第四話 闇の鼓動と、世界の揺らぎ
鎖を断ち切った黒曜は、十六夜を腕に抱いたまま、漆黒の空間を垂直に上昇した。
その移動は、もはや次元を歪める神業。
彼らが地上に立つとき、古びた杉戸の扉は跡形もなく消え去り、そこには黒曜石を嵌め込んだ、魔界はと通じる重厚な洋風のゲートが新しく構築されていた。
夜明け前の僅かな時間。
帝都の空は、まだ宣戦布告の余韻である深紅の雷光に染まっていた。
十六夜は、黒曜の腕から降り、神聖社殿の最も高い尖塔の屋根に立った。眼下には、未だ沈黙と恐怖に包まれた帝都の街並みが広がっている。
「これが、あなたが守っていた世界、愚かで傲慢な人間たちの国ですわ、旦那様」
十六夜の髪は、夜の帳を吸い込んだように深く、彼女の瞳は夜明けの光を拒む深紅に光っていた。額の烙印は、彼女がもはや人間の常識に囚われない、闇の女王であることを示している。
黒曜は、十六夜の背後に立ち、優しく、しかし確かな力で彼女の腰を抱き寄せた。
「ふむ。この光景を、お前は愚かな世界と言いながら、愛しているのだな。だが、心配するな、十六夜。私がお前の愛する街の闇を引き受け、永遠に安定させてやる」
彼の視線は、十六夜の背後、闇に沈む王宮を向いていた。
宣戦布告の余波は大きかった。王宮はすでに厳重な警備で固められてはいるが、混乱と恐怖で機能不全に陥っているのが、十六夜の覚醒した情報網を通じて手に取るようにわかった。
「皇子エドワードは、まだ社殿の近くにいるわ。すぐにでも軍を差し向け、私たちを討伐するつもりでしょう。そして、白百合は――恐怖で泣き喚きながらも、自身が偽りの聖女ではないと、自らの力を必死に誇示しようとしている」
十六夜は、冷徹に現状を分析した。
「ですが、力でねじ伏せるのは無粋です。旦那様の言う通り、欺瞞と傲慢にこそ、裁きを下さなくては」
彼女は、黒曜の力と、自身が覚醒した「闇の管理術」を組み合わせる。十六夜の家系が代々築き上げてきた、帝都の闇社会に張り巡らされた情報の裏街道が、彼女の意識下に開いた。
「私の最初の仕事は、彼らの権威を崩すこと。王宮の機密文書庫――そこが、私たち夫婦の最初の獲物です」
十六夜の瞳が鋭く光る。この瞬間、彼女は、単なる悪役令嬢ではなく、帝都の裏側からすべてを支配する、闇の女王として確かに覚醒したのだ。
「王宮の深部に隠された『契約の証拠』……人類が古の鬼神を裏切った瞬間を記す、真の歴史の鍵」
十六夜は、黒曜の胸の中で、静かに目を閉じた。彼女の身体は、異界の瘴気と黒曜の血によって強化されたが、その力は肉体的な暴力に向かうものではない。
十六夜は、ド・カゲツナ家が代々伝えてきた膨大な古文書の記憶を、覚醒した知性で一瞬にして読み解く。同時に、彼女の額の烙印を通じて、黒曜から流れる闇の魔力が、帝都のエネルギーの流れをスキャンした。
「場所は特定しました、旦那様。王宮の最も古い区画、『始祖の館』の地下。聖女の、白百合の清浄な力が届かぬよう、あえて『穢れた』魔力で守られた、皮肉な場所です」
黒曜は十六夜の髪を撫でた。
「手を出さずに、その情報を奪う。それがお前のやり方か、我が女王よ」
「ええ。暴力は、彼らが最も得意とする手段。私たちは、彼らが最も恐れる『真実』で裁きます」
彼らはもはや物理的な移動を必要としなかった。黒曜が社の屋根から王宮へ向けて意識を集中させる。十六夜は、その強大な魔力の波に、自らの繊細な情報操作の術を乗せた。
よほどの力の持ち主でない限り、察知することすら不可能だろう。
王宮の秘密文書庫は、重厚な石造りの金庫室だった。何重もの物理的な鍵、そして白百合の祖先が施したとされる「清浄なる結界」によって守られている。だが、十六夜にとっては意味を成さない。
(十六夜の意識)
清浄の結界? いいえ、これはただの『闇の抑圧』。闇を排除する力では、本当の闇を知ることはできない。
十六夜は黒曜の闇の力を借り、その結界の「抑圧」が作り出す微かな『影』に、自らの意識を潜り込ませた。
幽体離脱にも似た感覚で、彼女の意識は一瞬にして部屋の内部へ。
その地下深くにある、清浄な区画の中の異質な場所へと向かう。
そこは聖女こそ立ち入れない邪悪な力に満ちているが、十六夜にはあってもなくても同じような粗末な結界、いや、きな臭い程度のものだった。
古めかしい木製の棚に、厳重に保管された『始祖契約書・正本』を視認する。それは、羊皮紙ではなく、和野国の和紙に漢字と古代ルーンで綴られた、脆い巻物だった。
十六夜は、この巻物に触れることなく、脳内で瞬時に文字を複写し、すべてを解析した。
そして、真実が確定する。
鬼神を裏切った証拠。
人間が鬼神から知識と力を搾取し、一方的な封印を施した経緯。
そして、「聖女の力」が、いかに共存を破壊するためだけに特化して作り出されたものであるかという、恐るべき起源。
「すべてを記録しました、旦那様」
十六夜が目を開けると、その瞳には、文書庫の構造、警備員の配置、そして巻物の文字の一行一句すべてが焼き付いていた。
彼女は黒曜の魔力をかり、古くて脆い巻物を最新の綺麗な本として手元に再構築していく。
「この情報は、皇子と白百合の王としての権威、そして聖女の権威を、根底から崩す、最高の毒になりますわ」
神聖社殿の屋根の上、夜明け前の深紅の空の下で、十六夜は宣言した。
黒曜は満足げに頷いた。
「では、最初の裁きを開始しよう、女王、十六夜よ。お前の望む通り、彼らに最も残酷な真実を喰らわせるのだ」
黒曜は、彼女の首筋に顔を埋めた。冷たい吐息が十六夜の肌をかすめる。
「お前の策は回りくどく、美しい。私好みだ、十六夜」
「ありがとう存じます、旦那様」
十六夜は、祭壇からコピーした『始祖契約書・正本』の真実を、頭の中で二つの章に分けた。
第一の章は、「皇室の腐敗」を暴くもの。
ー古代契約の真実(鬼神は守護者であり、人間が裏切ったという証拠)。
ー現皇帝に至るまでの皇族が、白百合の家系に巨額の賄賂を渡し、伝承を歪曲してきた証拠。
第二の章は、「聖女の起源」を暴くもの。
ー白百合の持つ「清浄なる力」が、実は共存を阻むための「抑圧の呪い」であり、帝都の安定に不可欠な怪異の力を一方的に蝕む毒であるという、魔術的な解析。
この情報は、単に私の「悪役令嬢の復讐」としてではなく、黒曜の「闇の王からの裁き」という形をとって流されるべきだ。
「旦那様、力を貸してくださる? 彼らが最も隠したがっている闇の媒体へ、この真実を流し込みます」
黒曜は頷き、漆黒の魔力を帝都に向けて解放した。
その魔力は、帝都の表の結界をすり抜け、貴族たちが夜な夜な集う闇賭博の賭場の帳簿へ。皇室の陰謀を追う反体制派の貧しい新聞社の印刷機へ。そして、最も力を持つ五大貴族が、密かに交わす手紙の裏側へ。
誰もが秘密裏に利用している、「帝都の負のネットワーク」。そこに、十六夜の『真実の毒』が注入された。
「封じられていた魔族たちも、少しずつ動き出すだろう。世界はもう我々の手中にある……」
一夜にして、帝都の裏側が動いた。
夜が明け、日の光が差し始めた頃。
社殿近くの貴賓室で朝食をとっていた皇子エドワードは、側近が震える手で差し出した一枚の闇新聞を見て、血の気を失った。
そこには、『皇室の裏切りと聖女の毒:闇の王が暴く真実の歴史』という、禍々しい見出しが踊っていた。
「ま、まさか……あの女が、こんなものを……! 一体どうやって!」
皇子は絶叫した。
「誰もあそこから出てきていないはずだろう! 詳しく調べろ!」
一方、白百合は、王宮内の自室で、顔面蒼白になっていた。彼女の元には、匿名で送られてきた契約書の写しと、自身の力が『抑圧の呪い』であるという解析結果が届いていたのだ。
「嘘よ……私は、私は世界を救う光なのに! こんなの、あの悪女のでたらめよ! 最後の悪あがきだわ!」
彼女は聖女の力を示そうと、周囲の空気を浄化しようとするが、昨夜からの鬼神の魔力が残滓として帝都を覆っており、その清浄な力は、まるで泥水に溶けた絵の具のようになんの変化も見せず、ただ無力だった。
十六夜の裁きは、剣や炎での武力行使ではなかった。それは、権威の基盤を腐らせる、最も冷酷で知的な復讐だった。
「さあ、旦那様」
社殿の屋根の上、闇を背負った女王は、満面の笑みを浮かべた。
「偽りの聖戦の、幕開けですわ」
宣戦布告と、その後の機密漏洩という強烈な一撃を放った後、神聖社殿の屋根の上は静寂に包まれていた。
十六夜は、眼下の王宮の恐怖が小さな揺れから大地震へと変わるのを、冷めた瞳で見ていた。
皇子エドワードが怒鳴る声や、白百合が泣き叫ぶ気配が、闇の情報を通じて鮮明に伝わってくる。
「ふむ。見事なものだ、女王よ」
黒曜が、十六夜の細い肩越しに顎を乗せた。鎖の痕が残る、彼の冷たい手が、十六夜の腰を優しく抱き締める。
「お前の『毒』は、剣や炎よりも深く、彼らの心臓を蝕む。予想以上の手際だ。古の時代にも、お前ほどに闇を理解し、利用する人間はいなかっただろうな」
「ありがとう存じます、旦那様」
十六夜は、黒曜の賛辞を素直に受け取った。彼の力と、数千年の知識が融合した今、もはや彼女は過去の「悪役令嬢」ではない。
「ですが、これは序章に過ぎませんわ。あのような愚かな人間は、『真実』を突きつけられても、すぐに別の『偽り』で塗り固めようとするでしょう。特に、白百合は」
彼女の額の烙印が、微かに熱を帯びた。
「あの聖女は、自身の無力さと、利用されているという真実に耐えられないでしょう。必ず、自身の『清らかな力』を誇示し、私たちを『悪しき怪異』として討伐する儀式を強行してきます」
黒曜は低く笑った。その声は、深紅の瞳と同じように、甘美で恐ろしい。
「光か。よかろう。闇の王たる私の妻が、あんなちっぽけな光を恐れるわけがない」
黒曜は十六夜を抱き上げ、その頬に口付けた。それは、契約を再確認する熱烈な儀式だった。
「次の指示を出してみよ、十六夜。私の愛しい妻よ。次は、奴らの『権威』そのものを踏みにじる番だ。お前の望む通り、私は剣となり、お前の道を開こう」
十六夜は、黒曜の首筋にそっと手を回した。
「次は、『対比』ですわ、旦那様」
「彼らは、あなたを帝都の『災厄』として宣伝するでしょう。ならば私たちは、『闇こそが秩序と恵みをもたらす』ことを、民衆に見せつけます。今までずっと側で見ておりました。手に取るようにわかります……手始めに、帝都の裏通りに蔓延る疫病と、貧困街の混乱。そこへ、あなたの『闇の秩序』の力を使うのです。ここの民達に見せてあげて。白百合の清浄な力が何もできなかった場所に、闇の王と闇の女王が、真の救済をもたらすのです」
黒曜の深紅の瞳が、歓喜に満ちた。
「よかろう。人間の価値観を、根底から覆してやろう。闇の女王の指示とあらば、この身はいつでもお前の剣だ」
黒曜は、十六夜を抱いたまま、漆黒の外套を夜明け前の風になびかせた。
「さあ、女王。地上の舞台へ」
次の瞬間、二人の姿は、神聖社殿の尖塔から静かに、そして完全に、消え去った。彼らの旅立ちの跡には、闇の王と女王の圧倒的な威圧感だけが、張り詰めた空気のように残されていた。
十六夜を抱いたまま、黒曜は神聖社殿の尖塔から、帝都を見下ろす最も高い丘へと移動した。
そこは王宮とは対極にある、岩で覆われた山沿いの丘だった。
その空を舞うような軽やかな動きは、風を切る音すらせず、まるで闇が空間を縫い合わせたかのようだった。
「さて、女王よ。裁きは始まったが、戦の最中でも、王の安息の地は必要だ」
黒曜は丘の頂上で十六夜をそっと下ろした。
「この地は、かつての人間の王が、鬼神の力を見下ろすために選んだ場所だ。私を封印した地を恐れて住んでいたのだが、いつの間にか私の上に住むようになった。今、その王たちが恐怖に震える姿を見下ろすここを、私たちの真の王宮としよう」
黒曜は手を広げた。鎖の解放によって得た膨大な魔力が、大地へと流れ込む。
ゴウッ、という低く重い音と共に、丘の地面が軋んだ。地中から湧き上がったのは、地下の祭壇と同じ漆黒の黒曜石。その石が、意思を持ったかのように積み上がり、一瞬にして巨大な建物の骨格を組み上げた。
二人を囲むように地面が盛り上がり、部屋を作り城となっていく。
それは、人間の技術では到底不可能な、闇の建築物だった。
建物の様式は、十六夜の記憶に残る日本の古の社殿と、黒曜のゴシック様式が融合している。
黒曜石の壁面には、月光を取り込むための巨大な格子窓が開き、内部には、怨嗟の魔力を濾過して清浄な空気へと変える、和紙のように見える特殊な結界が張られていた。
黒曜が両手を振ると、闇からメイドや騎士が出てきて、一礼するとすぐに仕事へと出かけていく。
再度手を振ると、室内に細やかな装飾ができていく。
「これは……」
十六夜は、息を飲んだ。それは、彼女の無意識の理想と、黒曜の力が完全に調和した、二人の居場所だった。
「この空間は、お前の魂の記録と私の力が作り出した、私たちの『真の共存』の雛形だ」
黒曜は十六夜の肩を引き寄せ、その空間の中央に立つ、二つの玉座を示した。一つは黒曜石、もう一つは、闇の中で仄かに青白く光る月石でできている。
「さあ、女王。地上の愚か者たちが喧騒を極める間も、お前はこの玉座で安らぎを得るがいい。そして、私に次の指示を出し続けるのだ」
十六夜は、玉座に座る前に、黒曜の美しい軍服の襟に手をかけ、引き寄せた。
「お心遣い、感謝します。旦那様」
そして、闇の女王は、彼らの新居での最初のキスを、静かに求めた。




