第一章『光の掟』・第二話『蘇る記憶・呪われた旅路』Part3
裏世界に来て四週間が経過しようという頃。
向かいのソファに腰を下ろし手元の本に目を落とすレウィンに向け、綾乃はぽつりと呟いた。
「最近、少しずつ記憶が戻ってきてるの」
綾乃の声に顔を上げたレウィンは、嬉しそうに微笑んだ。
「異世界に来る過程で失ったものですから―――何らかの衝撃を受けて戻るというのとは違います。だから、前にも言いましたけど、時間の経過と共に少しずつ思い出すのです」
「全て戻る日も近いのかな・・・・」
「もう、数日内に戻るでしょう。戻り始めたら早い、とも聞きますから」
「本当!?」
綾乃は歓喜のあまり立ち上がり、身を乗り出してレウィンの両肩を掴む。
わぁっ、と突然のことでレウィンは声を上げた。
「はい」
頷いてから、急に言い辛そうに口籠らせた。
「・・・・・・失礼ですが、綾乃さん・・・・・あの・・・その、えっと・・・」
「なぁに?」
「あの・・・・・」
「ほら、言って。何?」
「思い出したこと・・・・・教えて頂いてもいいですか?」
「いいけど・・・・・興味あるの?」
「はい!とっても!!表世界について知りたいんです。憧れ・・・・ですから」
レウィンの顔色が変わった。
目が輝き、この上なく喜びを表現している。
先程まで手に握られていた小さい字だらけの分厚い本は投げ捨てられ、今は彼の隣にある。
普段大人しいレウィンの変化に、綾乃は驚いて、思わず少し仰け反った。
「憧れ?」
「そう、憧れです。僕は、ずっと表世界に憧れていたんです。もう昔のことで、きっかけは覚えていないのですが。教えて・・・・いただけますか?」
表世界の存在を知ってから、様々な書物を読み漁ってきたレウィンは、かつてないチャンスに胸を躍らせた。
今までに、何人か裏世界に来たという人がいることも認知はしているし、彼等について多少なりと知識はある。
けれど、そのことを知るのはいつも人伝か、または書物からだ。
面と向かって表世界人と話すのは初めてのこと。
最初綾乃が表世界の人であると知って、記憶が無いと聞いた時、戻り次第表世界やその世界に住む人である綾乃自身について話を聞こうと心待ちにしていたのだ。
まさか、そんな人と旅が出来ることになろうとは思いもしなかったのだけれど。
「もっちろん!!いつも裏世界のこと、教えて貰ってるんだもん。お返し。」
綾乃は自分の故郷を褒められて少しいい気になり、「あのね・・・」と話し掛けて、不意に口を噤んだ。
「あ・・・・・でも、やっぱり無理かも・・・・。ごめん」
「え?何が”ごめん”なのです?」
訳が分からず、レウィンは首を傾げる。
「今はまだ話せるようなことが無くって・・・・」
「断片的だから・・・・・・ですか?」
「それもあるけど・・・・私の―――家族のことばかりだから」
てへ、と後頭部に手を当てて小さく舌を出して苦笑する綾乃の言葉を、レウィンは反復した。
「綾乃さんの・・・・・ご家族・・・・・」
「うん。それは―――表世界のこととはあまり関係ないと思うし」
「聞きたいです」
それも当然聞くつもりだったため、はっきり言う。
「関係・・・・なくても?」
「もし、プライベートなことは話したくないと思われるなら、仰らなくても構いません」
「そ、そんなことない!けど・・・面白くも何とも無いかな~なんて・・・・」
「そんなことはないと思います。綾乃さんがどんな家庭に生まれ、どうやって育ったのか、知りたいです」
「じゃあ、聞いてくれる?」
「はい」と、レウィンは満面の笑みを見せた。
「お?何だか楽しそうな話をしているようだな?」
綾乃が自分の世界について話し始めてしばらくして。
二人とお茶でもしたかったのか、ひょっこりとサフィールが応接間にやってきた。
「お父様!!」
「陛下!」
「何の話だ?笑い声が廊下まで聞こえたが」
にこにこしながら、ドアから近いソファの方に―――レウィンの方に近付いた。
慌ててレウィンは隣に無造作に置いた本を綾乃の座るソファとの間にある低めのテーブルの隅っこに置き換える。
どうぞこちらへ、と促されて、サフィールはレウィンの隣に腰かけた。
「それは申し訳ありません。実は、綾乃さんの表世界のご家族について話を伺っていたのです」
「ほお。それは興味深い」
公務も終わったことだし私も混ざろうかと言って、手を二回叩き、ドアの前で待たせていたらしい小間使い達を呼んだ。
小間使い達の手にはジュースや紅茶などの飲み物と、一口大のお菓子がいくつも入っている底の浅いバスケットがある。
飲めるお茶が麦茶限定で、紅茶が飲めない綾乃の前にはオレンジジュース、他二人の前には紅茶が置かれ、その中央にはお菓子のバスケットが三つ並べられる。
「わあ!!今日のお菓子も美味しそう!!マドレーヌに、クッキーに・・・・あと、マカロンにそっくりね」
「ま、ど・・・・れーぬ?」
「くっきー?まかろん?」
その単語の意味が分からず、レウィンもサフィールも疑問に思った。
そんな二人の前で遠慮の欠片も無しに焼き菓子の一つを取って口に放り込んだ綾乃は、蕩けたような顔をする。
「んんー、味も似てる!でも何か違う・・・・分量も、材料も違うからかな」
こちらの世界に来てからいろいろなものを食べさせて貰っているので、どの料理も平均的に表世界の料理と負けず劣らず美味しいとは心底思っているのだが、綾乃はかなりの甘党なので毎日のお茶の時間に出されるお菓子の方が好物となっている。
世界が違うので、存在する動植物が違う。
だから、共通のメニューは一切ない。
どれも美味しいとはいえ、自分の世界で食べる習慣のない物にそっくりな物がテーブルに並ぶとどうも手が伸びない。
それでもクィルに半ば脅されながらだが食べてみれば、驚嘆してしまうことも多い。
ああ、こんなに美味しいんだ、と。
「さっき言っていたのは・・・・綾乃さんの世界の食べ物ですか?」
「そうなの!こっちでも食べれるなんて思わなかった!!凄く美味しい!」
「どういったものなのか、見てみたいですね、陛下?」
「うむ。綾乃の世界とこちらでは、似通ったものもあるのだろうが・・・・・・やはり基本は違うのだな・・・・・そう、改めて思う」
「ですね・・・・」
ぼうっとしてると綾乃に全部食べられてしまうぞ、とサフィールがレウィンにもお菓子を食べるよう促して、苦笑しながらレウィンも食べ始めた。
失礼なその言われように、綾乃は頬を膨らませる。
それを見て取ってか、サフィールはかわすように話題を戻そうとした。
「お、話が逸れてしまったな。確か、綾乃の家族の話だったか」
「そうです、そうです!あはは、あんまり美味しくて忘れかけてました」
そう言う綾乃の頬には、お菓子が詰まっている。
「綾乃らしいな」
「お父様、それはどういうことで?」
「いや、何でも無い」
再びかわされてしまった綾乃は、少し不満有り気だった。
一方、レウィンは先程までのやり取りを傍観していたが、その会話の終わり方に思わず笑ってしまった。
「先程までの話を掻い摘んで説明致します。綾乃さんには、ご両親と、三年前に亡くなったそうですが・・・・お兄様がいらっしゃったそうです。それから、表世界にはこちらで言う学習施設である学校というものがあり、そこでさまざまなことを学ぶのですが、同じ学習施設でもこちらとは勉強内容が大きく違う、という辺りまで話しました」
「ほお・・・・。今更だが、ちゃんと綾乃の記憶は戻っているようだな。レウィン、見立てではあとどれくらいで全て思い出せそうだ?」
「数日内には。寝ている間に思い出すのが多いみたいですけど、時々どこかの記憶の映像らしいものが脳裏を過るそうです。大抵はもうしばらくかかるのですが、綾乃さんの記憶の思い出し方は比較的早いのでそれくらいだと思われます」
「数日内か・・・・・勉強の方は?」
「そちらの方も順調です。各国の情勢については後々教えるつもりですが」
レウィンが何か紙を取出し、それを見ながら答えた。
「それでよい。覚える物が多過ぎるからな」
うんうん、と何度もサフィールは頷く。
その日は、夕食の支度が出来るまで三人は表世界について至極楽しそうに話し合った。