64 崩れ出した均衡
中央廟は、魔王の城の離れにあった。
黒い塀に囲われた広い敷地の中で、城とは対角の位置にある建物だ。
城の外へ出て「あそこだ」と指差された建物を確認してからが遠かった。
花が咲きほこる庭園の一番奥に佇む、小さな白い屋根。雨の気配を感じつつ、整備された石畳の上を甘い花の匂いに包まれながら歩いていくと、半分ほど来たところで向こうから一人の老父がやって来た。
「こんにちは、ハイド」
クラウの声に全員が足を止める。
ハイドと呼ばれた老父は、着物のような白い合わせの服を着ていて、長い白髪をきつく結い上げている。年老いて見えるのに背中が真っすぐにピンと伸びていて、背の高いゼストよりも大きく見えた。
胸に付きそうな長く垂れた顎髭が印象的で、俺はそれをたどって彼を見上げると、「初めまして」と目が合って恭しく頭を下げられてしまった。
咄嗟に返事することが出来ず、俺は何故か「はい」と答えてしまう。
クラウは普段と変わらないが、会釈だけしたゼストとメルはどことなく緊張しているのが分かる。
「ティオナの所に行ったのか?」
「はい。所用で」
ハイドは目元の皺を深く刻んで穏やかに笑うと、メルと俺を交互に見た。
「メルーシュ様と、ユースケ様ですね。お噂は聞いております。エルドラの巨大カーボを倒したんだとか。素晴らしい事です。私からも礼を言わせて下さい」
再びハイドに頭を下げられて、俺は『倒したのは俺じゃないです』の意味を込めて、「いえ」と片手を横に振った。
「私は、私にできる事をしたまでです」
「謙遜は無用ですぞ。けれど、今は小さいのですから無理なさらず」
ハイドはそう言うと「では、急ぎますので」と歩き出す。
俺たちの横を抜けて――すれ違いざまに見せた彼の表情に、俺はゾッと背筋が凍り付く感覚を覚えた。
「ちょっと緊張したわ」
ハイドの背を振り返り、メルは胸を押さえて「はぁ」と愛らしい溜息を吐き出す。
「こんな所で、普段遭遇したりしないからな。ユースケ、あれは元老院議長のハイドだ」
ゼストが面倒そうに腕を組んで説明する。
「元老院?」
「この国の中枢。向こうの世界でも似たようなのがあったな。けど、国会と皇室を足して割った様なって言った方が分かるか? さっきの爺さんが一番偉い議長。まぁ、この国で一番偉いのがクラウなのは変わらん。ここの元老院の仕事は、国家の静観――魔王が道を誤ろうとしたとき、軌道修正させるのが役目だ」
「何だか、保健教師に社会科を習っている気分です」
「その通りだからな」
ははっと笑うゼストは、この世界の魔王親衛隊の1人でありながら、向こうの世界では俺のクラス担任で保健体育の教師なのだ。
「あの爺さんも最近は大人しいよな。昔、メルが魔王だった頃は色々あったみたいだけど」
ニヤリとするゼストに、メルがハッとして唇をきゅっと噛んだ。
「昔のこと、覚えていないもの」
「覚えてなくていいんだよ」
すかさずクラウがフォローを入れる。メルがこの国の魔王だった10年以上前のことを、彼女自身は覚えていないらしい。
当時は大人だった彼女が一度赤子に戻っているのだから、俺の中の一般常識から掛け離れているとは言え、納得いく話とも言える。
「ハイドはお祭りの時に何回か見掛けたことがあるだけで、昔関わったことがあるなんて言われてもピンと来ないのよ。こうして話したのも初めて。少し怖いような気もするけど、悪い人ではないんじゃないかしら?」
メルはそんなことを言うけれど、すれ違いざまに見せたハイドの冷たい目は明らかに彼女を見据えていた。『何でお前がここに居る?』と言わんばかりの禍々しい表情だった。
この城にとって、メル――前王メルーシュは招かざる客なのだろうか。
それに、俺だって歓迎されているとは限らない。
この不穏な空気をクラウは読み取っているのか--?
「あれ、そういえば――」
ふと、クラウが首を傾げた。背を屈めてメルを覗き込む。
「メルはこの城に入れたんだ」
「どうした? いきなり。もちろん正面から堂々入ってきたわけじゃないんだろう?」
動揺を見せるクラウに、ゼストが苦笑する。リトが二人を見つけるまで騒ぎになっていなかった所を見ると、そういう事なんだろうなと俺は思った。
メルは言い辛そうに肩をすくめて、ぽつりぽつりと口を開く。
「ヒルドに、思い出してって言われて。隠し通路を使ったの。ちゃんと思い出したわけじゃないんだけど、思い当たるところを探ってみたら来れてしまって」
「隠し通路?」
えっと首を捻るゼスト。クラウも困惑した表情を浮かべるが、それ以上の追及はせず「そうか」と小さな笑顔で締めた。
「あの、クラウ様?」
「何だいメル」
メルが胸の前で手をギュッと握り締めてクラウを見上げた。
「私もユースケとここに居てもいいかしら? できたらヒルドも」
さっきゼストに自分で言えと言われていたが、本気だったのか。
クラウは面食らった表情で「えっ」と漏らすが、少し悩んだ末にメルの前に腰を落として、彼女の手を拳の上から握り締めた。
「ヒルドって、画家の? だいぶ仲が良いんだね」
「彼もメル隊に入ってくれたのよ」
ヒルドは俺が思っていた以上に、画家としての認知度があるようだ。
「そう。それは良かった。メルはユースケと一緒に居たいの?」
「……うん」
「分かった。なら、そうしても構わないよ」
「本当? ありがとう、クラウ様!」
無邪気な笑顔を広げて、クラウの首に飛びつくメル。
彼女を抱きとめたクラウの表情が物悲しい色を含んだのを見て、俺はゼストを振り返る。
けれど、彼は首を横に振るだけで、何も言ってはくれなかった。




