壊れそうで壊れない(短編版)
「澪は何にする?」
横並びの俺に、父がメニューを開いて傾けながら聞いて来る。
「レディース御膳」
それしかないと決めていたので、俺は見もせずに速攻答える。
六人掛けの掘りごたつ席で、素直は向かい側の窓際で陽射しを浴びながら外を眺めていた。
近頃の小学生は年齢より大人びているイメージだったが、素直は小柄なこともあり、小さな子どもに見えた。
そうかと思えば、こちらを見ようともしない横顔に深い陰影があり、あどけなさのようなものはどこかに置き去りにしてきてしまったアンバランスさも感じた。
素直の隣には、ゆるくパーマのかかった髪を几帳面そうに首の後ろでまとめた理香さん。向かい合っているのが父。その右隣、通路側に俺。二対二で向き合っているけど、素直の正面と俺の正面には誰もいない。少しずれている。
「素直は?」
理香さんもメニューを開いて娘に見せようとしていたが、窓の外を見たままの素直はそっけなく言った。
「カツカレーのカツ抜き」
俺は思わず父を見た。
(店選び間違えてる)
カツがメインのチェーン店だ。ファミレスほど安くはないが、畏まった店ではない。明るいし騒がしいし気さくな雰囲気がある。うちの親子は度々利用していた。しかし、今日のメンツ向きではなかった。
父も気付いただろうに、顔色は変えなかった。一色さんは、と理香さんに声をかけ、二人でメニューについて話してから、テーブルの奥にある呼び出しボタンに手を伸ばした。
目の前に父の腕が伸びて来たのは気付いただろう、素直が伏し目がちにちらりと見た。睨みつけたようにも見えたが、一瞬だったのでよくわからなかった。
初顔合わせはそんな風にはじまり、適当に時間をかけてカツを食べて、お開きだった。
「休みなんだし、映画とか行けばいいのに。わたしは一人で帰れるし」
店の前での別れ際、俺が精一杯声を作って「わたし」と言うと、父は「うん」と頷いたが、肯定ではなく否定の響きがあった。
俺は出先から寄り道しながら帰るのは全然問題なかったし、自分で鍵をあけて家で一人で留守番するのもわけなかったが、小学生の素直はそういうわけにはいかないらしい。
(ところで、それだと恋人同士の時間はいつ作るつもりなんだろう、この二人)
あまりにも早い解散だったが、「今日はすごく楽しかったわ」と理香さんに微笑まれて終わった。化粧っけはないが、肌が綺麗で父より十歳は若そうに見えた。目元のきりっとした美人。その美人が、俺を見てさらに笑みを深めた。
「綺麗にしてきてくれて、ありがとう」
デニムの着物に、椿と梅の刺繍の入った半襟、アンティーク風の名古屋帯は赤地に扇と秋草模様。帯留めは清水焼のターコイズブルーの椿。足元は編み上げのブーツ。襟足長めの髪は軽くワックスで整え、大振りの彼岸花みたいなコサージュをしている。顔の方は、眉毛を整えて口紅を塗った程度だが、食事をしたときにとれてしまったかもしれない。
小学生の頃から通っている茶道教室のお姉さま方が「澪くん絶対似合うと思っていた」と気合を入れて着付けから仕上げまでそつなく飾り立ててくれた成果である。
俺は、優しげに見えるように意識してにこりと微笑んでみた。
そのとき、素直が鋭い視線を向けてきた。
「澪さんって、どこの高校?」
俺? なんでいきなり? 一拍置いてから声を作りつつ答えた。
「南高」
ほんの一瞬、素直は目を瞬かせた。長そうな睫毛がばさっと揺れたように見えた。
「頭いいんだ」
「どうかな。入学したときはね」
一応近隣では一番の進学校と言われているので、嫌味にならない程度にさりげなく言う。
ふーん、と、素直は気の無い返事をして、それまでと同じように横を向いてしまった。
何を見ているのかなと視線の先を追ってみたが、交通量の多い道路を車が流れているだけだった。
向き直ると、素直がこちらを見ていた。かたちの良い唇を開いて、はっきりと言った。
「澪さんの連絡先、ください」
*
一色さんの娘さんの素直さんのことだけど。
前の旦那、実の父親から虐待があったらしい。
それで、大人の男が苦手だそうだ。
「別れて正解だね」
その後に出会ったのがこの父で良かった、とは思った。
父一人子一人の環境で暮らしてきたけど、悪くない男だろうなと息子ながらに思う。
とはいえ大人たちは、当面再婚は考えていないという。それこそ素直が独り立ちをしてから、まだそういう関係であったらというのが理香さんの希望らしい。
それでも顔合わせが企画されたのは、けじめの為らしかった。
理香さんは恋人がいることを娘に隠したくなかったし、打ち明けた以上は相手がどういう人かを知っておいて欲しいと思ったそうだ。
事情は飲み込めた。
この先、二人が再婚し、連れ子たちの関係が「兄と妹」になっても、兄妹らしく接したり一緒に暮らすことはない。顔を合わせることも、ほとんどないかもしれない。だからこそ。
わがままを、どうか聞いてほしい、という打診に関しても。
「ずっと、お姉さんがいたらいいな、と言われていたの」
理香さんは父にそう打ち明けたらしい。
しかしそれでは騙すことになる、と言えば「そうよね」と話は終わったかもしれないのだが、「大人の男が苦手だ」と聞いていた父はひそかに動揺していたのだという。
「澪は。名前も名前だから不自然ではないし、小さい頃から茶道をしていたせいか身のこなしもそつがないし。あれで結構、協力的な性格をしている」
かくして「一度会うだけだし、先方の希望ならば」ということで、俺は顔合わせに「お姉さん」として同席することになったのだった。
連絡先としてアプリのIDを交換したのは予想外だったが、予想が甘かっただけだ。
(お姉さんが欲しかったとして、俺がそこそこ良さげなお姉さんに見えたら、そういうこともあるよな)
自分としても気にかかる存在ではあるし、相談事があるならば力になりたいとは思うが。
何気なくはじまった淡い関係は、直接顔を合わせたり話すことはないものの、週に何度か最近読んだ本や、面白かった映画の話についてやりとりしつつ、細く繋がっていた。
一緒に茶道教室に行ってみたいと言われたこともあるが、(姉さん方は事情を知っているから俺の女装にも付き合うだろうし)「時間が合えば」と快く受けたりもした。それでも、なかなか実際に会おうとまではならなかった。
大人たちもまた、いつ会う時間を作っているのだろうか? と思うほどにマイペースに付き合っていた。どうも、理香さんが素直に一人で留守番をさせるのが嫌なようで、父もそれはもっともだと思う性格であり、進展しようもない関係にも見えた。
しびれをきらしたのは、素直だった。
――澪さん。クリスマスのご予定は?
――特にないよ。
――じゃあ、一緒にどこかいきましょう。じゃないと、あの二人お互いにまっすぐ自分の家に帰ってしまいます。私たちは二人でいるので心配しないでディナーでもと言ってあげたいです。いいですか?
*
厚手の白のコットンレースの着物、ペールグリーンの半襟。帯は白系、正面に寝転がっている黒猫。トルコブルーの帯締めに、繊細な銀線細工に緑の石の嵌った帯留め。中に重ね着もしていたがそれでも寒いので、真っ赤なウールの羽織りも借りて、上から自前のグレーのマフラーも巻いた。
待ち合わせの午後四時に駅前に向かったら、紺色のダッフルコートを着込んだ素直が先に来ていた。
俺を見ると、長い睫毛に縁どられた大きな目をみはってから、ほんのりと小さく笑った。
「澪さん、クリスマスっぽい」
「うん。茶道教室の姉さん方に色々借りちゃった。身長があるからね、かなり誤魔化しながら着ているんだけど」
と、ブーツを履いた足で宙を軽く蹴り上げる。短めの裾がひらりと翻った。
それから、白い息を吐き出している素直と向き合った。
「寒かったでしょ? お店入ろ」
ついてくるように目で促しながら歩き出すと、小走りに近寄ってきた素直が見上げてきて言った。
「来たばかりです」
「あはは。デートみたい」
つい、笑ってしまってから、前を向く。
ふと、素直が少し遅れていると気付いて肩越しに振り返る。
ついてきてはいたが、色白の頬がカッと赤く染まっているのが見えてしまった。
(え…………?)
なにその反応。素直さん? 素直だけに?
「わたし友達と出かけるときはそこのカフェよく行くんだけど……。いつもの感じで向かってた。どこか行きたいところあった?」
途端、俯き加減だった素直ががばっと顔を上げた。
「そこがいいです!!」
「トドールだけど」
「それで!!」
今の誘い文句に、そんなに食いつく要素あった?
小学生よくわからんな、と思いながら歩き出して、ふと気づく。
(誰かいるかも。危ないかな)
女装を冷やかされるくらいならまだしも、素直の前で男だとバレるのはいかがなものか。
「あー……でも友達いたら微妙だな」
ややわざとらしくはあるが、音量大き目の独り言を口にする。
「何がですか? 連れがですか?」
そのまま方向転換しようとしたのに、ぐいぐいと胸元まで寄ってこられてしまった。
なんだこの迫力。
「連れはべつに。しいていえばこの格好」
「ものすごく、ものすごーーーーくお綺麗ですけど!?」
そして何故そんなに力が入っているのか。
「そう……? それじゃいいや。どうせ他あたっても、どこも混んでるだろうし。しかし最近は暗くなるのが早い」
肩を並べながらアーケードの下を歩いていたが、早足の男が前から近づいてきたのを見て、素直の肩に軽く手を置いて引き寄せた。
「!?」
「ごめん。ぶつかりそうだったから。こっち歩きな」
そのまま、位置を入れ替わり、道路側から店側へと素直を誘導する。
「澪さん……。エスコートがお上手ですね」
「んん?」
妙にしっとりと感心されてしまったが、おそらく小さな頃から茶会などで着物の姉さんたちと出かける機会があったせいだと思う。気風の良い人が多く、何かと子どもを目にかけてくれるのだ。
そんな話をしながら目指すカフェのすぐそばまで来たとき、恐れていた事態に遭遇してしまった。
ちょうど、店内から同級生男子三名がドアを押して出て来たところだった。しかも向かってくる。
辺りは少し薄暗いとはいえ、着物姿はただでさえ人から見られる。あいつらもまず間違いなく見る。
ばれる。
「知り合いだ。まずい。やり過ごすから、適当に合わせて」
言いながら、俺は額をおさえてふらりとその場にしゃがみこんだ。
(あんまり大げさにやると、あいつら意外と親切だからなー。声かけられたらどうしよう)
なるべく目立たない感じがいいな。
両手で顔を隠しながら俯いたそのとき。
突然、がつっと素直にしがみつかれた。いや、体格差を無視して横抱きにしようとしている!?
「死なないでください……!!」
おい、どうしてそうなる。
さほど人通りが多くないというのに、ざわっとした空気が伝わってきた。
「しっかりしてください……!! こんなところで……!!」
確かにこんなところでしゃがみこんだ俺が悪かったよ、ろくな打ち合わせもしてないし!?
「え、どうしたんですかそのひと」
なんか知った声が聞こえた。絶対に知っている声だ。そう思いながらも、もはやひくにひけない俺は顔を合わせてなるものかと死んだふりに徹することにした。
意地が伝わったのか、素直も意地になったように涙声で言った。
「誰か……! 誰か助けてください……! 誰か!!」
ああ……。
そういえば最近セカチューの映画見たって言ってたな。微妙に古くない? なんてやりとりをした。
でもなんでここでそれ……。
薄れゆく意識の中で聞けたら良かったんだけど、べつに全然どこも具合悪くない俺の耳にはハッキリと周囲のやりとりが届いていた。
「ん、あれ!? 澪!? おいどうした澪、お前なんか持病あったっけ!?」
そしてしっかり同級生にばれました。
*
知り合いに見られたくないなんて言われたら傷つきます。
同級生はひとまず追い払い、何故か拗ねまくっている素直に謝り倒して、ファミレスで夕食をとり、午後九時。
大人たちと合流して、女性二人を家に送ってから帰途についた。
素直にはバレたかな、バレてないかな、微妙だな。
そんなことを思って家についてすっかり着替えてから、スマホにメッセージが入っているのに気付いて確認する。
素直からだった。
お兄さんとお姉さんが同時にできたみたいで嬉しいです。
ありがとうございました。
少し考えてから、二人でファミレスで自撮りした写真を送っておいた。
ありがとう。