side ミーミル②
人の生活を、豊かにしたかった。幸せに暮らしたかった。魔法はそのための力になると思った。
ゆくゆくは、魔法という存在そのものの価値をかえてゆけたらとまで考えていた。
夢だけは大きかった。大志はいつでも胸にあった。かつての同僚と袂を分かっても、仕方がないとまで思っていた。
森の中に家を構え、ひたすらに研究を重ねた。幸いその無謀を可能にするだけの力が僕には存在していた。
人一倍多い魔力は、僕に時間を与えた。人よりも長い寿命を活用し、僕は研究に明け暮れた。
それでも、どうしても、どうしようもなかった。
ああ、また、うまくいかない。紙を握りつぶす。全くまとまらない脳内をまとめるように、掌に収まるように握りこんだ。ぐちゃぐちゃなままの、頭の内容物がそのまま紙ににじみ出てしまったようだ。
どこに力を働かせればいいのか。どんな力を使えばいいのか。どうしたら望みのものができるのか。分からない。
息抜きになればいいと思った。
僕の知らない世界の知識を持っている彼女に、賢く頭の回る彼女に好感を抱いたのは事実だ。新たな刺激を受ければ、僕の脳内にも、今までとは違った芽が生えてくるかもしれない。
そう思っていた。そう思っていた。
老いも若いも、性別すら関係なく、誰だって指先一つで何でもできた。
そうして、それを可能にしたという「カガク」という摩訶不思議な力。世界を満たす、カガクの力。
彼女の語る世界の話、カガクのはなしは、僕のどうにもならない部分のささくれを、物言わさずにむしり取る。
そうかそうか。
君の世界の「カガク」とやらは、ずいぶんと幸せな使い方をされているらしい。
僕がどんなに研究をしても、どんなに追い求めても手に入らないものを、彼女はたくさん抱えてこの世界に来た。
それが、僕は、どうしようもなく。
そんな世界から来たのなら、きっと僕たちをあざけ笑っているんだろう。
それでも、それでも彼女は不便を受け入れて暮らしていた。この世界での生活は、ここでの生活は、彼女にとっては不便なことばっかりだろうに。それなのに、文句ひとつ言わないで。
ああ、文句のひとつもあれば可愛げだってあるのに。
栄えた都市に住んでいた人間が、息抜きついでに田舎に遊びにいく。知っている余裕で知らないことを楽しむ。
そういうことなんじゃないか。
そんなことを思いついたら、彼女のすました顔すら、腹の底を波打たせるように思えた。
「ねえ、聖女様」
「はい、ミーミル様」
彼女の笑顔に、貼り付けた笑みに、口元の弧に、僕はどうしようもなくなってしまったのだ。
どうやって生きてきたんだか。
どんな女なんだか。
どうしてそんな風になったのだろう。
そんな目で僕を見るんじゃない。
ぐるぐると渦巻く言葉は僕の中で絡み合って、やがて一つの言葉に形を変えて、僕の喉を縛り上げた。
「指先ひとつで、なんでもできる世界なら、君の世界の本には、何が書いてあるんだい?」
ぼかりと無防備に開けられた瞳は、すぐに僕を捉えて虹彩をすぼめた。
なんだその目は。輪郭のぼんやりとした茶色の虹彩は、まっすぐにこちらを見つめてくる。
見つめかえしても揺らがないその瞳は、彼女の性質を表している。想像以上に気が強く、一筋縄ではいかない。頑固で頭が堅いのかと思えば、搦め手も使い、こちらを翻弄する。
その瞳が、細くひそめられる。
「……なにを、おっしゃって、いるのでしょうか?」
震えていた。吐き出された言葉は普段よりも振動を大きくしていた。
その振動は僕の腹の底をくすぐって、口から飛び出た言葉は、少し上擦っていた。
「あっはっは。言葉通りの意味ですよー。ねえ、聖女、サマ?」
息を、吸って、吐く。
彼女の口から漏れた言葉は、いつも通りの振動数に戻っていて、そのことに少しだけ僕は落胆した。
にこりと彼女が笑みを浮かべた。
「……ミーミル様は、本をたくさんお持ちなのに、あまりそちらを読まれることはないのですね」
「……何が言いたいのかな、聖女サマ?」
「言葉通りの意味にございます。それとも、ここにある全ての御本が、これら全てが、ミーミル様の自著でいらっしゃるのでしょうか? 流石稀代の魔法使い様。著作の数は計り知れないものですね。
ご自分の考えのみで周りを固めたら、さぞかし心地がよいことでしょう?」
彼女の笑顔が、あんまりにも綺麗に整えられたものだったから、もういっそその頬を打ってやろうかなんて馬鹿げた思考が頭をよぎった。
脳のしわの少ないかわいこちゃんが、きれいごと並べて胸を張る。
わたしの世界には、前はかつては、と鳴き喚く。
そんな女だと思った。
だから、僕は。
すましたその表情がぐちゃぐちゃに崩れてしまえばいいと、そう思ってしまったのだ。
ここは、と彼女がかすれた声を吐き出した。
見ていて気持ちのいいものではないだろう。
君のいた世界には、もっときれいで、整っていて、そういうものが当たり前だったんだろう。
うく、と彼女の喉が鳴った。少し血の気の引いた顔を見て、少しだけ喉のつかえがとれた気がした。
「ね、聖女様。多分、勇者くんは連れてきてくれなかったでしょ?
ううん、もしかしたら王侯貴族様が使ってるような、王立の医療機関には行ったことがあるのかもしれませんけどねぇ。ねえ、どうですか? これが、僕らの世界の、ありのままなんですよ」
僕らの世界のありのまま。
僕の家から場所を変えたその先。町中の診療所である。その内部。
茶色く染まり、乱雑に並べられた敷布の上に、無造作に患者が並べられている。敷かれている布は、もはやもとの色を伺い知ることはできない。いろんな種類の液体にまみれ、黒々しい色を晒している。
もともとは白かったのかもしれないが、それも今や過去の話となってしまったのだろう、壁には飛び散った液体がこびりつき、落ちぬ染みを作っていた。窓のない部屋は、喉奥をねばつかせるような、よどんだ空気を蓄えていた。申し訳程度の部屋の明かりが、こちらの不安をあおるよう、息も絶え絶えに切れかけている。
患者たちのぐちゃぐちゃの傷は、布を当てられたままになっている。そこから滲んで垂れた体液に、蠢く虫が幾匹も集っていた。
通路と呼べる空間など存在しない。看病をしている女たちが、患者を跨いで歩いている。ばらばらの格好をしている彼女らに紛れ込んで、露出の多い格好をした女たちが、好き放題に中を闊歩し、花を売る。ねばついた粘着質な音が物陰から響いている。
怪我人を抱え、走りこんできたものが顔を引きつらせる。それでも、他に行く当てもありはしない。
一杯に声を張り上げるが、ろくろくまともな手当てなどできるはずもない。抱えられてきた怪我人は、無造作に入り口の近くに転がされてしまった。
助けてくれと、誰かと、救ってくださいと。
苦しい、痛い、誰か。誰か。誰か。
喚く声が、叫ぶ声が耳から脳を侵食する。ぐわんぐわんと脳が揺らされる。
「ね、聖女様。ああ、聖女様。
貴女は僕らを、救ってくれるんでしょう?」
ああ、吐きそうだ。




