1.疲れてしまったの
ふう、と息を吐きだした。
人の少ない図書館の空気は、こともなげにわたしのため息を飲み込んだ。
小難しい心理学の用語が並んだ画面を疲れた目でにらみつけても、そこに綴られたレポートの文字数が増えることはない。
わたし……綴葉 文は凝り固まった眉間を指でもみほぐし、おおきく伸びをした。
「……つかれたなぁ」
綴葉 文は大学生である。大学2年生という花も恥じらうモラトリアム。
しかし、映えだサークルだといった、イマドキの大学生が嗜むようなものには、わたしはとんと無縁である。
一度も染めたことのない髪の毛に、最低限施された化粧。
日銭や学費を稼ぐバイトと、大学の課題に忙殺され、残りの時間は読書に充てているわたしには、そういったキラキラした世界とは縁なく過ごしていた。
『え、綴葉サンSNSやってないの? ガチ? 今時そんなヒトとかいるんだー』
『あ、でも、なんかわかるかも……綴葉さんって、なんかあたしたちと違うよねー』
『わかるー絶対バラエティーとかインスタとか見なそー』
『本がコイビトって感じだよね、ブンゴー?にガチ恋してそー。んで、イマドキの俳優(笑)とか思ってそ』
『わかるー! カビた本こそ至高、みたいな。古いヤツこそ推せる!みたいなー』
『まあ、イマドキさ、本とか(笑) ガチで読んでるヒトとかいないと思ってたわー』
耳の奥で響く嘲笑めいた声。珍獣を見るような舐める様な目線。
同じゼミの学生と、何がきっかけでそんな話になったのかは覚えていないが、なまぬるい態度はしっかりと記憶に根付いてしまっている。
逃げるように図書館に滑り込んだわたしは、大きくため息をついた。
疲れたのだ。疲れたのだ。
違うことは不幸だろうか。同じことは幸せなことだろうか。
流行りのアイドルの出てくるドラマに感嘆し、人気の曲を鼻歌で歌い、皆が夢中な漫画の展開に大盛り上がりする。大学の講義をいかにさぼるかに苦心して、最近売れている俳優に似ているとサークルの先輩の一挙一動に大騒ぎする。
やばいすごいと脊髄から吐き出して、通り一辺倒のカワイイカッコイイを口にする。
古臭いものはみっともなくて、温故知新なんてくそくらえ、そんなものなんだろうか。
今ドキのメイクや、最新のファッションのことだけが必要な知識なんだろうか。
文豪は格好悪いものだろうか、埃の匂いのする本は汚らしいものだろうか。
なんだか、とても疲れてしまった。
本は、わたしの支えだった。
本はいろいろなことを教えてくれた。
過去の人々の発見や選択、方法や失敗。思想に哲学。
本にはいろいろな世界が詰まっている、というのは月並みな表現ではあるのだけれども、わたしにとってはまさしくその通りだった。
その本が集まり、所狭しと群れを成す図書館は、わたしにとってはまさしく宝島、桃源郷と言っても過言ではなかった。
両親との死別。たらいまわしの転居、厄介者のレッテル。
どこに行ってもわたしは邪魔者で、息をひそめていた。
ただ、たいていの町に存在している図書館だけは、わたしを拒まなかった。
図書館は本を求める者を受け入れる。
その絶対条件が心地よくて、他に居場所のないわたしは足しげく通ったのだ。
斜陽がちりちりと空中のほこりを光らせ、文字を追う指先から延びる影が、紙の隙間に落ちていく。
呼吸の度に鼻を抜けるほこりと紙の匂い。
お行儀よく本棚に並べられた背表紙が、カーテンの隙間から差し込む光に照らされている。
だれかが走らせるシャーペンの筆記音が、わたしのまぶたを押し下げようとする。
「……疲れちゃった」
「そうだよね、そうだよね。全部おんなじぃんじゃ、それこそディストピア。ZAPZAPZAP。違うものは処刑されてもおかしくないなんて」
突如頭に響いた声に、弾かれたように顔をあげる。困惑を乗せ、わたしの唇から零れた吐息はひどく乾いていた。
鈴を転がすような声が脳を揺らす。
「疲れたでしょ? もうやんなっちゃったでしょ? 違うものが排斥されるなら、そもそも最初から異なることは罪であると、誰か教えてくれたらよかったのにねぇ」
頭を内側から殴られているような不快感。眩暈が全身に回り、顔をあげていられない。
座っているのに、足の裏からばらばらと落ちるていくような感覚。
「だからさ、そんな世界にいっちゃおっか。違うものをやっつければ、誰もが喜んでくれる夢のような世界だよ、ね、うれしいでしょ素敵でしょ垂涎ものでしょ?」
崩れた、と遠くなる意識の片隅が捉えていた。
「だからあんたは行くのよ、ここではないどこかに! ね!」
その言葉を最後に、わたしは意識を失った。