‐‐●1901年冬の第一月第四週、ウネッザ、マッキオ広場‐‐
肌寒さの中で海が波打っている。不気味なほどに静かな海は、今日の食料を吊り上げる小舟を出すことなら許されそうであった。
「セドラの酒が飲みたいっすね」
若い船乗りが揚げたばかりの網を引っ張りながら呟く。中年の漁師は思わずため息を零し、腹を鳴らした。
「余計に腹が減るだろ、やめろって」
マッキオ広場は閑散としていた。観光客を気候の変わりやすい冬のうちに縛り付けて、搾取できるだけ搾取する、あの賑やかしさはもはや過去のものとなった。今は冷たい海の水面が揺れ動く上を、身を震わせながら小舟が漕ぎだすだけである。
マッキオ広場の前に集った漁師の男達も、網から魚を外す作業を終えると、成果物を数え、荒涼とした広場の中央で、魚の血抜きに精を出し始めた。
中年の漁師はバタつくスズキに淡水をかけ、まな板の上でのたうち回るそれの首筋に一刀を落とし込む。首の神経を切られたスズキは、尾びれでバン、と激しくまな板を打つと、直ぐに動かなくなった。
一番多いのはイワシで、船の上から網をかけて回収すればそれなりの数を捕獲できる。彼らはこのイワシたちの頭を切ってドレスにし、貼っていた氷を砕いて入れただけの水に次々と放り込んでいく。
「そういえば、ディエゴの旦那はどうしたんすか?」
若い船乗りが中年に話しかける。彼は空を見上げて間抜けな声を上げた。
「あー、なんか嫁さんが壊血病になったらしいぞ」
「あぁ。壊血病っすか。オレンジ買っていきましょうか」
「だなぁ」
若い船乗りはごくありふれたことのように聞き返す。ウネッザという小さな島では、殆ど柑橘類は薬品と言ってよかった。島の一部には中庭で栽培に成功した柑橘類があるが、これらも今は高額の商品となっていた。
彼らが切り分ける魚も配給券で分配されるのだが、普段よりも貴重品であることは間違いなかった。
「しかしさぁ、海の底に敵がいるってのは気持ち悪いよなぁ」
しめたスズキを三枚におろしながら、中年漁師は唇を尖らせる。ウネッザの土地柄のため、これまでにも包囲戦を受けたことはあったが、今回のそれはおよそ前例がなかった。
「仕方ないっすよ。海の上に出ちゃうと敵も逆包囲されちゃうじゃないですか」
氷で冷やされたイワシたちがぷかぷかと浮かんでいる。若い漁師がまな板の上を布巾で拭うと、生臭いものが彼の掌まで浸食した。
彼はウェ、と短い悲鳴を上げる。マッキオ広場周辺の建物にも明かりがともり始め、元首官邸から現れた役人が、彼らの釣果を記録し始める。配給券を配れるのは、釣果の七割までと決まっていた。
「お疲れっす」
若い漁師が役人に挨拶をする。役人は生返事で返し、魚の品種ごとにメモを取る。こうした毎日のルーティーンならば、昔ながらの書蝋板が記録に大いに役立った。
「スズキは持って帰られますか?」
「いいよ、配給に当ててくれ」
「有難うございます」
役人は非難が来る前に、手早くスズキの切り身を書き込んだ。中年漁師はそれらを氷の上に乗せる。鮮度抜群の魚の肉から、アニサキスがそっと顔を覗かせた。
「えー、えー!勿体ないっすよ!」
若い漁師が非難の声を上げる。中年漁師は彼の頭を手刀で優しく叩き、「我慢、我慢」とあやした。
役人は肩を持ち上げて笑う。書蝋板の上に、スズキは一枚分少なく記録された。
「すんません、うちの若いのが」
若い漁師が無邪気にガッツポーズする。マッキオ広場の水平線にも、赤い光が昇り始めた。
「そんな、いいんですよ。いつも有難うございます。むしろお礼をしたいくらいです」
同時に、黎明の灯の中で、一羽の巨大な鳥が音を立てて飛んでくる。鳥は羽搏き一つせず、鮮やかな赤の光を背景に、轟音を立てて近づいてきた。
その巨大さに中年漁師は目をひん剥く。四枚の羽根が鮮明になると、船の舵のような、巨大なプロペラが目にも止まらない速さで回転している。
「本土からの連絡で、ベリザリオ様が食料を少し分けてくれるという事でした。お二人のご家族も、本土にお送りできますよ」
役人は肩を竦めて笑った。中年漁師は口を開けたままそれを見つめ、若い漁師は目をキラキラと輝かせている。
「すごぉぉ!え、これに乗っていいんすか?」
「女子供が先だ、馬鹿」
我に返った中年漁師が若い漁師の襟を引っ張る。若い漁師は不服そうに唇を鳴らした。
皮の防護帽に茶色の軍服を着た兵士が広場に降り立つ。彼は袋一杯の食糧と、野菜や果物を荷卸しする。朝焼けの空に、頭にかけた大きなゴーグルが光を反射して輝いている。
彼は役人と握手を交わすと、漁師に手を振り、直ぐに航空機に飛び乗った。
「まだ薄暗いうちに立ち去りたいので、直ぐに疎開させたい人を連れてきてくださいな」
中年漁師は、妻を大声で呼ぶ。兵士はゴーグルを付けなおし、驚く彼の妻を助手席に乗せると、颯爽と、茜色の空に飛び立っていった。