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作者: 竹下博志

僕は渚にやってきた。

毎年夏になるとここには来ていて、泳ぎを楽しむことにしていた。

公営の海水浴場なのだ。急に深くなってしまうので、あまり家族連れもいない。

どちらかというと泳ぎに来る人より、近所の年寄連中の散歩コースで、散歩の人のほうが多い。

少し離れたところに有名な観光地があって、遠来の人はそっちに行く。人は少ない。

深いからと言って、だから危険というわけでもなく、海水浴場なので監視員もいる。

水は澄んでいて、人工の岩場がすぐそばにあるせいか魚が多い。ゴーグルとシュノーケルを装着して、プカプカやっていると、半透明なイカの子供が宇宙船のように浮かんでいたり、玉のようになって一つの大きな生命のようなゴンズイの大群、大きなクロダイなんかが主然として悠々と泳いでいるのを見る事が出来る。

おまけにここには、少し沖にイルカの生簀があった。夏の間はイルカショーをしている。

浜から生簀まで泳いでちょうどいいくらいの距離だ。その周囲に張り巡らされたフロートにつかまって、休憩しながらイルカショーを眺めることもできた。

公営なので、使用料は安い。駐車場とシャワー、更衣室なんかを含めても、殆どタダみたいなものだ。僕はここには、いつもは自転車でやってくる。水着のまま家を出て、泳いで、シャワーで塩だけ落としたら、乾かしがてら、また自転車に乗って家に帰るのだ。

本来なら静かな渚に、夏の間だけ、地元局の素人臭いFM放送が地場のニュースを流し、ローカル話が盛り上がる。夏にふさわしい音楽とテンションの高い会話。会話の内容を聞いているわけじゃあない。誰かの声の調子だけを耳の隅で聞いている。子供の歓声。ランチに子供を呼び戻す親たちの呼び声。森高千里の歌う、なつかしい夏の歌。

それらの音は夏の必須。

お気に入りの穴場だった。

 今は夏ではない。寒くも暑くもなく、日差しは優しく、風も穏やかで、過ごしやすい日。

松の緑も見え方が違う。鮮やかな緑に見える。

こんな日は、普通は、隣のスケートボード用のスラロームを転がってゆく車輪の音か、バスケットボールがボードに当たる音がするのだが、今日は静かで、波の音だけが聞こえる。

今日は一日ここで過ごそうと思っている。

今日は車でやってきた。荷物を降ろして、渚まで運んでくる。

カセットコンロ、フライパン、クーラーボックス。

クーラーボックスにはハンバーガーのパティと玉ねぎのスライス、自家製のバンズなどが入っている。ハンバーガーパティは牛肉のミンチを塩だけで捏ねたものだ。

ちなみにハンバーガーに挟まっているのはハンバーグではない。そうした食べ物もあるけれど、それはハンバーガーではない。それは、あくまでも、ハンバーグのサンドイッチだ。

ラップの中に塩とミンチを入れて、手でもんでいると手の熱で脂が融けて、粘りが出て、肉はまとまってくる。それがハンバーガーパティだ。つなぎのパン粉は入らない。玉ねぎも入らない。ナツメグは使わない。玉ねぎはみじん切りにしない。あくまでも玉ねぎは輪切りにして、パティを焼くその横で、パティから出る肉汁を含ませながら、甘く焼き上げる。

味付けは普通のケチャップ、普通のマスタード。これにも余計なものは入れない。

ハンバーガーというのはそれ自体が完成形なのだ。卵かけご飯と一緒なのである。

生卵と醤油、ご飯。海苔はあってもいい。同様にピクルスはあってもいい。

チーズは好みだが、チェダーがいい。香りの強いもの。牛肉の香りに負けないもの。

焼きあがったパティに玉ねぎをのせて、その上にチーズをのせる。のせて溶かす。

玉ねぎは、チーズが接着剤代わりになって、バラバラにならない。

その間にバンズは肉の隣で焼かれている。

バンズの焼き目がゴールデンブラウンに変わったら、パティを挟んで出来上がりだ。

ちなみにバンズはあまり空気の入っていない重たいものがいい。

売っているパンはほとんど空気が入りすぎ、軽すぎる。パンが美味しいのは柔らかいクラムではなく、周りのクラストだ。このクラストがざっくりとブランを感じさせるほどのものがいい。中力に近い粉を塩と水だけでフランスパンのように焼いてもいいが、僕は強力粉にライ麦粉を混ぜる、砂糖は使わず、サワー種は手に入りにくく管理も大変そうなので、発酵用には麹で作った甘酒を使う。オイルやバター、卵や、ミルクは加えない。パンそのものにしっとりは不要。小麦粉とライ麦と塩。ほんのりと麹の香り。この配合で、パンを焼くとザクザクした固い噛み応えのある分厚いクラストとどっしりして力強いクラムが手に入る。

この重たいパンを薄切りにして、トーストすると、固く焼きあがって何にでも合うのだ。

ベイクトビーンズをすくって食べるのは言うに及ばず、目玉焼きを限りなく半熟に焼いて、エッグアンドソルジャーズみたいにトーストに半熟の黄身を絡めて食べてもいい。本格的なエッグソルジャーズはめんどくさいが、こうすれば手っ取り早いのだ。

バターとハムだけのジャンボンブール。トーストが熱いうちに板チョコを挟んで、溶かしたもの。パンオショコラ。板チョコは普通のものでもよし、ラムレーズンや、オレンジピール入りなら言うことなし。

バターを溶かしたフライパンで焼き上げる、グリルドチーズサンドイッチ。それにツナを加えたツナメルト。グリルドチーズサンドイッチの存在は、アーヴィングの‘’未亡人の一生‘’で初めて知った。「この子はグリルドチーズサンドイッチしか食べないの。」

確かに、グリルドチーズサンドイッチだけでも十分一生食べていける。

夏のキューカンバーサンドイッチ。これは悩ましい。トーストすべきか、しないべきか。

PB&J。ピーナッツバターはスキッピーのチャンク。ジェリーは手に入らないから、マーマレードでいい。マーマレードと言えば、チーズとマーマレード。これは、刑事マルティンベックのシリーズで初めて知った。あの登場人物、BMWのBがバイエルンではない車に乗っていた洒落者の刑事は何て名前だったかな?彼がこれを食べていたような気がする。

忘れちゃあいけないブルスケッタ。どれもが柔らかいパンじゃあダメ。

一歩譲って、キューカンバーサンドだけは柔らかくてもいい。

手と顔を脂でギラギラさせて、ハンバーガーを食べ終わると、ポットに入れた熱いコーヒーをコップに注いで飲む。ハンバーガーにはコーヒーなのだ。ホットに限る。夏でもホットだ。

アイスコーヒーとかいうやつ、あれはいただけない。

付け合わせにフライドポテトがあればよかった。

先に揚げ油が冷たいうちに櫛切りにした皮付きのジャガイモを放り込んでから、火をつけておくと、ハンバーガーが出来上がるころには、ちょうどいいころ合いになっている。

油はオリーブオイルがいい。

片栗粉をつけて揚げてもいいが、オリーブオイルならそのままでも十分だ。

ここは袋入りのポテトチップスで妥協する。

 今日はここで一日のんびりと過ごす予定だから、食後は本を読むことにしている。

持ってきたのは、‘’グリーンゲイブルズのアン‘’。‘’赤毛のアン‘’だ。

このシリーズはすべて読んだ。本編でない、アンがちょい役のスピンオフも含めて。大好きなシリーズなのだ。家を作ったら切妻屋根にして、破風を緑にしたいと思ったくらい好きだ。

このシリーズ、最後のほうはちょっと重い。アンの子供たちが戦争に取られてしまって、アン自身も体調を崩してしまう。作者のモンゴメリも晩年は体調が悪かったそうだが、それを反映するかのようだ。一方で、‘’グリーンゲイブルズのアン‘’はその点、罪がない。これが出版社で没にされて、長年お蔵入りだったというのは驚きだが、プルーストのあの長編も同様な目にあったそうだから、何とも不思議な巡り合わせだ。

下手をするとこの二作品は永遠に日の目を見ることがなかったかもしれないのだ。

そう思うとぞっとする。

‘’失われた時を求めて‘’は小説というものが言葉でできている限りにおいて、最も優れているといえる作品である。

あの長さにして、既読感を催す文章が全く出てこない。表現は多彩で、比喩のバリエーションにお決まりのパターンが見られない、比喩を繰り出すにおいて常に前のものと違うものを出してくる。その多くは特別な出来事が起こらないままに進んでゆくが、そこに文章が、これでもかという具合に詰め込まれている。プロット頼りではない。言葉を読ませる。言葉で読ませる。それは作家の何事も漏らさない観察力と表現力のたまもの。丁寧でち密。三次元を文字に落とし込むに僅かな漏れすらない。

一方でアンのほうは多少娯楽的だ。楽しい出来事やユーモラスな会話が楽しめるようになってはいるが、それよりも登場人物の個性が魅力的で、お気に入りの人が何をするのか?何を言うのか?そういったものへの期待という楽しみを与えてくれる。

アンは少ししゃべりすぎで、少し困った子に設定されている。

この少し困った子供が素敵なレディになっていくのを楽しむのは、これ以降の巻であって、この最初の巻では、困った子に振り回されて、マリラとマシューという魅力的な大人たちがどう反応するのかが、見どころになっている。

マリラは厳しいタイプの人間だが、公平の人だ。

マリラがアンを諭すときの言い方や、その内容は、公平さということにおいて徹底している。読む側だってぐうの音も出ない。

こういう言い方をすれば子育ては完全だなあと思わせてくれる。

一方のマシューは素朴な愛の人。

こっそりとアンを思いやり、これまたこっそりと実行に移す。

このマシューの部分は何度読んでもいい。胸が熱くなる。

彼の素朴さを表現する‘’そうさなあ‘’は名訳だと思う。

このマシューと、‘’戦争と平和‘’のプラトンは純真キャラの二大巨頭だ。

この人が‘’赤毛のアン‘’でしか出てこないのは実に寂しい。

が、それ故にこの巻はちょっと特別なのだ。

 物語に夢中になり、ふと気づくと、腕にはめている青いアクティブトラッカーに表示されている数字が3000を切った。この数字は残された人類の数なのだ。今、我々はタスマニアタイガーの様に絶滅してしまおうとしている。

ところで、人類は一度氷河期に絶滅寸前までいったそうだ。

七万年ほど前のことだ。その時は残り2000人くらいまで追い込まれたらしい。

だから、人間のDNAはお互いにとても似ているそうだ。大陸に隔てられていようが、肌の色がどれほど違おうが、隣の山同士のサルのほうがDNAは異なりが大きいといわれるほどらしい。2000人から70憶。全員親戚みたいなものだ。まあもっとも、アフリカの偉大なる原初の母には勝てない。全員兄弟だ。だから今回も2000人くらいまでは大丈夫だといいたいところだが、絶滅の仕方が特別で手の打ちようがないのだ。去年のことだった、いきなり世界の人口の半数が忽然と消えた。そう、消えた。空中に?どこに?

どこに消えたのか、なぜ消えたのかわからない。いや、こんなことはわかりようがない。

それから、二週間ほどたって、また半数が消えた。これで、四分の一になったわけだ。

こんな感じでどんどん減っていった。

残されたわずかな人たちが知恵を出し合い、解決に当たったが、無理だった。

このようなことを理解し、阻止することなんて不可能だ。諦観。無力感。やけっぱち。

残された人たちはすでに確定した未来に向かって、一瞬一瞬を、今を、普通の生活を精一杯生きるということに集中しだした。そうでもしないと、やりきれない。先のことを考えても仕方がない。大切なのは今この瞬間なのだ、いつ自分が消滅してしまうかわからないから。

といって、特別なことができるわけでもない。普通の生活を普通に送りながら、それを楽しみ慈しむことが、人々にできる精一杯だった。普段のQOLを上げること。残りの人生を楽しむこと。そして、みんな大人しくなって。変な話だが、穏やかになった。何をしても無駄なのだから、というわけでもないのだろうが、自分を、人生を見直して、愛した結果、他人も愛せるようになったのだ。政府はご褒美をくれる。個人所有の解除。

新たな物の製造はできない。人員がいないから。

でも、人類も少なくなったので、今ある分だけで十分なのだった。

それをみんなで分け合おう、というわけだ。

どこに行っても食べるものは手に入る。店に行って、自由に、有るもので好きなものを取っていい。新鮮な野菜は難しくなったが、冷凍ものでも十分なのだった。エネルギーは自動運転に入った。新たな燃料は望めないが、これも多くを生みだす必要はない。細々と運転して、これもまた十分なのだった。ガソリンスタンドは誰もいないが、自由に出し入れできる。その前に、鍵が付いたままで、まだ走れる自動車があちこちに置いてあるのだった。どこの家にも鍵はかかっていなくて、好きな場所で寝る事が出来た。

人類が残り少なくなったその時に、皆が最後に残る人のために協力し合ったのだった。

誰が消えてだれが残るかわからない。

自分は先に消えて、自分の愛する人が残るかもしれない。

その時に、その人が困らないように。

願いを込めて、家の鍵を開け、車には鍵をさし、商店主は店を解放した。

 昔、こんな小説があったらしい。やはり人類は滅亡しかけていて、それでも皆が穏やかに、人生を慈しんで、残された生を静かに生きている。

その小説と状況は似ていた。世界のどこかで、誰かが、オン・ザ・ビーチと言い始め。

オン・ザ・ビーチは世界中の合言葉となった。

 だから渚に来たわけじゃないけどね。

こんな日に快適に過ごそうと思ったら、ここが一番に思い付いた。

そこで一番好きなものを食べようと考えたら、それは自分で焼いたハンバーガーだった。

生のジャガイモが手に入ればもっとよかったけれど。

一番好きな本を読もうと思ったら、‘’赤毛のアン‘’だった。

それだけだ。

この街にもう人間は僕一人だった。これが以前なら・・・

 「どうでした?CEO?」

早朝のオフィスでCEOと呼ばれた若い男は明るい表情だった。

「なかなかいい目覚めだよ。」

「ありがとうございます。」

応えた男はかなりの老人だが、背筋はまっすぐで、その精神もまっすぐに見えた。

「人が人にやさしくなれる夢を見させる装置。夢というのは、なかなかの臨場感だね。かつて、小説や映画がそれを試みたが、これほどの臨場感は得られなかった。」

彼の腕には青いアクティブトラッカーが装着されている。これが睡眠中の人間にある種の夢を見させるのだった。その腕をちょっと振って見せて、

「朝起きてきて、最初の人間にあった時のうれしさと言ったら、特別だね。普通のことがこれほどありがたいとは思ってもみなかった。」はにかんだ、だが穏やかな笑い顔。

「はい。この商品は試験の時点でも大成功でした。でも私が一番驚いたのは、この商品を売り出したときに希望者が予想以上に多かったことです。夢をコントロールするというのはいかにも胡散臭いやり方でしたから。」

「それだけ、多くの人が、他人には優しくありたいと願っているということか。ともあれ、大成功だ。おめでとう博士。」

「ありがとうございます。」

 博士と呼ばれた老人は部屋を退出する。

長い道のりだった。まだ子供のころだった自分に託された思い。

いや、あれはこういうことではなかったのかも知れないが。

でも、あの優しい老人が、私に語り掛けたのだ。

メルボルンに居た頃、近所に住んでいたあの優しい老人。

いや、老人と呼ぶには若すぎたろう。

今の自分はその人が亡くなった年齢をとうに過ぎている。

大好きだった、あの老人。あとで教えてもらった、あの人は本を書いていたのだと。

‘’渚にて‘’。そんな題名だったと思う。

忙しい人生だったから、実はきっちりとは読んでいない。

理解しているのはその精神だ。直接本人から聞いたのだ。あの人は本にその思いを託した。

私は別のものに。そして次は誰かが、後を継いでくれるかもしれない。

どのような形になるのかはわからないが、私がそれを見ることはないだろう。

でも、やり切った。それだけは自信がある。

自分のオフィスに戻ってくると、写真の息子に今日の出来事を報告する。

もういない息子。若くして、ある怒りを抱えたデモに参加した。大きなデモだった。

そこで、どう間違ったのか、命を絶たれてしまったのだ。

その怒りはもともと愛に根差していたものだ。どこで間違えてしまったのか?

愛と正義感。正義感という化け物は人間を呑みこんでしまう。

どんなひどいこともさせてしまう。

悩みぬいた人生だった。そしてある日、あの老人の言葉を思い出したのだ。

忘れかけていたあの老人の言葉を。


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