130 異変
聖剣を手にした魔王の姿を心待ちにする民衆の興奮が、天井からザワリザワリと伝わってくる。
中央廟の底である『聖のゆりかご』は、階で表すと地下三階。
黒いマントを翻して改めて聖剣に向き合ったクラウは、何やら言葉を唱え始めた。
何か変化が起きているわけではないが、呪文だとか詠唱魔法だとか、その類のものだと思う。
俺はこの世界に来て文字さえ読むことができなかったが、耳に入ってくる言葉も話す言葉も全てが日本語に自動変換されていて会話に困るようなことはなかった。
けれど今、クラウが口にしている言葉は全く理解することができない。
まさかこのまま言葉が通じなくなるのではという心配をしたのも束の間、ティオナが「もう少し離れましょう」と前列の元老院メンバーに小声で支持する声が聞こえた。
どうやら詠唱だけの特別なものらしく、ホッと息を吐きだす。
皆が真剣な表情でクラウを見守っている。
俺だってクラウの成功を祈る気持ちは誰にも負けない自信はあるのに、程よい暗さと生温い温度、それに意味の分からない単調な言葉のトリプル攻撃に、ふわりと睡魔が降下してきた。漏れそうになる欠伸を慌てて飲み込む。
すぐそこにいる美緒の無事を確認して、俺は自分の家族のことをぼんやりと考えていた。
俺の父親は、昔から真面目で正義感の強い人だった。植えられた記憶とはいえ、瑛助が死んだ時も気丈に振舞って、泣き通しだった母親や俺たちを励ましてくれた。
怒ると怖い人だけれど、俺はそんな父が好きだ。
だから俺や弟の宗助は、そんな寡黙な父親とは似ていないと思っている。その時その時の感情や損得に振り回される母親似だ。
速水瑛助という男は、中身も父親似なのかもしれない。
クラウが、魔王の証だという聖剣に拒絶されたらどうなるだろうか。メルの為に、この国の為にと魔王を継いだ筈なのに、その意思が報われないことを知ったら。
もし父親なら--自分の行動によって誰かが傷つくようなことがあれば、自分自身を恨むだろう。相手の為なら苦しみなどいとわない……そんな人だから。
詠唱が止んで、緊張が走る。
クラウは垂直に地面に突き刺さった聖剣に向かって、両腕を胸の前にクロスさせた。この世界での祈りのポーズだ。
数秒間続けた祈りを解くと、クラウは真っすぐに腕を伸ばし、聖剣の柄を両手で握りしめた。
接触した掌が、フワリと青白い光を灯らせる。
「おっ」と俺にはそれが希望の灯のように見えたのに、部屋の空気が一変する。
「おかしい」と誰かが呟いた。皆が一斉に騒めきだすが、誰一人とその場を離れる人はいなかった。固唾を飲んで主を見守る。
「先生?」
俺は横に立つゼストを見上げて、その詳細を知りたいと思ったが、「待て」と言い置いたまま彼は答えをくれずに鋭い瞳でクラウを見つめている。
ほとばしる青い光の出現が皆にとって望ましくないものだという事は、表情で読み取ることができた。
「うわぁぁああ!」
いきなり発されたクラウの声は、悲鳴とも叫びともつかぬものだ。
地下空間に響いた音がわんわんと鼓膜を刺激する。
チラと覗いたクラウの横顔が何かに苦しむように歪んで、俺は先日の気絶したクラウを思い出した。
「ヤメロよ!」
俺は声を投げかける。それはクラウにではなく、無意識にハイドへ向けていた。
地上の民衆は、この祭りを楽しんでいるのに。
「これは、祭なんだろう?」
それなのにどうして、クラウ一人が苦しまねばならないのか。
「やはり、抜けませんでしたな」
深く溜息を吐いたハイドが、俺たち全員を振り返る。
もし聖剣が抜けなかったら--『抜いて見せるから』と、クラウは言っていた。
それはどういう意味だろうか。
『国民に未来を問いましょう』と言ったハイドの言葉に不安がよぎって、俺は美緒に駆け寄ろうとしたが、繰り出そうとした足が強い力でその場に押さえつけられてしまう。
「な……」
向こうを向いたままの美緒の横で、ティオナが俺を蔑むような瞳で見つめているのが分かった。
「またお前かよ!」
またしてもティオナの力が働いている。手足を動かそうとすればするほど、拘束は増した。
「ユースケ、お前は動くな」
ゼストが俺の前に踏み出て、腰の剣に手を掛ける。
「さて、どうしましょうか」
のんびりと言い放ったハイドの目線が、美緒に向いていた。
--『美緒様が苦しむ姿を見たくはないでしょう?』
その言葉を思い出して、俺は絶句する。
カチャリと側で鳴ったのは、ゼストが剣を抜く音だ。
「ハイド様!」
「やめてくれ!」
叫んだゼストの声に、クラウの声が重なった。
クラウの手が地面に刺さったままの聖剣を離れて、肩越しに俺たちを振り返った。
その顔に俺はぞっと背筋を震わせる。
ついさっきまで何とも感じなかったのに、魔王は生気を奪われたような憔悴しきった顔をしていたのだ。
クラウの手にぼんやりと残っていた青い光が、シュンと細く縮んで闇に溶ける。
「聖剣を抜けばいいんだろう?」
そう呟いたクラウの手に再び灯ったのは、青みの抜けた真白な光だった。