表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1901年
100/361

‐‐●1901年秋の第一月第四週、カペル・プロアニア国境、ヴィロング平原‐‐

塹壕の中は最悪だ

泥は撥ねるし服は汚れる

おまけにトイレは垂れ流し!


信じられない地獄には、次々新顔がやってくる!

やってきた傍からいなくなって、また群れなしてやってくる!


鼠の餌が増えに増え、見る見るうちに肥えに肥え

今じゃ要塞は地獄の門だ ほら、見えるだろう?担架が通る


泥を踏みしめ強く押し固め 空を割る黒い落雷を 迎え撃つ


新顔の顔は覚えても無駄さ どうせすぐにいなくなる



 ヴィロング要塞の塹壕には、ひどい悪臭が漂っていた。戦士たちの足元には流れのない泥水が張っており、その上を肥え太った溝鼠が通る。塹壕はいくつも果てしなく掘られたが、それらはいずれも数十センチしか前後しない。その数十センチの隙間にも、新たな防衛装置である鉄条網が張られ、殆ど飛び越えなければ足の踏み場もない。地下の大空洞ばかりが広がり、プロアニア兵も機関銃を構えたまま微動だにしない。


向かい合い対立する双方だったが、酷い有様は全く違わなかった。プロアニア兵は草の中を匍匐して息を殺し、顔が葉で切れて化膿していたし、泥だらけの服を洗う者もなかった。

それだけではない。カペル王国の飛行船は、前線を攻撃するにとどまらず、彼らを飛び越えて背後の補給路へ攻撃を仕掛けるようになっていた。プロアニアの総力戦体制を支える、迅速な機動力を生かした補給路も、飛行船の投擲攻撃によって大いに妨害されることになる。資源の総量では圧倒的に優位であるカペル王国に、補給の面で妨害を受けるのは、プロアニアにとって非常に重篤であった。

かくして、補給が遅れ始めた前線の戦士たちは少ない弾丸と高射砲、さらに少ない食糧を『節約』しながら、敵との睨みあいを続けていた。当然汚れなど気にする余裕はない。排泄でさえ、ズボンを下ろすのも億劫な有様である。

気晴らしに立ち上がることも勿論できない。立ち上がれば矢が飛んでくる。カペル王国の兵士達の矢は、いつの間にかとてつもなく飛ぶようになっていた。


物理的に不可能な高度まで飛び上がるそれを見て、プロアニア人は相手の兵器が変わっていることを思い知らされる。最新鋭の技術で武装した彼らは、自分たちが与り知らない未知の技術に苛立ちを募らせながら、銃後の銃がこちらに放たれないように、草むらに突っ伏して息を殺した。


互いに数センチ進むために、命を数百も数千も失う。泥濘の塹壕から様子を覗く半目も、普段とは違った疲労に苦しんでいた。


戦列は塹壕の疎らに合わせて乱れに乱れており、最も古く、長い塹壕から前進後退を繰り返した結果、古参兵と呼ばれる部類となっていた半目は、浅く年若い塹壕に、殆どすし詰め状態で押し込まれていた。隣の生温い吐息が吹きかかるほどの密着具合で、畑仕事をサボってぼんやりと佇むのが好きな半目にはあらゆる意味で不快であった。

幸いなのは、この塹壕はまだ新しく、泥濘が出来ていないことで、彼の僅か数十メートル後ろにある最も長く古い塹壕では、泥水に当てられた新兵が、塹壕足に苦しんでいた。


 長い付き合いではなかったが、話し相手の鉄兜も、いつの間にか見られなくなっていた。半目も話す気力がなく、勿論探すことも出来ないので、彼は鬱屈した感情をただ抱えたまま、最前線から草原を睨むことしか出来なかった。


彼らの塹壕に向けてプロアニアの高射砲が次々放たれる。その最前線の塹壕を、プロアニア人はまず抑えなければならないからだ。

黒い鉛玉が雨のように降り注ぐのを、半目は既に見慣れた光景として、事務的に処理する。先ず声をかけ、屈みこむ。着弾し巻き起こる砂埃目掛けて、王国の新兵器である急上昇する弓矢で射貫く。軽量化された弓は以前の長弓とは比べ物にならないほど連射性能も高く、砂埃が収まるまでに二発は射ることが出来る。

砂埃が収まれば、正解を射抜けたか答え合わせをする。まこと血生臭い答え合わせは、敢えて誰の矢が命中したのかを確認しないのがマナーだった。当然、相手も次の弾丸を装填している。砲口はやはり半目のいる塹壕に向いていた。


ヴィロングの平原地帯はおよそ迷路の様相を呈している。穴ぼこのクレーターには放置された鉄球があり、炸裂した弾丸が弾けた鉄片もあちこちに転がっている。その上、塹壕には、防衛のために古くから城壁に植え込まれた薔薇のとげとよく似た形の、地を這う鉄条網で張り巡らせている。鉄条網の歪な螺旋は、敵の進軍を躊躇わせると同時に、兵士達の心に絡みついて締め上げた。

半目は息を殺し、天高く飛び上がる弓矢を斜角で放つ。彼の矢は自由に空を飛び、やがて敵陣である一年草の生い茂る中に落下する。自由落下に任せて落ちていった矢が人を射抜くと、その一年草ががさりと波打ち、そのまま動かなくなる。この負傷兵を救助するために動く兵士などは良いカモで、掻き分ける草の揺らぎ目掛けて兵士達はいっせいに矢を放つのである。


半目の攻撃によって、高射砲は報復措置を開始する。砲口は明確に矢を放った半目の方を向き、深淵のような暗く深い嘴の中から、爆音と鉛玉が放たれる。


「来るぞ!」


半目は反射的に声を上げる。彼は屈みこむというよりは殆ど倒れこむようにして、自分目掛けて放たれた砲弾を避ける。弾丸は塹壕を破砕して炸裂し、半目はもろに砂埃を受けた。体中に重い砂がのしかかる。彼は小さく呻き声をあげると、巻き上がる砂塵に咳き込み、片目を開けた。塹壕は立ち上がれないほどの高さまで抉り取られていた。


「ああ……もう駄目なんだろうなぁ」


 彼の足先で、誰かが呟く声がする。ひゅう、と遥かな高さから、高射砲の弾丸が飛ぶ音がする。その音は雑多な爆音や、時折起こる機関銃の発砲音と混ざり合い、耐え難い騒音となった。


(あぁ……)


「俺たち、塹壕の中で死ぬのかなぁ?」


 頭上を仲間の飛行船が通り過ぎていく。敵陣営の下に、鉄球と爆竹の雨が降り注ぐ。


「うまい飯食って死にたいなぁ……」


 半目の足先に着弾音が起こる。巻き上がる砂塵と、飛び上がる長い葉の一欠けら。そして、彼の頭上を兜が通り過ぎていく。血飛沫よりも鮮烈な、赤い火花が飛び散った。


(空が、青いなぁ……)


 雲一つない快晴の空を、一羽の白い鳩が飛び去って行った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ