61 絶望と後悔の間で
ヒュンと風を切る音が短く響いた。
すぐ下に居る二人が突然体勢を崩して地面に座り込むまで、ほんの数秒。
瞬きはしていない筈なのに、俺は今目の前で起きたことを瞬時に理解することが出来なかった。
俺はフェンスから身を乗り出して「大丈夫か?」と声を掛ける。
ヒルドは驚き顔のまま硬直していた。メルはヒルドとぴったり密着し、「えぇ」と残念そうな表情を浮かべて俺を仰ぐ。
背中合わせに座り込んだ二人の胴には、ぐるぐると白く光る縄が巻かれていて、手の動きさえも封じられていた。
リトが魔法を使って投げた光の縄によって、まさに「お縄に掛かった」状態なのだ。メルが背負った剣と、ヒルドに括りつけられている風呂敷包みのせいで、何だか痛そうに見える。
「あれ、メルちゃんだったの?」
駆け寄って来たリトは、今までそれに気付かなかったらしい。
「ごめんね」と照れ笑いを浮かべる彼女だが、光る縄の端を地面から高く引き上げて、二人を強く縛りつけたのだ。
「ヒィイイ。許して、可愛い人」
ハッと我に返って目を潤ませるヒルドに、リトはプイとそっぽを向いて、「不法侵入は許しませんよ」とギロリと光る睨み顔を返した。
「悪いことだとは認めるわ。ごめんなさい」
このまま二人が罰せられてしまうのかと思ったが、シュンと謝るメルにリトの表情が緩んだ。だから恐らく大ごとにはならない筈だ。
☆
昼食の片付けをしに来たメイド服姿の可愛い侍女と交代するように、俺の居る部屋に連れて来られたメルとヒルド。ようやく縄が解かれて、バタバタと床に崩れた。
リトの指が示した合図でパッと消えた縄を見て、俺は手品みたいだと思わず感動してしまう。
「はぁ。大分痛かったけど、君からの拷問なら、むしろ大歓迎だよ」
ヒルドはそういう男なのか?
「よいしょ」と立ち上がって、要らぬ決めポーズをしたヒルドとメルがソファに並んで、俺はベッドに座る。
ヒルドの変態発言など気に留める様子もないリトに、俺は隣のスペースを勧めたが、
「私はこのままで構いません。ブ……ユースケさん」
と、あっさり断られてしまった。それより今、言い直されたような。
いまだにリトの頭に俺の名前は定着されていないのだろうか。
「それで」とリトは黒タイツの細い足を大きく開いて、ヒルドに向けて仁王立ちになった。
「ヒルドさんも、メルちゃんも、あそこで何していたんですか?」
ヒルドの名前は間違えないのかと、俺はひっそりとジェラシーを沸き立たせた。
「ごめんなさい。私がユースケに会いたいって言ったから、ヒルドが協力してくれたの」
下手に出るメルだったが、ヒルドは全く空気を読まなかった。
「ええっ? そんなこと言ったっけ? ユースケの事を助けに行って、無理だったら魔王に直談判しようって話じゃなかった?」
「そんなわけないじゃない!」
とぼけた表情で言い切るメル。
「それにヒルドは、その絵を届けに来たんじゃなかったの?」
「あぁ、そうだったね。忘れるところだったよ」
メルに言われて、ヒルドは背中に括りつけていた風呂敷包みをテーブルの上に下ろした。
新聞を広げた程のサイズで、平たいものだ。
何だろうと考えたところで、バタンと入口の扉が開いてゼストがやって来る。
「お前等、何やってんだよ」
「あぁ、ゼスト。僕たちは、ユースケを助けに来たんだよ」
呆れ顔のゼストに、馬鹿正直なヒルド。
「助けるだなんて心外です! ユースケさんを私たちがさらったみたいに言わないで下さい!」
声のトーンを強めるリトに対し、ヒルドは自分の胸に片手を当てて主張した。
「僕はユースケが心配だったんだ。それに、僕は城に入る口実として、これを持参したのさ」
それを言ってしまえば、もはや口実でも策でもなくなってしまうと思うが。
「持参?」
「はぁ?」と眉をひそめるゼストに、ヒルドはニヤリと含んだ笑みを浮かべ、「僕の絵だよ」と説明した。
そういえば、ヒルドが絵描きだということを俺はすっかり忘れていた。
「ほぉ。けど、そんなの頼んでいないぞ?」
「これは僕からの贈り物だから、気にしなくていいよ」
「いや、そういう問題じゃねぇだろ?」
「ま、まぁいいんじゃないですか? ヒルドもここで戦おうって訳じゃないんだろうし。何なら、この部屋にでも飾れば」
ここでこれ以上騒ぎを起こすのは避けたい。ここが俺の部屋だと言われたわけでもないが、絵の一つくらい問題ないだろう――と思った俺は馬鹿野郎だった。
「ユースケ!! 君はやっぱり僕のかけがえのない戦友で、親友だ。僕がいつも側にいるからね?」
「はっ?」
キラキラと目を輝かせて、ヒルドが風呂敷包みの結び目を解いた。
俺は浅はかな言動だったと自分を呪いたくなった。本当に。
新聞を広げたサイズの厚みがあるキャンバスには、見事な絵が描かれていたのだ。
部屋の温度が五度ほど下がったような気がして、俺はぶるぶると肩を震わせる。
「おい、これは何の絵だ?」
聞かなくても明白な答えを、俺は敢えてヒルドに尋ねる。
俺は、風景画とか、良く分からない幾何学模様的なやつとか、とにかく部屋にあっても当たり障りのない絵を想像していた。
この状況で、こんなものを持って来るヒルドの神経が俺には理解できない。
ヒルドは「わかるだろ?」と前置きして、自信満々に説明した。
「僕の自画像だよ。美しいものを描くのが僕の使命だからね」
その再現率――絶望と後悔の間で俺は、「お前は確かに腕のいい画家だよ」と心の中でそっと呟いた。