【01】
――それは七月の初日、長雨が煙る宵の街、雨粒砕けるアスファルトの上を駆け出す、一羽の白ウサギから始まる。
*
その日、ルルは学校帰りに立ち寄ったコーヒースタンドで、同級生である成瀬佳子那の、新作アプリの発表会に付き合っていた。
身長が一六五近くあるルルと、一五〇にも満たない佳子那が同じテーブルに着いている光景は、二人が同じ制服を着ていなければ年の離れた姉妹のようにもみえた。事実、今日の佳子那はどこか浮かれているみたいで、ルルは、はしゃぐ妹の相手をしている姉のような心境だった。
「なんかいいことでもあった?」
「もちろん。今日ので記念すべき五〇個目のアプリなのです」
ルルがそれとなく聞くと、佳子那は満面の笑みでそう答えた。
佳子那が作るのは、拡張現実で機能する『妙な』アプリケーションである。この妙なというのが大変なくせ者で、決して出来の悪いという意味ではなく――むしろクオリティだけで言えばありふれた会社が有償で配布しているものと同じ水準にある。また、アプリを作る事自体はさして難しいことではないものの、その開発が週に一度というハイペースで行われている事を知れば、きっと誰もが目を剥くことだろう。しかしそのクオリティこそが、彼女の作った発明品の評価を難しくしていると言っても過言ではない。
なにしろ、成瀬佳子那の開発モットーは『役に立つために作られたモノだけが役に立つとは限らない』という実にひねくれたものであり、幾ら品質が高くても使い処が分からないのでは評価が難しいのである。
例えば先々週彼女が持ってきたアプリは『液体を好みの色に変える』とかいう代物で、真っ黒なエスプレッソを真っ赤なトマトジュース色や毒々しい緑のメロンサイダー色、牛乳もかくやといわんばかりの白さに変えて見せたりした。無色透明にすることもできるようで、「これはちょっと凄いものかも」とルルも驚いたのだが、立ちのぼる香ばしい香りや舌に残る苦みには当然変化はなく、透明なコーヒーを飲んでいるかのような錯覚に、頭が混乱するばかりだった。もしかすると、どこかの誰かにとっては有益な代物となりうるのかもしれないが、どう利用すればそんなことになるのか、ルルには思いつきかねた。いっそのことフリーソフトとしてネットにリリースしてみれば良いものを、「私の開発方針なの」と、ポリシーなんだかひねくれてるんだか分からない理屈で頑なに拒否してはルルに苦笑されている。
「あ、そうだルル」
佳子那は黒縁の眼鏡型ディスプレイを両手で押さえながら、ツルに埋め込まれたセンサーにスッと指を這わせた。佳子那が使うデバイスと一体型の拡現《AR》ディスプレイは無骨で大きくて、佳子那の幼い顔にはいかにも野暮ったく見える。だが、新しいのを買えばいいのにと、いくらルルから勧められようとも、変えるつもりはないらしい。
「なに?」
「レイヤー、新しく私と共有しておいてくれる?」
「いいけど、パブリックじゃダメなの?」
「うーん、プロジェクションとして映るけど、アプリには違いないからさ」
「ん。了解」
ルルは耳元で揺れるピアス型の、チョコレートの欠片にも似たデバイスを親指で撫でた。彼女の目前、正しくはコンタクトレンズ型のディスプレイ内に、無数の情報が表示される。それらを引き絞り、佳子那から送られてきた共有層の承認を終える。
「いいよ、共有完了」
「よし、じゃあ出すね。今週の新作はこちら!」
ルルのまばたきに合わせて更新された視界に、何の前触れもなく現れた物体――正確にはテーブルの上に存在するかのようにディスプレイに表示された投影体なのだが――は、佳子那の発明を見慣れているルルからすると、少し意外に思われた。
白いウサギだった。
大きさはペットショップにいる一般的なウサギと変わらないほどの大きさだが、チョッキを羽織り、二本足で直立している。懐中時計を模している大きな金色の時計を肩に掛けているが、大きさが体の半分ほどもあるので、端が地面に着いてしまっている。
「へぇ、可愛いじゃん」
ウサギは、赤い目でルルを見つめ返すと小首を傾げ、ピンと立てた耳を羽のようにぱたぱたと振った
「エルシィって言うの。アリスのウサギをモチーフにして作ってみました。エルシィ。ルルに挨拶」
エルシィは深々とお辞儀した。チョッキといい時計といい、なるほど、不思議の国のアリスに登場するあの忙しないウサギそのままだ。
ルルは目の前の電脳生物に顔を近づけると、マシュマロみたいに膨らんだ白い頬を人差し指でつついた。投影物に手応えなどあるはずもないが、かなり細やかな物質化処理が施されているらしい。ルルの指はウサギを透過せずに、ふにっ、と音を立てそうな柔らかさで沈んだ。ウサギは驚いたように体ごとのけぞると、またルルを見つめ返した。表情はないが、何をするんだ、と言わんばかりに目を丸くしている。
「妙なアプリ作りはとうとうやめちゃったわけ? 佳子那が普通の電脳ペット作ってくるなんて」
「普通? 電脳ペット?」んっふっふ。
佳子那は勝ち誇ったような含み笑いでルルの質問に答えた。
「さっきから言ってるでしょ。五〇個目の新作のアプリだって。私が普通の電脳ペット作って満足すると思う?」
思わなかった。常人の感性からすれば虚数軸方向にズレたベクトルを持っているのがこの佳子那という娘だ。ルルは溜息をついて言葉の先を促した。
「……どんな機能が付いてるわけ?」
「よくぞ聞いてくれました!……と、その前にこの子の持ち主をルルに設定しないとね」
「ああ、じゃあファイルごとちょうだい」
「大丈夫」
佳子那は何故か胸を張った。「くれ」という催促に対して「大丈夫」と答える意味が分からずルルは瞬きを繰り返していたが、すぐに思い知ることとなる。
「こんな可愛いのに、ただのモノみたいに扱っちゃ可哀想でしょ? だからこの子は、指定した人を飼い主として刷り込みさせることができるようにしてあるのです」
「どうやって?」
「こうやって」佳子那はニヤリと笑った。「というわけで、エルシィ! ゴー!」
佳子那の声と共に、エルシィがテーブルから、ほぼ垂直方向に飛び跳ねた。
短い足からは想像も付かない跳躍力で天井近くまで飛び上がった白ウサギは、設定された物理法則に従い放物線を描き、その様子を何事かと見上げていたルルの呆けた顔面目掛けて落下して、
「――んゃっ!?」
そのままぺったりと貼り付いた。
突然視界が覆い尽くされたルルはおかしな悲鳴を上げた。重さとか衝撃とかいった感覚こそ無いが、このウサギが顔に貼り付いて、離れようとしない事だけは分かる。目の前が塞がれて何も見えない。
「ちょっ、なにこれっ!?」
ルルは顔に貼り付いたウサギを引っぺがそうと悪戦苦闘する。もっとも、この愛らしい姿の投影体が見えているのは投影層を共有しているルルと佳子那の二人だけだ。周囲の人間からすれば、談笑していた少女の一人がいきなり奇声を発して、顔の前の何もない空間相手に抗っているようにしか見えない。
「んじゃ説明の続きね」
佳子那はルルの醜態をおもしろがるでもなく、平然と話の続きに戻った。
「このエルシィは、ルルがこれまでに見てきたものから思考・嗜好《Think/Taste》パターンを洗い出して、『ルルが行ったことのない、でも無意識に行きたがってる場所』に連れてってくれるの。簡単に言えば、白ウサギを追いかけるアリスの気分を味わえるってわけなのです」
「なんの役に立つの、それっ!?」
「いつも言ってるでしょ。役に立つために作られたモノだけが役に立つとは限らないって」
「だからって、顔に貼り付く意味が分かんないってっ!」
「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない」
自分のソイ・ラテに手を伸ばしかけていた佳子那はとても良い笑顔で応えた。もっとも、視界を塞がれたルルにその表情は見えず、彼女はその真っ暗な視界の向こうに、憎たらしい表情を浮かべる佳子那の顔をイメージしたのだった。