愛美
僕のマンション部屋からは向かいの家の庭が見える。
長らく誰も住んでおらず、廃墟同然だったその家にその家族が住んできたのは数年前だったか。
取り立てて特徴のない普通の家族だった。最初は夫婦で住みはじめ、そのうちに子供ができた。その頃から女は赤ちゃんを背負いながら庭の若木に水をあげ始めた。
一見すれば微笑ましい風景である。
20代半ばであろうか。黒いストレートのロングヘアにムッチリとした肉感的な身体。そして、自らの家という聖域の中でのTシャツ、ハーフパンツといった無防備な姿は、当時高校生だった僕には刺激が大きく、その姿を見るのが日課になった。
今日もいる。
ああ、今日もいる。
「覗き」言われればその通りである。
しかし、あの頃の僕はその背徳に打ち勝てず、いつも学校から帰ってはその庭を眺め続けていた。
その女の異常な行動に気づいたのは、覗きを始めてから半年の事である。
とにかく木に水をやる。
姿を見ればいつも水をやっている。
朝も、夜も、そして雨の日まで。
その異常なまでの執着心はなんなのだろう。
何が彼女をそうさせているのだろう。
僕はますます庭から目を離せなくなってしまっていた。
ある日、いつものように女を見ていると、急にその顔が上突然を向いた。
ヤバイ!
見られたか?いや、大丈夫のはず。今回はたまたま。そうたまたまなんだ。
祈るような気持ちで窓の端からそっと覗いた。
女は庭に立ち、確かに顔をこちらを向け、その顔は満面の笑みを浮かべていた。
僕の心臓がバクバクと脈を打つ。
その笑顔がまるで、「あなたのことは知っているんよ。今すぐ通報して絶望に叩き落すこともできるんよ。分かってる?」とでも言っているかのように思えてならなかった。
僕は慌ててカーテンを引き、それ以来二度とその庭を覗くことはなかった。
高校を卒業した僕は関東の大学へ行くために家を出た。慣れない土地での暮らしは本当に大変で、時に地元が懐かしくなる。それとともにあの女のことも思い出される。
あの人は、今日も庭で水をあげているのだろうか?
あの木は大きくなり、そろそろ花が咲いているのだろうか?
今となっては知る由もないけれど。
※ ※ ※ ※ ※
「ありがとうございました」
お客さんにお釣りを渡しながら吉岡愛美は言った。
ふう。これで一息つける。
全国に店舗をもつ食品メインの中規模スーパー。そこでのレジ打ちのアルバイトを始めて三ヶ月。愛は、仕事に全くやる気が湧かなかった。
今日はどうやらチラシが入ったらしく、今日の午前中はハードだった。切れ目なくお客さんがレジに並び、イライラした顔で買い物カゴを置いてくる。苛立ちの原因はただ混んでいるだけではない。愛美のレジは極端に遅く、隣のレジにどんどん追い抜かれていく。普通にしていても遅いのだが、クーポンやカードを出されると一気にパニックに陥ってしまう。しまいには、
「姉ちゃん。いつまでかかってんねん!!」
という怒号まで飛んでくる始末だ。
そうなると、またパニックになり、汗が吹き出し、手が震えてしまうのだ。
元来器用ではなく、人と話すのも好きではない。「愛されるように美しく」そんな名前とは裏腹に容姿にもコンプレックスのあった彼女は高校を卒業するまで結局友達らしい友達は一人もできなかった。
何もしたくなかった。働く気もなかった。しかし、彼女の親はそれを許さなかった。
撮りたくもない写真を撮り、書きたくもない履歴書を書き、働きたくもない店で面接を受け何度も落とされた。十回めの面接でようやく採用された店がここだった。
「お疲れ様です」
ようやく訪れた休憩時間にバックヤードに入ると、すでに二人のアルバイトと一人の社員がいた。誰かの噂をしていたらしく、会話が止まり、下を向く。
愛美は無言で昼食を食べた。話し掛けてくる者は誰もいなかった。
「でな…あい………らしいわ」
「マジっすかほんなら…………もやってんの………で、キッショ!」
「でも、キモタケって…………やって」
しばらくすると、またひそひそ話が始まった。小さい部屋では聞きたくないことまで聞こえてくる。
キモタケという言葉が耳に入った瞬間、愛美の身体はビクリと硬直し、手に持った箸を落としそうになった。
話題になっているのはどうやらキモタケ、このスーパーの鮮魚部門で働く25歳の正社員、若竹裕之だった。
彼は決して仕事ができない訳ではない。
しかし、流行やファッションには全く興味がなく、いつもボサボサの髪の毛で分厚いメガネをかけ、ゴムの伸びきったトレーナーで出勤してくる。
淡々と魚を捌き、ボソボソとバイトに指示をする男はいつもみんなの話のネタだった。
「くぉれ、だっ、出しといてくださーい」
「超似てる〜!」
誰かがくぐもった声で裕之のマネをし、ワッと場が盛り上がる。
そして、同時に愛美の事を見ながらクスクスと笑っているように感じた。
うつむいたままの愛美の顔は真っ赤になり、その額には汗が滲んでいた。そして、手がブルブルと震える。息も苦しい。
この空間にいることが耐えられず、逃げ出した。
「何アイツ?」
誰かが言ったあと、再び大きな笑い声が部屋の中から響いてきた。
止めて!
お願いだからもう止めて!
まだ動機が収まらない。
汗が滝のように流れ落ちる。
一月前なら「キモタケ」という言葉を聞いても何も感じなかったであろう。
しかし、今の愛美にとって、裕之をバカにされるのは、彼女である自分もバカにされているのと同じことだった。