第三話 黒き鬼神の嫁入り
「よかろう。我が名は黒曜。古の盟約は破棄された。今、十六夜、お前との新しい契約を、婚姻の契りとして交わそう」
黒曜の声が異界に響き渡るのと同時に、漆黒のドーム空間は、祭壇から湧き上がる紫色光に包まれた。それは闇に咲いた毒々しい花のように、美しく、そして恐ろしかった。
鎖に繋がれていたはずの黒曜が、微動だにしなかったにも関わらず、十六夜の眼前に立っていた。その移動は、空間そのものが彼の意思に従ったかのようだった。
「魂のすべてを捧げると言ったな、十六夜」
黒曜は、十六夜の頬に触れた。その指先は驚くほど冷たく、人間の肌ではないことがわかる。しかし、その接触は、何よりも熱い炎となって十六夜の意識を焼き尽くそうとした。
「その言葉に嘘はないか。この契りは、お前の命が尽きようとも、肉体がなくなろうとも、私から離れることは許さない、永遠の隷属にも等しい愛の鎖だ。
光の聖女が説く『愛』とは異なり、心を共にすることではないぞ。私たち『闇の王族』の契りは、すべてを共有すること。喜び、憎しみ、力、知識、そして孤独――お前の魂の深部に刻まれたすべてが、私のものとなる」
黒曜の瞳が、深紅の輝きを増した。
十六夜は、彼の冷たい指先を、自らの手のひらで包み込んだ。
「上等ですわ、旦那様」
十六夜は囁いた。
「私から全てを奪い、私に全てを委ねてください。私は、この世界の間違いを知ってそれを正すためにきた。あなたが背負ってきた、何千年もの怨嗟と孤独を、共に背負うためにここへ来たのですから」
彼女の、一瞬の戸惑いすらない強い決意に、黒曜の角が微かに揺らいだ。彼は、自分の孤独を理解し、受け入れようとするこの娘の魂に、激しく惹かれていることを自覚した。
「ならば、望み通りに」
黒曜は十六夜の顎を捉え、その唇を塞いだ。
それは、まるで凍てついた鎖が魂に巻き付くような、冷たく、そして強烈なキスだった。口付けと共に、黒曜の唇から一滴の漆黒の血が流れ込み、十六夜の喉を灼いた。
血が体内に流れ込んだ瞬間、十六夜の全身を激痛が貫いた。それは黒曜の持つ、帝都の闇と怨嗟のすべてが共有される、彼女の魂に流れ込む痛みだった。
――(十六夜の意識)
白百合の力に利用される皇子の哀れさ。
帝都の貴族たちが裏切りを画策した瞬間の、千年もの昔の記憶。
そして、鎖に繋がれた黒曜が、孤独に闇の夜空を見上げていた途方もない時間の感覚。
帝都中にある、妬み、憎しみ、苦しみ、負の感情の全て。闇にまつわる全て。
十六夜の脳裏に、数千年の情報と感情が奔流のように流れ込み、彼女の魂は破裂寸前だった。
しかし、その激痛の最中、一つの強力な力が覚醒した。
ド・カゲツナ家が代々受け継いできた、「闇を統べるための術と知識」が、黒曜の力と混じり合い、新たな力として開花したのだ。
それは、闇を祓う「聖女」の力ではなく、闇を理解し、秩序を与える「闇の女王」としての力だった。
「これで、お前は私のものだ」
黒曜は唇を離し、十六夜の額の中心、魔族ならば角が生えるべき場所に口付けた。それは、鬼神の配偶者であることを示す、永遠の烙印。小さな漆黒の花が咲いた。
瞬間、十六夜が持ち込んだ秘宝『共存の鍵』はその姿を変え、二人の腕に金色の輪となっておさまった。
「さあ、私の女王よ。お前はもう、卑小な人間の常識に縛られる必要はない。その力を以て、お前を裏切り、私を裏切った者たちへ、真の裁きを下しに行こう」
「ええ、旦那様」
彼女の声は、先ほどまでの冷静さを持ちながらも、鬼神の妻としての強靭な意志と、抑えきれない歓喜を含んでいた。
彼らを取り巻く空間の闇は姿を変え、散り散りになって外へ飛び出した。
「私の裁きは、単なる復讐ではありませんわ。世界の仕組みを忘れ、闇を忘れ……共存を拒み、世界を滅びに導いた傲慢な人間たちへ、私が愛したこの帝都の真実の歴史を見せてあげるのです」
十六夜の瞳は、もうただの黒ではなかった。黒曜の深紅の瞳の色を映し、闇の中で妖しく輝く「十六夜の月」のように、強く燃えていた。
漆黒の血による婚姻の契りが終わると、祭壇の紫色光は急激に収束した。十六夜の身に宿った力は、彼女の黒いドレスを、まるで夜空を纏ったかのように、さらに深く、艶やかに変貌させていた。
全身の痛みと膨大な量の知識に疲弊した十六夜は、立っていられずよろけてしまう。黒曜はそんな彼女を抱き上げ、優しい顔を向けた。
「どうだ、女王よ。私の力は、お前の目的に相応しかったか?」
十六夜は、彼の胸にそっと頬をあて、安心して体に預けた。
「完璧ですわ、旦那様」
十六夜は、契約の証である額の烙印に触れた。熱を持ったそこから、帝都全土の『闇の情報』が流れ込んでくる。
皇室の腐敗、白百合の純粋な嫉妬、そして何よりも、共存を拒む権力者たちの醜い陰謀。すべてが、まるで目の前で起こっているかのように、鮮明だった。
「これが黒曜様の力」
「そうだ、私の力は闇の全てと繋がり、従えること。お前の持つ知識と感情もまた、全て私と繋がった」
「これで、もう待つ必要はありませんわね」
十六夜は黒曜を見上げ、不敵に微笑んだ。
「さあ、地上へ戻りましょう。今世の聖女と、騙された皇子に、私たちがこれから始める『真の共存』を教えてあげなくては」
黒曜は満足そうに頷くと、十六夜の細い腰を抱く手に力を込めた。
「無論だ。私の女王が望むなら、この鎖を断ち切るのも容易い」
彼の意思に従い、漆黒の祭壇を繋いでいた無数の鎖が、一斉に音を立てて砕け散った。鎖が地面に落ちる衝撃だけで、地下空間全体が激しく揺れ動く。
「すごい力だ、古の力の満ちていた頃よりも強く満たされている。十六夜の持っていた知識と力のせいだろうな」
――その時、地上ではひと月もの時が流れていた。
あれから何事もなく幸せに過ごしていたものたちは、封印の経過を観察しに社殿に集まっていた。
なんの知識もないものたちが行った、十六夜を追い出した後の形式的な封印の儀式。
視察と称し遊びに来ていた皇子エドワードと、その腕に抱かれた白百合が、社殿近くの貴賓室で優雅な午後を過ごしている。
その平穏な時を、轟音が引き裂いた。
その瞬間、黒曜は異界の闇を凝縮した魔力で、鬼神の『声』を地上へ放った。
「「――聞け、帝都の愚かなる支配者たちよ」」
轟音にも似た、異形の王の声は、神聖社殿の大広間を突き抜け、帝都全土に響き渡った。
皇子エドワードと白百合は、驚愕と恐怖に顔を歪める。
「これは、十六夜を追放した夜、皇子が一人で執り行ったはずの儀式が失敗したということですわ!」
白百合が、真っ青な声で叫んだ。
皇子は取り乱し、白百合の肩を強く抱き、落ち着こうとしていた。
「何を失敗したんだ! くそ、一体何が起きているんだ…」
十六夜の声も、黒曜の力によって増幅され、帝都の夜空を支配した。その声には、冷たい怒りと、抑えきれない女王の威厳が宿っていた。
「「私はここに、真の共存の守護者、黒曜と共にいる。私への断罪は、共存契約の破棄であり、帝都の自滅行為を意味する」」
黒曜が引き継ぐ。
「「今より、古の盟約は破棄され、新しい盟約とともに真の王政が始まる。私は闇の王として、お前たちの欺瞞と傲慢に裁きを下す。そして、偽りの光に惑わされた者たちに、真の闇が何であるかを教えてやろう」」
そして、十六夜が、決意を込めた最後の宣言を放った。
「「覚悟なさい、白百合。そして、愚かな皇子殿下エドワード。私の、鬼神の嫁入りは、あなた方を裁くために始まった。この帝都を、光と闇の真の共存という名の、新たな歴史で塗り替えるまで、私たちは止まりません」」
地下の闇が唸りを上げ、神聖社殿の上空に、漆黒の雲と深紅の雷光が走った。
それは、闇の王と、その妻である女王が、帝都全体へ叩きつけた、宣戦布告の夜だった。
亡き悪女の残響と、偽りの王妃
帝都の王宮、その一室。
十六夜が国外追放され、闇の王への生贄として死んだと発表されてから、まだ三日と経っていない。
玉座の前の床には、十六夜が残した私物や外交文書、王妃としての教育記録の書物などが散乱していた。
皇子エドワードは、勝利の陶酔に浸り、十六夜の私的な日記帳を白百合の前で引き裂いた。
「ハハハ! 見ろ、白百合! 悪魔の血を引く悪女が、妃教育などと! すべては国の無駄だった!」
エドワードは高らかに宣言した。
「十六夜の残したものは、すべて国の穢れだ!これからは清らかな光の時代だ! 君こそが、この玉座に最も相応しい!」
白百合は、嬉しそうに十六夜が身に着けていたはずの外交用の宝石を、ハイヒールで踏みつけた。
「嬉しいわ! エドワード様。私の光こそが真実。悪魔の血を引く十六夜は、国のためによい生贄となったのです。これで、王宮は清められます」
彼女の瞳は狂信的な喜びに満ちていた。二人は、十六夜を公然と侮辱し、自分たちの正当性を確認し合っていた。
その光景を、部屋の隅で設置された豪華なテーブルで、皇帝と皇后が冷めた目で見つめていた。彼らの前には、上等なワインと菓子が並んでいる。
皇后はワイングラスを揺らし、皮肉げに口を開いた。
「まったく、あの狂言は見ていられないわね。だが、まあいいでしょう。計画に少し狂いが生じた程度。十六夜という厄介な駒が消えたのだから、皇子があんな狂言をしていても、国が傾くわけではない」
皇帝は無関心に頷いた。
「好きにさせておけばいい。どうせ、政など、彼らには扱えぬ。外交や予算の調整といった本質は、我々が裏で掌握していれば良いのだ。より優秀な後継者はまた他で作れば良い」
彼らは十六夜の知性が失われたことには関心がない。彼が求めたのは、国政の邪魔になる闇の脅威が消えることだけだった。
「ふん。あの十六夜は、最後に我が家の名誉に泥を塗ってくれたが、本質的な問題、国家の裏の怪異さえ解決すれば、誰が玉座の隣にいても構わん」
玉座の間は、彼らの冷酷な無関心と、皇子と聖女の浅はかな傲慢に満たされていた。誰も、この愚かな振る舞いが、わずか数週間後には国を揺るがす最大の愚行として報われることなど、想像だにしていなかった。




