結婚、そして……
「おめでた……。ですか」
愛美は目の前にいる女医に再度問いかけた。
「はい。三か月ですよ。おめでとうございます。お母さん」
目の前が真っ暗になったような気がした。
この女は何を言っているのだろうか。
「おめでとう」本当にそんなことを思っているのだろうか。私の相手があの「キモタケ」だと知っていても同じことが言えるのだろうか。
愛美は、夢遊病者のように道を歩き、すっかり迷ってしまった。それでも止まることができず何かを求めて一人で歩き続けた。それは出口の見えない彼女の人生をあらわしているかのようだった。
妊娠……?
結婚……?
まだ23歳なのに……?
とりあえず裕之には知らせなければいけない。しかし思い返してみれば、今まで彼と真剣な話などしたことがなかった。する必要などないし、したくもなかった。
裕之と愛美と子供。どう考えても幸せな家族というものが思い浮かばない。これまで暗闇に包まれた人生を歩んできた。いつか光がみつかると信じていた。その光をかき消され、この先も真っ暗な闇に包まれた人生しかまっていないと告知されたかのようだった。
「妊娠……?」
愛美が告げた後の裕之の反応も同じようなものだった。
こんなさえない女と一生をともにする?勘弁してくれよ。そう思っているような顔だった。
愛美も同じことを考えていたからよく分かる。やはり私たちは似た者同士なのかもしれない。まるで他人事のようにそう思っていた。
結局二人は結婚することとなった。
取り立てて親から反対されることもなかった。
反対する理由もないし、これで自分たちから手が離れてくれるなら。二人ともそんな感じだった。
結婚式はしないことにした。節約のため。というのが表向けの理由だが、惨めな姿を他人に晒したくないというのが本当の理由だった。愛美の新郎として裕之が紹介される。そんな光景を思い浮かべるとゾッとした。
住むところは、裕之の両親が用意してくれた。彼の祖母が住んでいたという築50年は経過していると思われる木造の3LDKの平屋。床は今にも抜けそうなほどしなり、風が吹けば窓はガタガタと音を立てて揺れる。向かいには新しい綺麗なマンションが建っており、新居をよりみじめに見せていた。愛美は、これならば、賃貸アパートのほうがマシだとも思ったが、お金の事を言われそうなので結局ここに住むことに反対はできなかった。唯一、部屋数が多く、裕之と四六時中顔を合わせなくて済みそうなのは嬉しかった。
そして新婚生活は幕を開けた。しかしながら、男と女と新居。その3つが揃えば家庭というものは成立する訳ではない。
ずっと実家で養われていた愛美にとって、それは苦痛の連続だった。
食事、洗濯、掃除。何一つ満足にできない。
ずっと目を背けてきた自分の無能さを実感する。しかし、それに加えて彼女をイライラさせたのは、裕之の態度だった。
家事に対して無関心。つわりに耐えながら慣れない家事に悪戦苦闘する愛美に全く無関心で、帰ってからは会話もなく、ご飯を食べ、風呂に入り、ゲームに向かう。まるで、家政婦のような扱いに愛美はいつも怒りを爆発させていた。
「もー!食べたものくらい流しに置いてよね!」
「もー!電気つけっぱなしやん!なんで消されへんの?」
「食べたら椅子ちゃんと入れてよね!」
「あー、歯ブラシ出しっ放しやん!」
一つひとつは本当に小さな事かもしれない。しかし、やる事なす事全てが目障りだった。そして、愛美が何か言うと、一言も言い返すことなく隣の部屋へと出ていく。そんな姿がまた彼女のイライラに油を注いでいくのだ。どこか愛美を見下しているような余裕もまた腹がたつ。まるで嫌なら出ていけと言わんばかりだ。
キモタケのくせに……
キモタケのくせに……
キモタケのくせに……
わたしがいなければ未だに童貞のくせに……
愛美は一人、心の中で叫び続けた。
そんな日が続くにつれ、少しづつ裕之の帰りは遅くなっていった。
あの顔を見ずに済む。そして、無理してこの家にいる必要もない。そう思った愛美は昼は実家に帰り、親の元で堕落した生活を送り、夜遅くに帰るという生活を送っていた。
家族。
そんなものはどこにも無かった。
しかし、そんな破綻した夫婦生活でありながら、離婚などは考えもしなかった。一人で働きながら子供を育てる。自分にそんな事が出来るとは到底思えない。
顔も見たくないほど裕之の事を嫌悪しながらも、養ってもらうために離婚することすらできない。そんな屈曲した愛美の心は、ある一つの願望を生み出した。
子供が産まれることで、何かの化学反応が起き、父と母、そして子供という一つの家族になる。裕之は男らしい父へと変わり、愛美は優しい母へと変貌をとげる。そして、二人の可愛らしい子供がその間にいる。
笑顔の絶えない、皆が羨む理想の家族。
そんな家族がある日、突然誕生する。
最初は小さかったその願いは、愛美のお腹が大きくなるにつれますます大きくなり、彼女の未来を照らす一筋の光となっていった。