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人にやさしく

作者: 松山 雨季

一二月中旬。河原町はいつにもまして華やかに賑わう。

普段から人が多いこの通りに、それが日本人であっても外国人であっても、これほどまでに統率をとれない群れが溢れかえれば、車いすを押すにも十二分に根気が要ったに違いない。

少し進んでは頭を下げ、また進んでは同じである。実際にそれをするのは後ろの松田であって、私のすることと言えば、ふてくされた顔をしながら流れゆく町の浮ついた雰囲気へ無差別にアンチテーゼを投げかけるばかりであった。

歩道はフラットに整備されているが、それでも車いすはガタガタと軋む。

それはいかにも私の人生の様だ。問題なく大学に進学できたかと思えば、今は覚えられないくらいご立派な名前のついた病気にかかって体が悪くなっていく。

錆び付くスピードは人も車いすもそれぞれバラバラで、私の場合は早く、この車いすも支給されたのは三ヶ月前だったが、彼の寿命も残り少ないのだろう。



「車いすさ、交換した方がいいよな。壊れてからだと遅いし。」

松田はアーケードに吊されたサンタクロースの装飾に目を向けながら言った。

「次に外出許可をもらった時には新しいやつを押すよ。」

「いいよ、俺もそんなに長くないから。」


私は平気な素振りで言ったが、本当に平気だったのだ。今日と変わらない明日を待つ日々が二十年続いて、そのサイクルがもうすぐ終わると考えれば、大した問題ではない。

今日は昨日とは違い、病院から久しぶりに出られたわけだが、特別嬉しいという感情がわいてくることもなかった。


松田は私に付き合ってくれていることをすっかり忘れて「そろそろ帰ろう。ここまで連れてきてもらって悪いけどさ、用事もないし。松田が何か見たい物でもあったら付き合うけど。」と言ったが、彼は何も返さず駅の方に向かい始めたので私の言い方が気にならないようだった。


「松田、悪いけどタバコ買ってきてよ。赤マル。それがなかったらいいや。どこのコンビニにも置いているからさ、たぶんそこにもあるし。」

「お前絶対医者に怒られるぞ。」

「彼らも必死の延命治療だからね。けど、当の「患者自身がこの調子じゃ彼らの頑張りも虚しいだけだ。」


松田はコンビニに入り、指定したタバコとライターを手に持って戻ってきた。

「ここに来るのも反対されていたぐらいだし。それに、お前がタバコを持って帰ってきたって誰も驚かないな。」松田はそう言った。

松田の優しさはこういうところだと思った。



私は一人で病室を占領できた。だからと言って寂しいと感じることもない。金さえ払えば病人も悠々自適な暮らしが送れる平和な国である。

窓の外には冬の乾きに耐えきれない芝が色を変えているが、等間隔に並べられたクスノキは年中無休で葉を支えている。

私はそのどちらにも属さずに、一定して沈んだ面持ちでいる。私という存在は、この国に似つかわしくないやつだと思う。


では松田はどうだろうか。

親しい友人は彼しかいないのだが、実は彼についての多くを私は知らなかった。

知っているのは学部と年齢と私の病院のすぐ近くに下宿していること。他はスヌーピーが好きなこと。

反対に彼が私について知っているのは実家が裕福であることぐらい。

それに気づいたのも私の病室に来たときで、私たちは入学式の時にたまたま隣に座っただけの希薄な関係を盲目なまま何かで繋ぎ留めている二人なのだ。

その何かとはそれを知る必要がない、知ってはいけないという不文律だと思うのは、実際には関係を繋ぐ何かなど存在しないからだ。

私にとって松田とのルールはこの世界と私を繋ぐ、「まだ死にたくないな。」と思わせる糸の一本だ。

 

そして、そう思わせる糸はもう一本ある。

その糸は儚く今にも切れてしまいそうな糸である。

その糸は私から伸びてもう一方の点では結ばれていない糸である。

はじめから片側では結ばれていない糸は脆く、それでいて頑丈だった。

私が窓の外に見える芝の茶色の様に染まってしまっても憂うことなく今を生きているのは、十六歳だった青年が経験した恋のせいだった。

実ることない果実を切望しながら苗に水をやる様でいて、明らかにピースの足りないパズルをそれでも完成させようとする様でいて、だから私は最初から何もせずにいたわけだが、それを今でも悔やみながら恋い焦がれる私は、やはり愚かだ。

実際に十六歳の私は年齢だけ重ねた体に居座って、フィナーレを目前に結局なにもできないでいる。

カーテンを閉めて日光を遮った。部屋には花瓶なんてない。

あるのは綺麗なベッドと汚く見える私だけで、そんな私は瞼を閉じて制服をまとった青年の思い出に身を委ねた。


 

加藤麻衣子は高校進学と同時にこちらに移り住んできた。

地元は東京で、だから地元の公立高校に入学した私はもちろん彼女のそれまでを知らなかった。

周りも同様に彼女について何も知らない。

だが彼女はすぐ環境に馴染んだ。ずっと一緒にいたと錯覚させる振る舞いは、私にとってセンセーショナルでアバンギャルドだった。

私はそんな彼女に恋をして、もちろん周りも同じく彼女に恋をした。

そして五月に入り、彼女は一つ上の誰が見ても好青年に映る先輩と交際を始めた。

それから少し経った頃からだった。夕方までの彼女は長い黒髪からシャンプーの香りを漂わせるのだが、放課後はタバコの匂いをまとわせるようになった。

有数の進学校である私の高校では彼女のような存在は類を見ず、それを受け入れられない者も中にはいた。だが彼女の美貌は誰もが認める必要があり、少なからず私は彼女に抱いた想いを終えることはなかった。

彼女がマルボロを挟む指は細く長く伸びて、彼女がそれを咥える唇は薄く淡いピンクが真っ白な肌にそっと映える。彼女はその指を彼氏の頬に沿わせて、その唇を彼氏の頰に近づけていくのだろうか。

私はそんなことを想像してはやるせない想いを抱き、押し殺し、平然とした態度で毎日を消化した。


いつかの日、彼女が同じクラスでない私の元にやってきてブルーハーツが好きなのかと訪ねてきたことがあった。

私には音楽の共感ができる者が周りにいなかったのだが、彼女も同様であった。彼女は私の音楽の趣味を聞きつけてここに来たのだと言う。

数分間話をした後に彼女は自分の教室に帰ったが、その次の休み時間にはまた私の元に来て、同じイヤホンでブルーハーツを聴いた。

彼女は大袈裟に首を振ってシャンプーの香りを撒き、私の興奮を煽った。

教室中は友人のいない私が彼女と二人の空間を共有していることに驚いていた。

しかし、私と彼女はそれがきっかけで親しくなることもなく、その数分間がもたらしたのは、それまで以上の彼女への想いだけだった。

言い訳できない恋心が私の中でふくれては無理に抑え込む。学校で見る彼女の洗礼された美しさは日を追うごとに輝く様で苦しさは増すばかりであった。

十六歳の私には何もできずにいて、結局卒業までの間、彼女を遠くに見ることしかできなかった。

そして卒業と同時に彼女はこの地を去り、もっと遠くの方に行ってしまった。


病衣を着る大学生の私は今も制服の彼女に想いを寄せる。

何故だろう。

思い出すのは彼女のなびく黒髪でもなく、そこから漂うシャンプーの香りでもなく、憧れだった彼女が吸うマルボロの匂いだ。


松田に買ってもらったそれをポケットに入れて屋上まで行こう。

私はベッドから起き上がろうとしたが、体に全く力が入らなかった。

これほどまでに容態が悪くなっていたとに気づかなかった自分を情けなくなく思う一方で、もうすぐその苦労もなくなると思えば少し嬉しくもなった。

 

松田は自宅にいるだろうか。

たかが起き上がる作業が、私にとっては難しい。

彼に電話をしてみるが出ない。留守番電話サービスにつながってしまう直前のところでコール音を切った。

 力は後どれくらい残っているのだろうか。

歩けなくてもいい、這いずってでも屋上に行ってやろう。そう決心すると、不思議なことにすんなりと起き上がれた。

結局のところ気合いさえあれば人間の体なんて動くのだと知った。

ベッドから抜け出し、一歩目を進める。

何も苦しいことはない。

二歩三歩と足を前に出して廊下を進み階段まで、そしてそこまで行くと、それまでと同じように一段ずつ足をかけてゆく。どんどんと私は自分の力で上ってゆく。

どこまで行けるだろうか。先はすぐそこにあるはずだが、私には見えていない。

目線はずっと足下に向いている。

この階段を上る作業が最後に課された使命であるように感じる。

人は皆、最後に階段を上る使命を課される。それを遂げて次のフロアへ到達するのだ。


気づけば階段は終わっていて目の前には屋上に出るドアがあった。ノブをひねって前へと押し出し、その勢いで体も外へ放った。

屋上には誰もいなかった。私一人である。一番遠い手すりのところまでいって体をそこに預けた。

ポケットの中からマルボロを取り出してビニールを破く。彼女はボックスだったのか、ソフトだったのか。私の手にはボックスのマルボロが握られている。松田がタバコと一緒に買ってきたライターは安物で火がつきにくかった。それほど風が吹いているわけではなかったが。

六度目でようやくタバコに火がついた。煙を加藤麻衣子がやっていたかのようにくゆわせる。

立ち上る煙は日光に照らされて、風に吹かれてゆく。それは東京の方角へと消えていった。

ポケットの中から松田からの着信を知らせるサウンドが流れてきた。

私は咥えていたタバコを足下に落としてそれに出た。

「もしもし。何かあったのか。」

「いや、もう済んだよ。松田、時間ちょっといいかな。」

「大丈夫だよ。」と彼は言った。


「俺は彼女が大好きなんだ。でも彼女には誰が見ても格好いい彼氏がいて、価値観が合うとか、俺には金があるとか、そんなことは二人の間に全く関係ないことなんだ。」

話の掴めない松田は何も言わず、ただ私の話を聞いている。


「一目惚れだった。俺は彼女がいれば何もいらないと思うんだけど、肝心の彼女はもうほかの人のだからさ。金なんて持っていても意味な“いんだ。だから俺は忌野清志郎を歌うんだけど、やっぱり俺には彼女がいないから何の意味もない。俺の想いは煙の様に消えていくだけで何にもならない。そんな気がするんだ。俺は顔もそんなに悪くないし、告白されたことだってある。友達は少ないけど、それほど悪い人間じゃないと思っているけれど、それでも俺は煙なんだ。」


本当は届かないのではなく、届けたことがなかったのだが、そんなこと松田は知らないし、だから指摘する事もない。

私のよくわからない日本語の羅列をずっと黙って聞いた松田は「そうか。」とだけ言った。


「愛は世界を救うのかな。俺は誰かから愛されても、それをずっと無下にしていると思うんだ。俺は彼女のことを思って歌いたいけど、そんな資格はない様な気がするんだ。」


「お前の考えている事は全く俺にはわからないよ。けれど、全部わかる気もする。」

「それでこそ、松田だ。」


私と松田は不毛なやりとりを続けた。

「松田は彼女いるのか。」

「いないよ。でも寂しくはない。クリスマスはライナスとルーシーがいるからね。」


彼は私でさえわからないジョークをまれに言う。

私は「そうか。」と言った。

そして「本当は犬アレルギーなんだ。」と松田は笑いながら言った。


「お前の病気はたぶんよくなるよ。俺はそう思う。きっとよくなる。」

「そうだといいな。あるいはそうじゃなくてもいい。ありがとう、松田。俺はお前に出会えてよかったよ。入学してからまだあまり経ってないけれど、お前との時間は密度濃いものだったと思う。ありがとう。じゃあまた。」


私はそう言って電話を切ろうと耳から離すと、まだ松田の声が聞こえた。

「じゃあまた。それはつまりまた会うって事だ。大丈夫、また俺に会えるよ。きっとよくなる。頑張れよ。大丈夫だから。頑張れよ。じゃあまた。」


松田はマイクロフォンの中から頑張れと言っていた。彼はどこまでも優しいやつだ。

消していなかったタバコの煙がまだ立ち昇っている。私はそれに体を委ねる。

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