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忘却の果て、きみに見せたいものがある

作者: 高橋 淳
掲載日:2026/07/19

目を覚ますと、俺は白い砂漠にいた。

空は夜明け前のように青く、星がまだいくつも残っている。

けれど東にも西にも太陽は見えず、世界そのものが薄暗い水の底に沈んでいるようだった。


どれくらい眠っていたのかは分からない。

そもそも、眠る前のことを何も覚えていなかった。


名前も、住んでいた場所も、自分が何者だったのかも。


ただ、右手には一本の剣が握られていた。

古びた鞘に収まった、飾り気のない剣だった。抜いてみると刃は鏡のように澄んでいて、それなのにそこに映った自分の顔さえ輪郭が曖昧だった。


「やっと起きたか」


 声に振り返ると、少し離れた場所に一人の老人が立っていた。


 黒い杖を持ち、灰色の外套を羽織っている。長い髭も白髪も、砂漠の景色に溶け込むほど色が薄い。


「ここはどこだ」

「旅の始まりだ」

「答えになってない」

「ここでは、答えはいつも最後にある」


老人はそう言って、俺の剣を指した。


「それを持つ者は勇者と呼ばれる」

「俺が?」

「そうだ」

「何をすればいい」

「北へ行け」


老人は俺の背後を杖で示した。

振り返ると、遠く白い砂の果てに、一本の黒い塔が立っていた。


天を突くほど高い。

塔の上には雲が絡みつき、そのさらに向こうは見えない。


「あそこに魔王がいる」

「倒せばいいのか」

「倒せば旅は終わる」

「終わったら、どうなる」


老人はしばらく俺を見つめた。


「次へ進める」


そう一言述べた後、黙ってしまう。


聞きたいことはいくつもあった。自分が誰なのか。なぜここにいるのか。なぜ剣を持っているのか。


けれど、不思議と焦りはなかった。


記憶がないというのに、心のどこかではこれが当然のことのように思えていた。


北へ行かなければならない。

塔へ向かわなければならない。


それだけは、ずっと前から決まっていたような気がした。


「途中に魔物がいる」


老人が言った。


「魔物?」

「お前を引き止めるものたちだ」

「倒せばいいんだな」

「倒すかどうかは、お前が決めろ」


そう言うと老人は目を伏せた。


一瞬、風が吹いた。

次に目を開けたとき、老人の姿は消えていた。

砂の上には足跡すら残っていなかった。


     *


砂漠を抜けると、青い草原が広がっていた。

草は一本一本が半透明で、風に揺れるたび、内側から淡い光を放った。


丘の向こうには銀色の川が流れていた。水面には空ではなく、知らない街の景色が映っている。赤い屋根。細い道。並んで歩く人々。


俺は川辺にしゃがみ込んだ。

水に触れると、遠くで誰かの笑い声がした。


高くも低くもない、柔らかな声だった。

その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


「君に見せたいな」


言葉が、勝手に口からこぼれた。

誰に向かって言ったのか分からなかった。

君。

その呼び方だけが、舌に馴染んでいた。


顔は思い出せない。名前も分からない。


それでも俺はその人がいたことを知っていた。

そして、おそらくその人を大切に思っていた。


銀の川に映る街は、ゆっくりと揺れた。

もう二度と見ることのない風景のように。


「君は、誰なんだ」


尋ねても、川は答えなかった。


     *


最初の魔物に出会ったのは、その日の夕方だった。

草原の真ん中に、小さな家が建っていた。


赤い屋根と白い壁。煙突から細い煙が上がり、窓から橙色の明かりが漏れている。


砂漠を歩き続けていた俺には、それがあまりにも温かく見えた。

引き寄せられるように扉の前に立つと、中から女の声がした。


「おかえり」


心臓が跳ねた。俺は思わず扉を開けた。


食卓には湯気の立つスープと、焼きたてのパンが並んでいた。奥の椅子には、一人の女が座っている。


顔は見えなかった。


光に霞んでいるように、輪郭だけがぼやけていた。


「遅かったね」


女は言った。


「待ってたよ」

「俺を知ってるのか」

「何を言っているの?当たり前じゃない」

「君は誰だ」


女は答えず、向かいの椅子を引いた。


「座って。冷めちゃうから」


俺は立ったまま、女を見つめた。

知っている気がした。


この部屋の匂いも、食器の並び方も、窓辺に置かれた小さな花瓶も。


けれど、どこかがおかしかった。

何もかも懐かしいのに、何一つ思い出せない。


「ここにいればいいよ」


女は囁いた。


「もう行かなくていい」

「どこへ」

「どこにも行かなくていい」


その言葉と同時に食卓の上のスープが黒く濁った。

パンに黴が広がる。

窓の外の草原が枯れ、家の壁に無数の亀裂が走った。


女の顔がゆっくりとこちらを向いた。

そこには目も鼻も口もなかった。

ただ、暗い穴だけがあった。


「ここにいて」


 声が二重に重なって聞こえる。


「帰ってきて」


床から黒い腕が伸び、俺の足首を掴んだ。

俺は直感的に剣を抜いた。刃が光る。


一振りすると、家も、女も、食卓も、すべてが紙のように裂けた。


黒い煙が立ちのぼる。

煙の中から、いくつもの声が聞こえた。


帰りたい。

まだ終わっていない。

待っている人がいる。

やり残したことがある。


その声は次第に薄くなり、最後には風に溶けた。

家があった場所には、何も残っていなかった。


ただ、枯れた草の上に、小さな鍵が落ちていた。

拾い上げると、鍵は砂になって崩れた。


その瞬間、俺は魔物の名前を思い出した。


未練。


なぜあれの名前を知っているのかは分からなかった。


     *


そのまま旅を続けるうちに、魔物は何度も現れた。

海辺では幼い少年の姿をしていた。


「もう少しだけ遊ぼう」


少年は裸足で波打ち際を走り、俺に貝殻を投げてよこした。


「日が暮れるまで」


空には最初から太陽などなかった。

それでも少年は、夕焼けの来ない海で、いつまでも笑っていた。


森では、老いた男の姿をしていた。


「謝りたい人がいる」


男は切り株に座り、両手を見つめていた。


「一言だけでいい。すまなかったと伝えたい」


雪山では、一人の母親だった。

腕の中に見えない赤子を抱き、何度も名前を呼んでいた。


どの魔物も恐ろしい姿をしていなかった。

俺を襲うものもいれば、ただ道を塞ぐだけのものもいた。


彼らは皆、ここではないどこかを見ていた。

帰れない場所。会えない人。終わらなかった時間。


俺は剣で彼らを斬った。

斬るたび、魔物は黒い灰になった。


そして最後には必ず、安堵したような声がした。


ありがとう。もういい。これで行ける。


その意味は分からなかった。


ただ、魔物を倒すたびに、俺の体は少しずつ軽くなった。

同時に、何か大切なものまで失っているような気がした。


     *


何も思い出せないまま時が過ぎていく中、俺は花の谷に辿り着いた。


谷一面に、白い花が咲いていた。

花びらは風に舞い上がると、そのまま空へ昇り、星になった。


夜空には無数の光が浮かび、川のように流れていた。


俺は言葉を失った。

これまで見たどの景色よりも美しかった。

そして、またいつものように思った。

君に見せたい。


この花を。この夜空を。


風が吹いた瞬間、花の匂いに混じって、知らない香りがした。


甘くて、少し冷たい。

誰かの髪の匂い。


記憶の底で、声がした。


『見て。すごいよ』


隣に誰かがいる。

白い服を着て、花畑の中で笑っている。


顔は見えない。


けれど、俺はその人の手を握っていた。


『写真撮ろうよ』

「写真?」

『また忘れたの?』


からかうような声。

俺は笑っている。


『あなた、すぐ忘れるんだから』

「君が覚えてればいいだろ」

『私だって忘れるよ』

「じゃあ、何度でも見に来ればいい」

『ずっと?』

「ずっと」


その言葉のあと、景色が白く弾けた。

俺は花畑の中で一人、膝をついていた。


頬が濡れていた。


君。

確かに君はいた。

俺の隣に。


俺たちは一緒にどこかへ行こうとしていた。

たくさんの景色を見る約束をした。

けれど、なぜ俺は一人なのだろう。

なぜ君はここにいないのだろう。


考えようとすると、頭の奥に激しい痛みが走った。


花畑の向こうで、黒い影が立ち上がった。


人の形をした魔物だった。

背丈も、肩の形も、どこか自分に似ている。


「思い出すな」


影は言った。


「誰だ」

「忘れろ」

「何を」

「全部だ」


影の手には、俺と同じ剣があった。


次の瞬間、影は地面を蹴った。


剣と剣がぶつかる。

金属音が谷に響き、白い花が一斉に空へ舞い上がる。


「忘れれば楽になる」


影は何度も斬りつけてきた。


「忘れれば進める」

「進むってどこへだ」

「次へ」

「次って何だ」

「お前は知る必要がない」


影の刃が肩を裂いた。

血は出なかった。

傷口から、光の粒がこぼれた。


その光の中に、断片的な景色が見えた。


雨の窓。白い天井。誰かの手。泣き声。


すぐに消えた。俺は剣を握り直した。


「君を忘れるくらいなら、進めなくていい」


影の動きが止まった。

自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


けれど、胸の奥では、それだけが真実だった。

影はゆっくりと顔を上げた。


そこには、俺と同じ顔があった。


「それが、お前の執着だ」


影は笑った。

次の瞬間、俺は剣を振り抜いた。

影の体が二つに裂ける。


黒い霧が空へ散った。その中で声がした。


「塔で待っている」


     *


花の谷を越えると、世界は次第に色を失っていった。


草は灰色になり、川は透明になり、空から星が消えた。

黒い塔は近づくほど巨大になった。


その足元には、数え切れないほどの剣が突き立っていた。


折れた剣。錆びた剣。刃のない剣。


ここを訪れた者たちの名残のようだった。

塔の扉には文字が刻まれていた。


汝、すべてを捨てよ。


そう読めた。

扉に手を触れると、勝手に開いた。


中には階段があった。

上へ向かって、螺旋状に続いている。


俺は登り始めた。

途中に窓はなかった。

足音だけが響いた。


一段登るごとに、何かを忘れていく感覚があった。


最初に砂漠の景色を忘れた。

次に銀の川を忘れた。

青い草原。

白い花。

魔物たちの声。


思い出そうとしても、輪郭が薄れていく。


やがて、旅の始まりに会った老人の顔すら思い出せなくなった。


それでも、君に見せたいと思ったことだけは残っていた。

何を見せたかったのかは分からない。


誰に見せたかったのかも分からない。


ただ、その想いだけが胸の奥で消えずに燃えていた。


階段の先に、大きな扉が現れた。

押し開ける。


塔の最上階には、王座が一つ置かれていた。

王座には、黒い鎧をまとった男が座っていた。


兜の奥は真っ暗で、顔は見えない。


「よく来た、勇者」


男は言った。


「お前が魔王か」

「そう呼ばれている」

「執着の王」

「そう呼ぶ者もいる」


魔王は立ち上がった。

巨大な剣を手にしている。


「俺はお前を倒しに来た」

「なぜ」

「旅を終わらせるためだ」

「旅を終わらせて、どうする」

「次へ進む」

「何も知らずに?」


俺は黙った。何も知らなかったから。

魔王は兜を外した。

現れたのは、またしても俺と同じ顔だった。

ただし、その顔はひどく疲れていた。


目の下に影があり、頬は痩せ、泣き腫らしたように目が赤い。


「お前は誰だ」

「お前だ」

「違う」

「違わない」


魔王は剣を床に突き立てた。

塔全体が震えた。

壁が崩れ、その向こうに無数の景色が現れた。


白い部屋。

規則的な音を立てる機械。

窓の外に降る雨。

ベッドに横たわる誰か。


その傍らで、泣いている一人の人間。


顔はまだ見えない。


「これは何だ」

「お前が捨てたものだ」

「知らない」

「知っている」

「俺は勇者だ」

「違う」


魔王の声が低く響いた。


「お前は死者だ」


世界から音が消えた。

死者。


言葉の意味は分かる。


けれど、それが自分に結びつかない。


「嘘だ」

「ここは、生者の世界ではない」

「嘘だ」

「お前は旅をしていたのではない」

「黙れ」

「お前は忘れていた」


俺は剣を抜いた。


魔王に斬りかかる。


刃がぶつかり、火花が散る。


「魔物とは、お前の未練だ」


魔王は俺の剣を受け止めた。


「家に帰りたいという願い」


一撃。


「謝りたかった言葉」


二撃。


「終わらせたかった時間」


三撃。


俺の剣が弾かれた。


「そして俺は、お前の執着だ」


魔王の剣が胸を貫いた。


痛みはなかった。

代わりに、記憶が溢れた。


     *


雨の日だった。


俺は車の助手席に座っていた。


隣には君がいた。

君はハンドルを握りながら、何かを話していた。


来月の旅行。

海の見える町。

白い灯台。

丘の上の花畑。


「写真いっぱい撮ろうね」


君は笑っていた。


「また忘れるから?」


俺がからかうと、君は少し怒ったふりをした。


「忘れないためだよ」


雨が強くなった。

前が見えにくくなった。

対向車の光。

急ブレーキ。


君の横顔。


それから、音。


世界がひっくり返った。


次に目を覚ましたとき、白い天井が見えた。


体は動かなかった。

声も出なかった。

隣で誰かが泣いていた。


君だった。


額に包帯を巻き、頬に傷を作り、俺の手を握っていた。


「ごめん」


君は何度も言った。


「ごめんね」


違う。

君のせいじゃない。

そう言いたかった。


けれど声が出なかった。


俺の指は、君の手を握り返すことすらできなかった。


「まだ行ってないところ、いっぱいあるのに」


君は泣いていた。


「一緒に見たいものも、いっぱいあるのに」


機械の音が遠くなる。

君の顔がぼやける。


俺は最後まで、君に何も言えなかった。


大丈夫だとも。

愛しているとも。

生きてとも。


何一つ。


     *


気がつくと、俺は塔の床に倒れていた。

魔王の姿はなかった。

胸に刺さっていた剣も消えていた。


ただ、正面に白い扉が立っていた。

扉の向こうから、やわらかな光が漏れている。


その前に、旅の始まりで会った老人が立っていた。


「思い出したか」


俺は答えられなかった。

涙が止まらなかった。


「ここはどこなんだ」

「生と生のあいだ」

「死後の世界か」

「そう呼ぶ者もいる」

「俺は、転生するのか」


老人は頷いた。


「お前は現世を離れ、すべてを忘れ、新しい生へ向かう」

「全部?」

「全部だ」

「彼女のことも?」

「そうだ」


俺は白い扉を見た。

向こうには、新しい世界があるのだろう。

俺は何も知らない人間になり、何も覚えていない命として生まれ直す。


それがこの旅の終わりだった。


だから魔物たちは倒されるたび、安堵していた。


帰りたいという願いも。

謝りたいという言葉も。

やり残した時間も。


すべてを手放さなければ、次へ行けない。


「魔王は倒した」


老人が言った。


「お前の執着は、もう力を失った」

「違う」


俺は首を振った。


「まだ残ってる」


胸に手を当てる。

そこには何もない。

心臓も、血も、熱もない。


それでも確かに、消えていないものがあった。


「彼女に見せたい」


老人は黙っていた。


「砂漠も、銀の川も、花の谷も。全部、彼女に見せたい」

「それはもう叶わない」

「分かってる」

「扉を通れば、その想いも消える」

「分かってる」

「では、行け」


俺は動けなかった。

扉の向こうから、風が吹いている。


どこか懐かしい、春のような匂いがした。


この先へ行けば楽になる。

痛みも、後悔も、君への想いも、すべて消える。


けれど、消していいのだろうか。


君は今も生きている。

俺がいなくなった世界で。

一人で。


事故のことを背負って。

伝えられなかった言葉を抱えて。


「君が死んだんじゃなかった」


俺は呟いた。


旅の間、ずっと逆だと思っていた。

君がどこかにいて、俺が生きている。


君に会うために旅をしている。

そう思っていた。


けれど、違った。


残されたのは君だった。

生き続けなければならないのは君だった。

俺はもう、どこにも帰れない。


「一度だけ」


俺は老人を見た。


「一度だけでいい。彼女に伝えられないか」

「死者の声は、生者には届かない」

「夢でもいい」

「夢は目覚めれば消える」

「それでもいい」


老人は長い間、何も言わなかった。

やがて、杖で白い扉を軽く叩いた。


光の中に、小さな裂け目が生まれた。


「一度だけだ」


裂け目の向こうに、夜の部屋が見えた。

君がベッドに横たわっている。


枕元には、俺の写真が置かれていた。

君は眠っていた。


目元には泣いた痕が残っていた。

俺は裂け目に手を伸ばした。


触れることはできない。

声も届かない。

それでも、俺は言った。


「君のせいじゃない」


君は動かなかった。


「俺は怒ってない」


夜の部屋に、月の光が差し込んだ。


白い灯台。

海の見える町。

丘の花畑。


2人で行くはずだったすべての景色が、胸をよぎる。


「君は行って」


君の指が、わずかに動いた。


「俺のことを考えなくていい。忘れていい。幸せになっていい」


言葉が次々と溢れた。


生きてほしい。

笑ってほしい。

誰かをまた好きになってほしい。

俺を裏切ったと思わないでほしい。


忘れることを罪だと思わないでほしい。


「本当は、ずっと一緒にいたかった」


声が震えた。


「でも、君が生きているならそれだけでいい」


君の頬を一筋の涙が流れた。


夢の中で何かを聞いているのかもしれない。

あるいは、ただ悲しい夢を見ているだけなのかもしれない。


それでも俺は、最後に笑った。


「綺麗なものを見つけたら、俺に見せようとしなくていい」


裂け目が少しずつ閉じていく。


「全部、君のために見て」


君の唇がわずかに動いた。

名前を呼ばれた気がした。

けれど、もう聞こえなかった。


裂け目は消えた。

夜の部屋も、君の姿も、見えなくなった。


     *


白い扉の前に立つ。

老人は何も言わない。


俺は最後に、自分の名前を思い出そうとした。

やっぱり思い出せなかった。


君の名前だって思い出せないし、顔も少しずつ薄れている。


けれど、不思議と怖くなかった。

忘れることは、なかったことになることではない。


俺が忘れても、君と過ごした時間は消えない。


君がいつか忘れても、俺たちが愛し合った事実はなくならない。


記憶は失われる。

けれど、存在したことまで失われるわけではない。


俺は剣を床に置いた。


勇者の証も旅の役目ももう必要なかった。


扉に手をかける。


向こうから光があふれた。

最後に、一つだけ心に浮かんだ。


何もかも忘れるための旅だった。


名前も。約束も。痛みも。愛したことさえも。


それなのに、この世界には君に見せたいものばかりあった。


だからきっと、次の世界でも。


何も覚えていない俺は、どこかで美しい景色を見たとき、理由も分からず立ち止まるのだろう。


まだ知らない誰かを思って、こう呟く。


君に見せたい、と。


俺は扉を開けた。

光の中へ踏み出す。

背後で、塔が崩れる音がした。

白い砂漠も、銀の川も、花の谷も、すべてが遠ざかっていく。


最後まで消えなかった想いだけが名前を失ったままかすかな温度となって残っていた。


そして現世のどこかで、君が目を覚ました。


夜明け前の部屋。

窓の外には、薄い青空が広がっている。


君は理由も分からず泣いていた。


けれどその涙は、これまでとは少し違っていた。

枕元の写真に触れ、長い間見つめたあと、君は初めて、ほんの少しだけ笑った。


「行ってくるね」


誰に言うでもなく、君はそう呟いた。


その日、君は一人で家を出た。


海の見える町へ向かうために。

白い灯台と、丘の花畑を見るために。

もう隣に俺はいない。


それでも君は歩いていく。


生きている者だけが進める、長く、残酷で、美しい世界を。

そして丘の上で風に吹かれながら、君は一枚の写真を撮った。


白い花。青い海。遠くに立つ灯台。


写真の中には、君しかいない。


けれどシャッターを切った瞬間、君はなぜか振り返った。

誰もいないはずの場所に、誰かが立っているような気がしたから。


もちろん、そこには誰もいなかった。


ただ風だけが吹いていた。


君はしばらくその場所を見つめたあと、静かに笑った。


「一緒に見たかったな」


そう言って、首を振る。


「違うね」


君は海の方を向いた。


「私が、見たかったんだ」


風が花びらを巻き上げた。


白い花は空へ舞い、朝の光の中で、星のように輝いた。

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