【プロローグ】
少女を殺した、三つのもの。
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一つは、引き金。
甘草ルルに悪気はなかった。
波風一つ立たなければ澄んだ水にも澱は沈むだろうが、それでも水底に溜ったその微量の澱はせいぜい子供の考えつきそうな悪戯を生じさせる程度の力しか持たなかった。人を一人殺すために必要な悪意などからは、まるでかけ離れていた。
彼女は計画的に事を起こしたのではなかったが、その一方で衝動的に事に及ぶようなきっかけもまたなかった。いつもと変わらない日常、その中で泡のように浮かんできただろう、あまりに些細な好奇心が、唯一、引き金<<トリガー>>といえるものだった。
つまり、苑美杏紗に好きな人はいるのかということが。
いてもおかしくはない。頭脳明晰、温厚篤実、容姿端麗。彼女はその上澄みから出来ていた。学校では誰とでも分け隔てなく接し、教室の隅から湧き出てくる「八方美人」などという決まりの誹り文句も、杏紗の持ち前の朗らかな性格の前には、みるみる説得力を失ってしまう。
きっと誰もが憧れていた。
その杏紗が、心に想う人はいないのか。
普通に聞いても当然のように「いない」としか答えない。それでも、一人ぐらいはいるんじゃないのか。杏紗はあれだけ美人なのだし。
いないならそれでいいと思った。杏紗と中学の頃から付き合いがあったルルは、自分が彼女の無二の友人であるという自負があり、それは杏紗も認めるところだった。なによりもそのことを誇らしく思っていた。杏紗に好きな人がいないのならば、彼女の隣に立っているのは自分だけなのだ。
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一つは、弾丸。
拡張現実の重なった視覚の中では花を模した可愛らしい髪飾りとして認識されるが、プログラムをよく見れば通常の投影体には全く必要のない行が複数混じっていることが分かる。つまりは拡現アクセに擬態したアプリケーションである。
機能は三つ。
一つは、投影体を装着した人間の私秘層に侵入して、個人の持つ一ヶ月分の視覚履歴から『装着者が密かに目で追っていた人物』を検出。眼球の運動の仕方や瞬きの回数、視界の角度などと合わせた複合データを造りだし、既存の統計と比較することで、その人が『気になっている人』を抽出する。
二つ目の機能は偽造。私秘層から抽出された『気になっている人』の姿を、プロジェクターの隅に密かに投影する。投影の引き金はプログラムを仕込んだ人物が握っている。人混みの中に『気になるあの人』の影を見て、思わず振り向いてしまうという仕組みである。
この二つの機能は、装着から一日が経過すると自動的に消滅する。プログラム全体が余計な行を含まないものに上書きされ、只の拡現アクセになる。これが三つ目の機能である。
簡単に言えば、装着している人物が想いを寄せている人の幻影を造りだし、投影体として装着者の視界に投影するのである。幻影を見せることができるのは装着から一日に限られ、それが終わると、ただのヘアアクセになる。
主な用途はイタズラ、冷やかし。学生たちの間で一時期人気を博した。そもそも悪戯にしては少々度が過ぎているきらいがあるが、法律には辛うじて触れないとされている――解釈次第ではという枕詞が常につきまとってくるがそれはさておき――流行が長続きしなかったのは、学校によって禁止されることが多かったからだ。私秘層の視覚データが流出する可能性や、交通量の多い場所で使用されたときの危険性を鑑みれば、当然のこととも言えた。
更に、この悪戯が一時期爆発的に流行したために手の内がすっかり明かされてしまったことも、その後の衰退の一因に挙げられるだろう。トリックの知れた手品を披露したところで誰も驚かないように、このプログラムを使った悪戯も、徐々に下火となっていった。
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一つは、指。
雨の日の街中、湿気を含んでなおも軽やかな杏紗の黒髪には、ルルがプレゼントしたばかりの花を模した髪飾りが半透明に輝いていた。
少しまえに流行した悪戯だ。好きな人がいるかどうかを確かめるための悪戯。拡現アクセのプログラムの奥に忍ばせて、ここぞと言うときに設定しておいたトリガーを引けばそれで事は成る。
もっとも、ルルにはトリガーを引かないという選択肢もあった。あの髪飾りは元々、杏紗にあげようと前々から思っていたものだった。悪戯が第一の目的だったわけではない。あと数時間もすればプログラムは上書きされて、あれはただのプレゼントになる。
確かめる術は無くなる。
いないならそれがいい。誰もいなければ、それに越したことはない。杏紗の隣には私がいる。
仮にいるならいるでも構わない。そのときは、精一杯祝福しよう。自分を含む全ての人の、憧憬と尊敬を一身に集める、彼女の恋路を。
けれども、もし本当にそうだとしたら……。
素直に祝福できる自信を、ルルは持ち合わせていなかった。どれだけ覚悟していようとも自分は杏紗ほど完璧な人間ではない。頭は悪いし、顔だって杏紗に比べれば見劣りする。訳の分からないことにキレたりすることもあれば、人並みに嫉妬だってする。たとえそれが、無二の親友であるはずの杏紗に対してであっても。
それでも、いつまでも晴れないモヤモヤを抱えたまま、杏紗に嫉妬したくはない。そのためにはどうすればいいのか。ルルは考え、辿り着いたのはこんな結論だった。
思い人が異性と歩いている姿を投影するよう、プログラムを改編することにした。
我ながら意地の悪い人間だと思う。好きな人間の有無を無理矢理明らかにしようとしながら、なおも追い打ちを掛けるようなまねをする人間だったとは。
好きな人が知らない女と腕組み歩いているのを見て、杏紗はどんな反応をするだろう。怒り出すだろうか、呆気にとられるだろうか。もしかすると涙なんか流してしまうかもしれない。
そうして不安だか悲しみだかにくれる杏紗に向かって、ここぞとばかりに種明かししてやるのだ。冗談だったと笑ってやろう。そして、杏紗ならどんな恋でも上手くいくと、そう言って、背中を押してやろう。
怒るだろうか、幻滅するだろうか、杏紗は。だが構わない、嫉妬し続けるよりずっと。
……それでもきっと、許してくれる筈だ。杏紗ならきっと。
ルルはトリガーを引いた。
一歩、二歩、三歩、
一秒、二秒、三秒、
談笑しながら道を行く。杏紗は笑っている。立ち止まる気配はない。
心の底で安堵する自分がいた。ほらみろ、杞憂だった。やっぱり杏紗に気になる人なんていない、いるわけがない。ルルは嬉しくなって、足取りが軽くなって、その時になって、
杏紗が足を止めた。
……嘘。
不意を突かれた。安心しきっていたルルの耳奥で、嫌な鼓動が高鳴った。呼吸すら忘れて振り返る。
誰だ? 杏紗は誰を見ている?
立ち止まり、道路の反対側を凝視する杏紗の顔からは、先程までの笑みが消えていた。口を切り結び、白磁のように美しい肌からみるみる血の気が引いてゆく。大粒の雨が傘を叩く。歩道に跳ねる。吹きさらして足を濡らす。
杏紗が口を開いた。
「――お父さん?」
雨の日の街中だった。放課後、ルルは杏紗の買い物に付き合っていたのだった。何でも父親の誕生日が近いとかで、そのプレゼントを買いに行く途中だった。杏紗の父親は仕事が忙しくて、家にもあまり帰ってこなくて、『そのせいで母親がカリカリしてる』なんて杏紗は冗談めかして言ったことを思い出した。ひょっとすると彼女の家庭は居心地のよくない場所になっていたのかも知れないと。
その時になって思い出した。
杏紗のヘアアクセに、自分は何を仕組んだ?
ただ思い人を見せるだけなら良い。だが、彼女のヘアアクセに仕組まれているのは、その人物が異性と歩いている姿を投影するよう改変されたプログラムだ。
改造前のプログラムでも誤認識は起こりうる。好きでも何でもない人間や、恋愛的な意味ではなしに『好き』な人を抽出したりすることはままある。ただでさえ完全とは言い切れないそのプログラムが、ルルの下手な改造で精度を落としていたとしたら。
……杏紗は今、何を見ている?
「待って違うのあれは、」
引き留めるルルの手は空を切った。
傘も鞄も手放して、車線へと飛び出し、
少女は――
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これは、今は亡き少女の、遅すぎるエピローグ――
――そして、未だ生まれざる少女の、長すぎるプロローグ。
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