエンジン音が響く。フリッツは小さな溜息を吐いて、後ろを振り返った。
まだ年若い、猫背の宰相が砂浜の上を歩いてくる。フリッツは後ろで手を組み、股を軽く開いて彼の到着を待った。
「そろそろ参りましょう」
「タクシーも国民車ですか。座席が尻によく馴染みそうだ」
フリッツは渾身の皮肉を呟く。猫背の宰相は仏頂面のまま、彼の後ろについていく。
二人は無言で隣り合って歩く。公開会議室でされるような会話についても、悪意あるものが聞く恐れの多い外部では、口外しないことが望ましい。フリッツとアムンゼンは特に、極秘の研究成果や極秘情報に触れることが多い。うっかり会話をするならば、密閉された空間で、ごく少数の前であることが望ましい。
フリッツが車の前に到着すると、停止していたタクシーが自動で扉を開ける。二人が後部座席に乗り込むと、点滅するライトが消され、扉が閉ざされた。
「ハンザラントワーゲン社まで」
アムンゼンの短い言葉に、制服を着た運転手は手短に答える。
「はい」
車はランプを点滅させて、車道に戻る。エンジンの激しい音と、排気ガスを垂れ流し、海岸沿いから反対方向に向かうために右折をした。
「ウネッザ海域にて、人工の飛行物体が発見されたのをご存じですか?」
アムンゼンは足を組み、フロントガラスの向こうを真っすぐに見つめる。頬杖を突き、ぼんやりと海岸沿いを眺めていたフリッツは、興味なさげに答えた。
「えぇ、お噂には伺っております」
黒い大衆車は海岸沿いから市街地へと入る。海面に映る、暮れなずむ夕日の煌めきはバックミラーに閉じ込められ、茜色の中にガス灯と混ざった電灯が灯り始める。その浮かび上がる光に合わせるかのように、市街地の窓硝子に、明かりが灯り始めた。
「フランシウム閣下は、これをプロアニアでも開発可能と考えられますか?」
猫背の宰相がぎらぎらと目を光らせる。市街地の灯りが灯るのをぼんやりと眺めているフリッツは、手で口を覆い、小さな欠伸をした。
「……失礼。出来ないことはないでしょう。恐らく、レシプロエンジンを用いた飛行体だと推察されます」
「カペル王国の飛行船が前線の補給路を妨害している現在、機動力のあるあの飛行体を開発するのは、我々にとって有益なことだと思います」
(これだから軍人上がりは嫌いなんだ……)
フリッツはアムンゼンを一瞥する。猫背のためか若干小柄に見えるものの、筋肉質でスマートであり、見ようによってはハンサムと言えるかもしれない。一方、自分はよくいるような年老いた小太り男であり、瓶底眼鏡と白衣がよく似合うだろうという風貌である。
外観に見合って、フリッツには二人の精神性が全く違っていることを感じていた。宰相閣下はあるものの利益を奪うことで拡張するために科学技術を用いるのである。フリッツには、それがたまらなく不快に感じられた。元来研究とは、深く掘り下げ、物事の本質を突き詰めていくものである。例えば、彼の専門分野は化学であるが、その研究対象の「小ささ」は、他に類を見ない。しかし、これらを応用することで技術は進歩してきたのであり、一見小さな発見にも、後から使えるように研究を進めるというのも研究の醍醐味である。
「敵国の猿真似など、どうぞご勝手に」と口走りたくなるのを抑えて、彼は生気のない空返事を返した。
「フランシウム閣下、是非見解をお聞かせ願えますか」
アムンゼンは有無を言わせない威圧感でフリッツの眼前に迫る。初老の心臓にはこれが大層堪えるのか、フリッツは額に僅かな脂汗をかいた。
「軍事に関することはわかりかねますが、例えば、飛行物を利用するのであれば、私の専門外ではありますが、話題に上がったレシプロエンジンがプロペラを回転させて推進する機械、或いは、カペル王国の空鯨のような、どうやら空気より質量の軽い物質を内部に満たした飛行体が安定するでしょう。そのほかに考えられるとすれば……例えば、内部の物質を外部に噴出することで、推進力を得るような装置……ではないでしょうか。一方通行なうえ、安定性は悪いかもしれませんが」
「なるほど。即座に開発できそうなのはどれでしょうか?」
逆光を受けたアムンゼンの顔がフリッツに迫る。眉間に寄せられた皺は深く、筋肉質な肉体も相まって、強烈な威圧感を作り出している。
微かな硫黄のにおいと共に、車窓越しに山岳地帯が広がっている。あと数分もすれば、ハンザラントワーゲン社が見えてくる。
「わ、私が関心のあるものは、やはり空鯨でしょうか。第一の装置はそれを飛行させる原理の方を、専門家と検討しなければならないでしょうし、何より情報が不足しています。一方、空鯨の方は、我々ならば浮力には水素を利用すればよいでしょう。あと、解決すべきは推進力と安全性ですかね。燃料消費の観点からも、第三の兵器は決戦級の役割を担えなければ、燃費が悪くなるでしょう」
アムンゼンはゆっくりと座席に戻る。背凭れが唸るほど、フリッツは脱力した体を座席に預けた。
一方的な議論に満足したのか、アムンゼンは目的地が眼前に迫っている、前方を真っすぐに見つめる。フリッツは腹を摩り、きまりが悪そうに視線を山岳地帯に逸らした。
「それについては少し分かりますよ」
突然、運転席の男が呟く。二人の高官が思わず視線を預ける。
交わった視線の先では、年若い男が、白い袋を嵌めた手で、制帽を持ち上げていた。
「運賃をお願いします」