19.稀代の魔法使いさま
初めてシグルド様と街を散策してからはや数日。
まだ両の手で数えられる程にしか時間が経過していないことに、若干の驚きは覚えつつも、異世界の日常はわたしを包み込み、否が応にでもわたしの日常をその色で染め上げた。
加え、時間の経過と経験の蓄積は、肩の触れ合う距離感への耐性を生んだ。街を目指してゆらゆらと走る、馬にもワニにも似た生き物が引く車に乗りながら、わたしは感覚への意識配分をなくすために、車のショックアブソーバーとスプリングのそれぞれの必要性について思いを巡らせていた。
今日街に降りたのはほかでもない。勇者様曰く、わたしに会わせたい人がいるのだという。
「今から私たちが会いに行く人物は、稀代の魔法使いと呼ばれた人物だ。魔法の実力は天下一品。その隣に並ぶものはいないとされている。その魔法の力は、人知を超えたものとなっており、何年も年を取らず若いままの姿で変わらない。私が幼いころから彼のことは知っているが、確かに彼はずっと若いまま変わらないんだ」
それこそファンタジーの登場人物。その存在だけで一本小説が書かれそうな人物ではないか。
ふむ、とわたしは脳内の矢印を勇者様の発言内容に向けた。
わたしの視線に気が付いたのだろう。勇者様は小さくうなづいた。
「しかし、まあ、何というかね。偉人に逸話は付き物ではあるんだが、どうにもこうにも癖の強い人物なんだ。
基本的に飄々とした態度を崩すことはないし、警戒心が強いというか、人を試したがるきらいがある。頭の回転が良すぎるからなのかもしれないんだが……そんな性格だから、王立の魔法研究所の者たちとそりが合わなくてね。いまではこうして町の外れで一人気ままに魔法の研究をつづけている、そんな人物なんだ。」
人の生活圏からすこし外れた森の中。用があるものしか寄り付かないような場所。
そこに目的の建物は立っていた。
木造の建物である。窓の数は少なく、二階建ての様ではあるが、あまり大きな建物ではない。うすぼけた紅色の屋根や、木造のくすんだ茶色の壁には蔦が這いまわり、古ぼけた印象を強くしている。
それでも、周りに作られた菜園や、水をくむための井戸の様子を見ると、きちんと手入れをされていて、行き届いた生活をしていることがうかがえた。
「ミーミル殿、いらっしゃるだろうか」
勇者様はノックもそこそこに、その建物の扉をあけ放った。
扉についていた呼び鈴が、澄んだ音を立てて家主を呼びよせた。
シグルド様の暴挙にも慣れっこなのだろうか。家主はやれやれと頭をかきながら、奥からやってきた。
「勇者様、いきなり来られても僕にだって用事があることだってあるんですよー。気ままな隠居生活に見えるかもしれないですけどね、こう見えて僕も結構忙しいんですか……おや、そちらの女性は……」
美しい人だと思った。
男性を表する形容詞としてふさわしい言葉なのかどうかはともかくとして。
錆青磁色とも称されるような、すこしぼやけたような淡い緑色の髪が、艶めきながら左肩を通り、体の前に流されている。切れ味の鋭い刃物で引いたような、細くひそめられた瞳。それを覆う銀色のフレームの眼鏡。長い髪とその顔立ちから、女性ではないかと錯覚してしまうが、顔立ちに似合わないしっかりとした肩幅が、彼が男性であることを如実に語っていた。
年齢は確かに不詳であった。立ち振る舞いや声の調子は落ち着きを感じさせるが、間延びした口調と、つるりとした顔立ちはその落ち着きを打ち消して、推測を困難にさせていた。
ファンタジーの世界の賢者が身にまとっているローブの様な服の上に、白衣のような裾の長い羽織を身に着けている。
稀代の魔法使い。そう称されるのにふさわしい雰囲気をした男性だった。
「ははあ成程成程。勇者クンが連れてきたそちらの女性が、今回の聖女様、と。そういうわけなんですねー」
話の矛先がこちらに向かい、はたと気を取り戻したわたしは、ぺこりと頭を下げる。
頭を下げる瞬間、ちらりと上目遣いで彼を盗み見れば、彼のモスグリーンの瞳がこちらを値踏みするように射抜いていた。
名前と、聖女であること。異世界から来訪したこと。それから、身柄は国預かりになっていて、勇者と騎士団長の管轄下に置かれていること。わたしの簡単な紹介をして、それと、と勇者様は言葉を続けた。
「彼女は読書が趣味のようだから、貴方と話が合うだろう。もしよかったら―――」
「いやですぅー」
にべもない。取り付く島もない。
ばっさりと目の前の男性はシグルド様の言葉を切り捨てて、にへらと胡乱臭く口角を釣り上げた。
「……は?」
呆気にとられたのか、シグルド様の口は無防備にも開け放たれていた。
それを意にも留めず、稀代の魔法使い様はにこにこと笑っている。
「んんーだってですねぇ。僕としても書物のことについて話ができれば嬉しいんですけどねぇー。ほらぁ、いるじゃないですかー。趣味が読書ですーとか言っておいて、実際何読んでるのか聞くと、他に趣味がないからとりあえずそう言ってるだけなんですーとかいうヒトぉー。本が貴重だからって、そう言っとけば頭よさそうに見えるとか考えてるんじゃないですか? 僕あれどうかと思うんですよねぇ。あんまりにも読書を軽視し過ぎじゃないのかなあって。ねえ勇者サマ、そう思いません?」
すごくすごくすごく分かる。
わたしに向けられた言葉ではないので、あまり大仰な反応ができないのがもどかしかった。
でもすごくわかる。ぶんぶんと首を振って頷きたい。
できるならその手を取って固い握手を交わしたい。
読書という言葉を逃げ道にしている人のなんと多いことか。おかげで地球ではESの趣味欄に読書と書くのは、面接官の印象を悪くするのでやめましょう、なんてアドバイスをもらうことになる始末だ。読書が好きです、と公言している人と仲良くなれるかもしれないと思って、本の話を振りに行ったら、読んでいたのがネットの会話掌編と漫画だけだった時の気持ちがご理解いただけるだろうか。
「……君たちの言いたいことは、あらかた理解した」
ぎらぎらとしたわたしの目の輝きが伝わったのか、勇者様は大きく息を吐き出して頭を押さえた。




