23.化粧と香油とおおうつけ
「お化粧……?」
浅いガラス容器に入れられた、クリーム状の半透明な橙色。彼女は指先でそれをすくって、手の甲に乗せる。
薬指で手の甲にこすりつけるように伸ばし、さらって肌に乗せた。鼻にこびりつくような油のにおいの中に、少しだけ甘い香りがした。蜜蝋だろうか。
下地にしているのだろう。クリームを塗った肌の上に、パフで白粉をはたいていく。均一に肌の上に粉をまぶしたら、頤付近の鱗たちに、黄色く粘度のある液体を重ねていく。色味と輪郭の落ち着いた彼らに、また白粉を重ねる。液体を塗り、白粉をはたく。
その作業を何回か繰り返せば、頬に浮き出る鱗の主張は、随分と大人しくなった。
ほう、とわたしが息を吐き出せば、目をすがめた彼女が、鏡越しにわたしを見つめた。
「……なによ、文句でもありまして? 見ていて面白いものでもないでしょう」
「い、いえ……ただ、その、すごいなぁ、って。その化粧の方法は、ご自身で?」
化粧を終えた彼女は、道具を一式片付け終えると、その近くに置かれていた小瓶を手に取った。傾けられた小さなガラス瓶からこぼれたのは、花の香りを集めたような、鼻腔をくすぐる香りをした油だった。
麗人はそれを掌に広げると、両の手に広げ、髪に揉みこんだ。花の香りを刷り込むように丁寧に櫛をかけると、彼女の髪は光を反射して、きらきらと輝いた。ふわふわとした灰褐色の髪を顔の輪郭を覆うように配置する。
持っていた櫛を机に置き、彼女は鏡の中の、鱗の消えた自分の姿を満足そうに見つめていた。
「そうよ、誰が教えてくれるというのかしら。鱗を隠す化粧の方法なんて」
ぽつり、と吐き出すような声色だった。
その声色で、わたしは彼女のやわらかい部分に触れてしまったのだと理解した。
「……浅学で申し訳ございませんが、そういった特徴を分かりにくくするような、そういった魔法は存在しないのでしょうか」
「いくら鈍い貴方でも、もう気が付いているでしょうけれども……人間には存在しない鱗に尾っぽ。わたくしは「魔族」です。なんならわたくしの服の中にしまい込んでいる羽もご覧にいれまして?」
魔族。
話には聞いていた。わたしの思い描いているホモサピエンス、つまり人間とは違う特徴を持つという種族。
魔王を冠し、長年人間と争ってきたとされる種族。聖女としてのわたしが相手取るはずの種族。
隠された彼女の鱗と、長いスカートにしまい込まれた尻尾。
確かに、彼女はわたしにはないものを持った違う種族なのかもしれない。
同じように言葉を話し、同じように瞳を揺らし、目を細めて微笑む彼女は、わたしとは異なる生き物なのかもしれない。
それでも。
わたしは、そんなこと、どうでもよかったのだ。
背筋を伸ばして椅子に座る姿が、ぴんと揃えられた足先が。わたしには彼女がとても眩しく見えたのだ。
それだけでよかったのだ。
同じ人間にすら、違う違うと排斥されたわたしが、今更種族の違いだなんて、そんな些末なことを気にするはずもないというのに。
わたしが微笑みかけると、灰褐色の髪を持つ麗人は、その赤い瞳を丸くした。
「いえ、淑女の肌を晒させるわけには参りませんから。」
「……同性同士なのに何を言っているのかしら。あなた、本当にわたくしの求めている反応をいただけないのね。」
「申し訳ございません。わたくし、生憎人の心を読み解くのが苦手な性分でございまして」
「まあ、それは困った性分ですのね」
交わした言葉の応酬に、ため息をついた彼女が立ち上がり、わたしを振り返る。椅子とスカートに窮屈そうに押し込まれていた彼女の尻尾が零れ落ちた。その先端が床をたたいた。
彼女は自分の髪にまとわせた香油の小瓶を手に取ると、その中身を掌に垂らす。両の掌で揉みこむと、花のような香りがわたしの鼻孔をくすぐった。
彼女は揃えたつま先を床に落とし、流れるような動作で椅子から立ち上がった。椅子に押し込められたスカートを、彼女の尻尾が一撫でして、そのしわを落としていった。
「魔法の話に戻りますけれども、あるにはありますの。
「認識阻害」の魔法というのですが、対象の形を別のものに見せるといったものですけれども、そう、そういった魔法は存在していますの。だけれども、わたくしの様に……あまりにも魔族としての力が強くなりすぎると、魔法を使ったとしても人間に擬態するのが難しくなるのです。
形は真似られても、中身があまりにも違いますもの。」
彼女の指先が、わたしの髪に伸ばされる。手入れを怠ってぱさついたそれは、久方ぶりに与えられた養分を逃がすまいと飲み込んでいく。
ふわりふわりと、ひどくもろいものを扱うような手つきで、彼女の指先がわたしの髪に香油をもみこんでいく。
両ほほを過ぎて髪を触る、彼女の手から甘い香りが漂っていた。
「……なるほど、いくら見た目がみすぼらしかろうと、賢者は賢者であることを隠せないということですね。」
「貴方、面白いことを言いますのね」
「貴女様が、面白くないことを申したからです」
「……貴女、変なお方ね」
ひとしきりわたしの髪に香油をもみこむと、彼女は満足そうに頤を上下させた。
わたしの髪から離れていったのは、よく見ればわたしのものより水かきの広い、それでも細い指が行儀よく並んだ掌だった。
そこでわたしは初めて、彼女の背がわたしよりも高いことに気が付いた。
「それはよく言われます。けれども、初対面の相手の髪を気遣ってくださる貴方様も、なかなかどうして、そうではないでしょうか」
彼女は赤い目を瞬かせた。
そうして、わたしを見つめて、彼女は微笑んだ。
灰褐色の髪を揺らして、赤い瞳を細めた笑みは、とても魅力的だった。
「……わたくし、負けたくなかったのです。」
肌の水分不足に髪の手入れ不足。さらには寝不足と運動不足まで指摘される。
つま先から髪の毛まで、通り一遍、それこそひととおりひとしきり全て足りていないのです。そうお小言をいただいていた時である。
ふ、と思いついたように彼女の唇からその言葉が零れ落ちたのだ。
「負けたく、ですか?」
こぼれた言葉を拾い上げたわたしを、彼女はわずかに細めた瞳で見つめた。
「ええ。この鱗はわたくしが魔族として生まれた以上、ともに在りつづけたものなのですもの。言葉通り、わたくしの一部なのです。
わたくしが人間の世界にいるならば、この鱗がわたしを苛むことになることは、最初から分かっておりますの。確かに、この鱗を厭い、生まれを呪うのは簡単です。だけれども、それだけならば誰にだってできるもの」
彼女の華奢な指先が、頬をなぞる。今は薄くなったその主張を、いとおしむような爪先の動きは、やわらかな洋菓子をつまみ上げるように繊細だった。
「わたくしはこの姿を疎もうとも。負けたくはなかったのです」
頬から離れた指先が、そっと揃えられて下ろされる。そのたおやかな動きと、伏せられた睫毛の長さに、わたしは思わず息をのんだ。
美しい人だと、こころの中に生まれた言葉をかみ砕いて、飲み込んだ。
何度も湧き上がる言葉が、脳髄を刺激するのが少しくすぐったかった。
「……わたしは、化粧については詳しくありません」
「でしょうね。あまりにも不足分ばかりですもの。全く詳しくないか、詳しくて形にしていないおおうつけか。そのどちらかですもの」
「……そこについては、明確な断定は避けさせていただきます。わたくしがおおうつけか莫迦者かは藪の中でございます」
くすくすと口元を押さえて笑う姿をみて、わたしはもう察しがついていた。
「ただ、貴方の努力についてはわかります。誰も方法を教えてくれないその中で、研鑽を積み、そこまでの形にするには、わたしの想像を超えるような努力があったのでしょう」
きっと、わたしはこの美しい麗人に、どうしようもなく好意を抱いてしまっているのだ。
だから、零れ落ちた言葉が、とてもやわらかな響きになったのだと思う。
「わたしにはその努力と貴方の心根が、とても美しくみえるのです」




