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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
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‐‐1896年夏の第二月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐

 その日は、いつにも増して不穏な霧が、首都ゲンテンブルクに立ち込めていた。労働者階級の子供たちが配給を待つ貧民街前の配給施設はもぬけの殻で、閉鎖したままここ数か月開くことがない。瘦せこけたプロレタリアートがうつろな瞳で工場へと向かう隣で、宮廷の御用馬車が列をなしてバラックの宮殿に向かっていく。


 アムンゼンは、海相であるラルフ・オーデルスローとともに、御用馬車から陰惨な町の様子を眺めていた。


「今こそ、我々の動く時ではないかと思う」


 二名の同乗は、これが初ではない。いずれも、年上のラルフから誘ったもので、特にこうした瘴気の混ざったような霧が町を覆うときに、彼はアムンゼンを誘ってきた。

 彼は屈強で快活な好色漢で、文人の中にあっては非常によく目立つ。体格が非常によく、筋肉質で、短髪がよく似合う男であるが、アムンゼンはこの男の実直さをかえって警戒していた。


「まずは様子を見ることが先決でしょう」


「そう言っている間にも、国民は飢えて死んでいくだろう。私たちは国を守るために軍人として生きているのだ。この国難も例外ではない」


 ラルフは車窓から覗く景色に視線を向ける。壁に横たわり息も絶え絶えの人々が、子供や貧民だけでなく労働者の中にさえある。確かに国難と言わなければならない、窮迫の事態であった。


「だからこそです。我々の窮状を訴えること、それを第一にすべきです」


 馬車は広い駐車場に到着する。平たいバラックの宮殿前に、次々に閣僚の馬車が連なっていく。


「ことは急げだ、アムンゼン。本当なら馬車ではなく自動車で駆けつけるべきところだ」


 ラルフはそう言い残し、駆け足で宮殿に入っていく。見慣れた閣僚たちが下車をはじめ、シルクハットを持ち上げて挨拶を交わしあう。アムンゼンは一呼吸置いて、全員が挨拶を交わした後で下車を始めた。


 宮殿に入城して直ぐに、彼らは会議室へと向かう。件の小奇麗な会議室では、既に国王が拳銃の手入れをしながら待機していた。


「カイゼル。本日はどうぞよろしくお願いします」


 ラルフはヴィルヘルムに深く頭を下げる。足を投げ出し、リラックスした様子のヴィルヘルムは鼻を鳴らして答える。銃の手入れを終えた彼は投げ出した足を少し縮こめて、安全装置をゆっくりと外した。


「ようやく、待ちに待った好機だね」


「は?カイゼル、なんと?」


 ラルフの無防備な腹の上に、彼は銃を押し付ける。閣僚の短い悲鳴が部屋に響き渡った。


「私のために命を賭けられるかい?ラルフ」


 吊り上がった目が、上目遣いに屈強な海の男を見上げる。ラルフは動じることなく、突き出された銃を掴む。国王が口の端で笑った。


「ヤー、カイゼル」


 ヴィルヘルムは視線を外さずに、銃から手を離す。ラルフは入念に磨かれた銃の安全装置をかけなおし、これを懐にしまい込んだ。


「さぁ、会議を始めようか。この国難を乗り切るための会議を」


 国王はどこか浮かれた調子で言い、玉座に座りなおした。


 家臣たちの挨拶の後、ヴィルヘルムは全員への「労い」を済ませる。一同が顔面蒼白で着座した後、議場には見せつけるような彩り豊かな果物や、脂のよく乗った肉料理が出された。


 閣僚たちは顔を見合わせてどよめく。ヴィルヘルムは朝食の時と同じようにリラックスした様子で、料理を摘まみ上げた。


「せっかく労ってやろうと思ったのに、食べないのか?」


 閣僚たちは慌てて頭を下げ、肉を口の中に押し込んだ。行儀の悪い食べっぷりに、ヴィルヘルムは手を叩いて笑う。


 閣僚たちの多くは、目の前の料理を命令と判断して即座に飲み込んだ。海軍相、陸軍相両名だけが、静かに、味を確かめながら食事をする。くちゃくちゃという咀嚼音が響く中、手をぬぐい、白い手袋をはめなおしたヴィルヘルムは、嬉々とした笑みで話を切り出した。


「世界規模の食糧難、自国の食料自給率が低い我々にとっては、まさに国難と言ってよいだろう。この国難について、どのように乗り切るべきか答えたまえ」


 ヴィルヘルムの初めの標的は農務相であった。直接の当事者である彼にとって、未曽有の食糧難は、仮に国王の要求が無いとしても、頭痛の種であった。


「現状、我が国を下支えしてきた馬鈴薯も、謎の奇病により各地で枯死が頻発しており、特に労働者階級の生活に支障をきたしております。さらに、野菜類も軒並み不作であり、肥料では抗えない干ばつの被害は相当甚大と言わざるを得ません。先ずは経済を下支えする労働者階級の食料確保が急務であると考えております」


 農務相はつらつらと意見を述べた後、視線を外相に向ける。外相は小さく頷き、控え目に挙手をした。ヴィルヘルムが顎で発言を促すと、彼は静かに立ち上がった。


「現在、エストーラ、カペル、ムスコール大公国より、食料の提供はできないかと国書を発送したところです。1週間後には返事が集まることでしょう。とはいえ、今回ばかりは、ムスコール大公国には頼れません。エストーラやカペルとの関係性強化が、重要なこととなりましょう」


 ヴィルヘルムは二度頷くと、短い拍手をする。その後、彼は大層虐めがいのある、科学相に視線を向けた。目が合った途端に身震いをする大臣は、研究所員の一人に耳打ちを受ける。彼は自信なさげに顔を下げると、声を震わせながら答えた。


「我々は化学肥料を用いることで、何とかこれまでの危機は乗り切ることもできましたが、現状の危機を乗り切るために、かねてより計画されてきた水分や温度調整を行う栽培に、研究の注力を注いでいきたいと考えております」


 ヴィルヘルムはつまらなさそうに鼻を鳴らし、科学相から視線を外した。最後に、彼は二人の軍人を顎で指名する。


「ヤー、カイゼル!今こそ我が国の底力を示す時では?私はいつでも、北方の諸国家から穀倉地帯を譲り受ける準備ができています」


 ラルフは立ち上がり、演説の際にするように声を張り上げた。咆哮と見まごう程の、覇気のある声がテーブルを揺らす。一方で、アムンゼンは静かに資料を捲りながら答えた。


「先ずは外相のご活動が功を奏するのを祈りましょう」


 彼の言葉に、ヴィルヘルムは眉根を寄せた。


「随分と保守的だね。君らしい意見を期待したのだが」


 議場が凍り付く。ラルフは直立したまま、ヴィルヘルムから受け取った拳銃に手をかける。ポケットの中の金属音が、静寂に満ちた室内に響き渡った。

 アムンゼンは、刺すようなヴィルヘルムの視線を正視し、口の端で小さく笑って見せた。


「本当にそう思われるのでしたら、私も精進が足りないようですね」


 ヴィルヘルムが顔を歪ませて笑う。ラルフは拳銃から手を放し、ゆっくりと元の姿勢に戻る。ヴィルヘルムは嬉しそうに手を叩き、「では、今日のところはここまでとしよう」と言う。

 王の腰が玉座から離れると同時に、訓練された閣僚たちが立ち上がる。ヴィルヘルムは閣僚たちに耳元で小言を添えながら、議場を歩いて回る。彼はアムンゼンの耳元まで来ると、その肩を叩きながら、閣僚にそうするのと同様に、耳元で囁いた。


「後はお楽しみにしようじゃないか」


「……えぇ、勿論です」


 ヴィルヘルムが手を離し、ラルフにも耳打ちをする。甲高い鐘の音が、低い空の中に響き渡った。


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