第9話 農学者の独り言
「これは、いい、うむ」
男が土をこねて太いひも状になったものを曲げると、手からぼろぼろと土が落ちていった。
「ここは最高だ、森の近くで落ち葉も多いのがいいのかもしれない」
ぼさぼさ頭の男は、ぶつぶつと独り言を呟きながら歩いている。時折、土を拾い上げては、こねていた。
「さて、今日はちょっと馬で遠乗りでもしない」
「いいねえ、今日は天気も良いし」
「えー、俺あんまり馬、得意でないし……」
「大罪人のエロ魔術師は文句言わない。つべこべ言わずについてくる。それとも……」
「はいはい、どおせ俺には選択権はないですよ」
エリザベスに容赦のない言葉を掛けられ、エリックはしぶしぶついていくことにした。
「あの人、このあいだも、あそこにいたね」
「そう言われれば」
「なにをやっているのか聞いてみるか」
馬から降りたルークが、男の下に走り寄った。
「おーい、おじさん、何してるんだい」
「うん、見れば分かるじゃろ。土を見てるんじゃい」
ぼさぼさの髪の男は、ルークの顔を見ずに土をいじりながら応えた。
「土を見て何か分かるのかい」
「そうじゃな、土は万物の母じゃからな、色々なことが分かるぞい」
「ねえ、ここの土はなにか特別なの」
エリザベスが会話に混ざってきた。
「特別というか、ほかの場所と比べると野菜の育成に最良と言った方がいいかな」
「どこが違うんだい」
「野菜作りで土の役割はなんだい」
「栄養?」
「そうじゃな、しかし正解には少し足りない」
「少し足りない?」
「土には養分の貯蔵と供給が一つの役割じゃ。あとは水と空気の貯蔵と供給じゃ」
「水は分かるけど、空気?」
「そうじゃ空気だ。植物は根で、土から養分・水分を吸収する。そのとき、エネルギーが必要じゃ。このエネルギーは、まず日の光で葉がつくったでんぷんを根に送り、根は土から吸い込んだ空気とでんぷんを合わせてエネルギーとするんじゃ。空気が不足すると根は窒息し、やがて腐ってしまう」
「へー、だけど土の中に空気なんて、いっぱいあるもんなの」
エリザベスが男に問いかける。
「野菜を作るとき、鍬で畑を起こすじゃろ。あれは土を柔らかくして根が成長しやすくするんじゃが、空気を土に混ぜ込むためでもあるんじゃ」
「だけどここは、少しも耕していないよ」
エリックが問いかける。
「土を触ってみるがいい」
エリックが土を掴んでみた。
「えっ、ふかふかだ」
「そうだろう、これは木の葉が幾層にも堆積して腐食してできた土なんだ。だから層の間に大量の空気の隙間ができている」
「なるほど、だから根が発達しやすいんだ」
「先生、こんな所にいましたか」
若い男が走ってきた。
「先生?」
ルークたちが一様に声を上げた。
「ねえ、この方はどこかの先生なの」
エリザベスが若い男に聞く。
「はい、帝都大学の農学の権威でございます」
「えっ、この方が……」
「そうそう、こんな話している暇がないんだった」
若い男は慌てて話しかける。
「なんだね、私は忙しいんだが」
「先生、お忘れですか。今日は大学の教授会がある日です」
「なんだそんなもん、君が代わりに出てくれたまえ」
「私は教授会には出れません」
「うーん、めんどくさい」
「とにかく来てください」
ぼさぼさの頭をした男は、若い男に引っ張られていった。
エリザベスが、近代農業の父と呼ばれた男に出会った瞬間であった。
社交界に一切顔を出さなかった教授は、今までエリザベスと出会う機会がなかった。
この出会いは歴史的な一瞬であった。
この時、エリザベスの領内では、徐々に作物の収穫が減り始めていた。それが彼女の大きな悩みの一つであった。
これは一年おきの麦作で地力が尽きて、土の養分が枯れ果てていった結果であった。同じ作物をその場所で続けて栽培すると起きる、連作障害といわれる現象のためであった。
この後、教授の献策により連作障害を解消するための最適な作物『小麦→ジャガイモ→甜菜→金時豆などの豆類』の四ローテーション制度を作っていく。
四ローテーションによって地力を復活させ、収穫高は二倍に増えたので庶民からは歓迎された。
さらに灌漑用水の整備、肥料の改良、農閑期に家畜を畑に放牧し糞の有効活用や森の葉っぱを腐らせて畑に鋤きこむなど各種の対策を立てていった。
十年後、これらの対策によりエリザベスの領内では、大幅に収穫量を上げていくのであった。