本編
夢を見た。夢見ている。手が届いたのは、過去の僕だ。
0。プロローグ。
京都駅から、JR奈良線に乗り、京阪に乗り換え、叡山電鉄に乗り換え、バスに乗り換え。
「……ようやく着いた」
本日は雨天なり。けれど、バス停から歩く間僕は、一切退屈できなかった。岩に生す苔が雨に映えた。雨粒が傘を叩く音が、山間部特有のひんやりとした空気を飾る。これほど無心で歩いて、目に映る景色全てを写真に収めたいと考えたのはいつぶりだろうか。僕はまるで初めて東京に来た田舎者のように、あちこちを眺めながら歩いていた。
しかし、今日ここを訪れたのはこの綺麗な思い故ではく、不純な理由であった。それが少し気まずい。それを思い出すとなんとなく、道中すれ違った人達――おそらくこの道にある料理店などの人たちだろうか――目を合わせないようにしてしまう。
そうして、時折霧雨の降る空を見上げ、岩肌を眺め、道の隣を流れる川を見つめながら歩いた。スマートフォンが到着を示し、僕は顔を上げる。
――息を飲んだ。平日の早朝故人影が見えない鳥居に、一人の少女が背を預け、空を見上げていた。
夢のように思えるあの時間でも、あの瞬間の感覚だけは、鮮明に思い出せる。
触れてはいけない、見てはいけないものを、見てしまったような気がした。あの時の僕は、古都の山奥で、世界の中心を見ていた。
1。雨音は遠く。
ただ意味もなく忙しいだけの日々に救いを求めて、ここに来たはずだった。けれど、そんな日に僕は初めて、祝福された世界の色を知った。
ぼうっと立っていた僕に、彼女はさすがに気がついたようだった。
「……どうか、しましたか?」
「……あっ、いえ……」
ごまかそうとしたが、うまく言葉が浮かんでこない。咄嗟に口から出てきた言葉は、普通の僕なら言うはずのない言葉だった。
「いやあの……綺麗だと思って……」
そんな僕の言葉に、彼女はきょとんとした後、思わずといった感じに微笑んだ。
「ふふっ。ありがとうございます。本日は……結社の方へ参拝でしょうか」
彼女はいたずらっぽく言って、また笑った。言い当てられてしまった僕はあたふたしながらも、彼女が笑うたびに起こる感覚に戸惑っていた。
世界が揺れていた。木々がざわめき、雨が目立ち、光が動く。日差しは雲に隠れているはずなのに、空が眩しい。
「あの、その……そうです」
僕がそう答えると、彼女は優しげな表情を浮かべて言った。
「それでは、私が案内しましょうか? 私結構ここにくるんですよ」
会ったばかりの人にそんなことを頼むのは気が引けたが、実際この神社のことは何もわからず、お願いすることにした。
鳥居をくぐって、階段を登り出した彼女を追って僕も歩き出した。
「今日は雨なので、いつもよりきれいに見えます…」
「そうなんですか……?」
「私もあまり数を重ねて来ているわけではないので、知ったような口をきけませんが…私が覚えている中では今日が一番きれいに見えます」
「へぇ……」
僕がそういうものなのかな、と首をかしげていると、彼女は笑って補足した。
「この神社は水の神様を祀っている神社だそうですよ。神様の名前は憶えていないのですが……何回も来ているのに失礼ですね、私」
彼女の冗談じみた口調に僕は少し笑ってしまった。それにつられたように彼女も笑いだす。しばらくの間、階段の真ん中で二人して笑っていた。まるで僕ら二人が世界の中心になったみたいで、よくわからない、もどかしくて、温かい。幸せと形容できるようなものを感じていた。
雨音は、遠くに聞こえる。
2。雨の陰に薄れ。
それから僕たちは本宮を見て回り、なんとなくお守りを購入して、参拝してから神社の奥のほうにある鳥居をくぐって外へと出た。途中見かけた川と小さな滝を見て話したり、少し細めの道に意外とたくさんあった店の外観の感想を言い合ったり。普通の人からすればありきたりな場面といわれそうだけれど、こうやって誰かと語り合うのが、意外と僕は初めてだった。
しばらく進み、もう少しで結社です。という彼女の言葉に静まった空気の中、僕はふと気になって聞いてみた。
「そういえば、さっき何回もこの神社に来ているって言っていましたけど……どうしてそんなにここへ……?」
すると彼女は一瞬表情を曇らせ……すぐに向こうを向いた。
「それは……ですね」
―――その時、鋭い風が僕を背後から襲った。
「…………で……」
風音に紛れて聞こえてきた彼女の言葉は、わからなかった。
「え……?」
思わず聞き返すと、今度は取り繕うように焦った口調で「ただ神社が好きなだけで、ここが地元だからです」と答えた。
なんとなく顔を合わせづらくて、うつむいて歩いていると、急に隣から悲鳴が聞こえてきた。
「どっ、どうしたんですか!? その傷……」
「え……?」
強く見つめられている右頬に手をやると、ぬめっとした感触が返ってきた。慌てていると、彼女がポケットからティッシュを差し出してくれたのでありがたく使わせていただいた。
「えっと……なんでだろう……」
「私には……」
結局気まずいまま、結社らしき神社の鳥居の前まで来てしまった。
先行していく気にもなれず、立ち止まった彼女の後ろで黙って立っていることしかできない。ふと、冷えた空気の存在感が増したように感じた。
「―――私は、幸せなはずなんです。」
「……え?」
唐突に彼女は語り始めた。
「私は、地球上の誰よりも幸せ者のはずです。もう、何も背負わなくてもよくなった特別な存在のはずなんです。なのに、わからないんです。わからなかった」
けれど、と彼女は続ける。
「まだ諦められないんです……! 名も知らぬあなたは、幸せは何だと思いますか? 特別が幸せなのでしょうか。お金ですか? それとも家族ですか。女ですか。あなたは……人は、一体何が幸せなんでしょうか」
彼女は、必死に叫ぶように、けれどこの静かな雨に隠れてしまうくらいの声で、そう僕に訊いた。そんな彼女の問いに、僕はあまり思考せず、答えた。
「僕には……何が幸せなのかなんてわかりません……けれど」
―――もう一生口に出せないような言葉だった。それくらい、あの時間が好きだった。
「僕は、あなたと会って、あなたと話して、あなたと歩いた時間が、初めて幸せと確信した時間です」
どれくらい時間が経ったのかわからなかった。
彼女は僕を見つめて驚きの表情で固まっている。雨が強くなってきたせいだろうか。彼女の髪や服や目元が雨に濡れている。そんな彼女を、素直に僕は綺麗だと思った。
しばらくして、彼女は目を細めて、泣き出しそうな表情で言った。
「よかった……間違いじゃ、なかった…!――――」
雨が、風が、目が開けていられないほどに強まる。
言葉の続きは、彼女の姿は、雨の陰に隠れ――
――僕にはわからなくなった。
3。雨音に声は響かない。
呆然と立っていることしかできなかった。平日の早朝故か、参拝者がほかにいなかったのは救いだろうか。目の前で起きた超常現象を信じるか、自身の記憶を疑うか。
やっと見つけたはずの幸せは、口に出して消えてしまった。収まってきた雨の粒をつかもうとして、つかめなくて、指先に落ちた雨粒を磨り潰す。頬の傷は、いつの間にか消えていた。
ふと、彼女の名前を知らないことに気が付いた。いつの間にか、容姿の特徴もあまり思い出せない。大切なものが僕のどこからか漏れ出している気がして、階段の前でうずくまった。
やっと見つけたものが消えた事実を信じたくなかった。初めての幸せの確信を圧倒的な存在に否定された気がした。
「……結局、何もわからないじゃないか……!」
僕の声は、雨音に負けて、消えた。
4。エピローグ。
京都駅から、JR奈良線に乗り、京阪に乗り換え、叡山電鉄に乗り換え、バスに乗り換え。
「……ようやく着いた」
本日は雨天なり。けれど、傘をささずに歩いた。今日も、言葉探しの日々を続けている。
あの日であった彼女の記憶は、この場所と、あの声と言葉だけになった。もう僕には、わからなくなってしまった。
あの記憶は、写真では陳腐で、語るにはわからなくて。結局、自然にわいてくる言葉を探している。
冷えた雨と空気は、何も語らない。今の僕は、何も語れない。
「――幸せって、なんだろうな」
――夢――
夢を、見たい。
誰かわからない、素敵な人と一緒に願う夢を。
どこかわからない、素敵な世界を歩く夢を。
うまく書けない、けれど鮮明な世界の夢を。
起きた時に、少し微笑んで、温かいと感じる胸に手を添えるような。
ふと思い出して、けれど言葉が思いつかずに情景に縋るような。
夢を、見た。
苦しみもあった。失敗もあった。
けれど、幸せで。大切に溢れていて。綺麗な景色を好きな人と眺めて。
僕は、夢を見たい。