第二十話 光の世界の崩壊
聖峰グラツィアの頂上にある大聖堂。
そこは評議会の総本山だった。
「さあ始めるぞ! あの使えない聖女を捕らえた! これで儀式がより強固になる!」
そこには食材の旅に出ていたはずの聖女、白百合の姿があった。十字架に磔にされ、意識がないのかぐったりとしていた。中身は皇子エドワードなのだが、彼らにはその事実は知られていない。
そこには、レムス大司教とアルク枢機卿、そして数百人の高位神官たちが集まり、大規模な儀式魔術を行っていた。聖女の力を無理やり抽出して強化された防御結界は、かつてないほどの輝きを放っていた。
「見よ! 闇の王の軍勢が、手も足も出せずに停滞している!」
レムス大司教は、魔導鏡に映るノクティス・ベイルの艦隊を見て、勝ち誇ったように叫んだ。彼の顔には、狂信的な笑みが張り付いている。
「奴らは恐れているのだ! 我々の光の教義という絶対正義を! 神は我々と共にある! いかに闇の王とて、数百万人の信徒の祈りが込められたこの壁を破ることはできん!」
アルク枢機卿もまた、震える手で聖書を握りしめながら、自らを鼓舞するように同調した。
「そ、そうですとも! 魔族の野蛮な魔力など、神聖な結界の前では霧散するのみ!我々はこの聖峰に籠り続ければ、いずれ奴らは自滅する!」
彼らは知らなかった。
聖女が実は偽物であること、その強固な輝きは闇の力を含んだ歪なものであること。
自分たちが動けない闇の軍勢を見て優越感に浸っているその瞬間、自分たちの足元にある論理的基盤が、既に照準を合わされていることを。
彼らは、自分たちが守られていると信じていた。
だが実際には、逃げ場を失っていただけだったのだ。
ーーノクティス・ベイル陣営、技術部隊。
ハドソンは、リミタージュの最高技術者アルマと共に、秩序崩壊の共鳴装置の最終スイッチに手をかけていた。
「ハドソン、準備はいいわね。あの高慢ちきな光の壁を、ただの数値の羅列に変えてやりましょう」
アルマが不敵に笑う。
「ああ。陛下のご命令だ。派手な爆発はいらない。静かなる絶望を送ろう」
スイッチが押された。
キィィィィィン……
耳障りな高周波のような音が、戦場に響いた。だが、物理的な砲撃は放たれなかった。放たれたのは、目に見えない闇の魔力の波だ。
それは、結界を構成する魔力式に干渉し、偽りの光の秩序を強制的に暴露する。
「さあ、これで奴らの総本山がわかるぞ!」
二人は装置の導き出した結果を確認すると、ただちに十六夜へ方向へ行った。
玉座に座した黒曜と十六夜、側近のカサネにクロガネとホヅミ、そしてジャンヌとミゼラ、ハドソンとアルマ。
主要メンバーが勢揃いしていた。
「ここです」
映し出されたのは世界地図、そこに今までは見えなかった強い反応、光の総本山が明らかになっていた。
「そうか、グラツィア。あんな山奥にいたのか」
「そのようです。これはもしものために用意しておいたアレが使えるわ」
十六夜はカサネの方は指示を出す。
カサネは一礼すると、クロガネ、ハドソン、アルマを連れて闇に消えた。
「さあ、最後の仕上げです」
ーーグラツィアの大聖堂で、異変は唐突に起きた。
「な、なんだ!? 結界の輝きが……濁っていく!?」
神官の一人が悲鳴を上げた。
結界の表面に、ノクティス・ベイル側が流した真実の告発が、文字や映像となって浮かび上がったのだ。
『偽りの輝きは、信徒の飢餓の上に成り立っている』
『教義における救済とは、評議会の隠し資産の別名である』
『祈りは届かない。なぜなら、神を捏造しているからだ』
「や、やめろ! なんだこれは!?」
レムスは杖を振り回した。
「こんなデタラメな幻術が、神聖な結界に通用するわけが……!」
しかし、結界は攻撃を防ぐどころか、その告発を肯定するかのように、自らひび割れ始めた。
この結界は人々の信仰心をエネルギー源としている。共鳴装置は、その信仰心の根底にある疑念を共鳴させ、エネルギーを逆流させたのだ。
ーーパリン……
大音響ではない。まるで薄氷が割れるような、頼りない音が響いた。
数百年、誰も破れなかった総本山の絶対防御の壁は、ただの理屈によって、音もなく、粉々に霧散した。
磔にされていた白百合の姿も、エドワードの姿に戻った。
「なんだこれは!」
「これはエドワードではないか! これもまやかしなのか?」
「一体何が起きている!」
神官たちは事態の把握もできず、大騒ぎをしていた。レムス大司教とアルク枢機卿でさえ、何もできずただ立ち尽くし、呆然としていた。
ーー聖峰グラツィアを見下ろす上空。
闇の王・黒曜の魔力で浮遊する旗艦『ノクティス・アーク』の艦橋最上部。
秘密裏に十六夜の命令でつくられていた旗艦、新しく参入した技術者のおかげであっという間に完成していたのだ。
そこは、戦場とは思えないほど静謐な空気が流れていた。眼下には、数千年の歴史を誇る光の総本山が、分厚い結界の光に包まれて鎮座している。
闇の王妃・十六夜は、ガラス越しにその光景を見つめていた。彼女の表情はいつも通り冷徹で、計算された美しさを湛えている。だが、その指先だけが、わずかに震えていた。恐怖ではない。これは、自らの「論理」が、世界の根幹たる「信仰」を覆せるかという、知性ゆえの緊張だった。
「……寒いか、十六夜」
低く、包み込むような声が響く。闇の王・黒曜が、音もなく彼女の背後に立っていた。彼は、自らの漆黒のマントを広げ、十六夜の華奢な肩を優しく包み込んだ。
「いいえ、旦那様。これは武者震いのようなものですわ。私の計算に、狂いはありません」
十六夜は強がったが、黒曜は彼女の腰に手を回し、愛おしげに引き寄せた。その圧倒的な体温と魔力の奔流が、十六夜の冷え切った緊張を瞬く間に溶かしていく。
「お前は賢すぎる。だからこそ、万が一の確率論さえも計算してしまうのだろう」
黒曜は、十六夜の耳元に唇を寄せ、世界でただ一人、彼女だけに許された甘やかな声で囁いた。
「案ずるな。お前の作ったあの装置が、もしと壁を崩せなかったとしても――それはお前の敗北ではない」
「黒曜…?」
「もしお前の知恵が壁に阻まれたなら、私がその壁を、この力ですべて粉々にする。お前の論理が通じぬ愚か者など、私が根絶やしにしてやる。最後には、お前が望む秩序だけが、この世界に残る。そうだろ?」
それは、暴君の言葉でありながら、妻へのこれ以上ない絶対的な肯定だった。
(お前が失敗しても、俺がすべて受け止めてやる。だから好きにやれ)
その無言のメッセージに、十六夜の胸は熱いもので満たされた。
彼女は黒曜の胸板に背中を預け、その大きな手に自分の手を重ねた。
「……貴方は、本当に甘い王様ですこと。私の知性を、そこまで信じてくださるなんて」
「当たり前だ。お前は私の選んだ唯一の女王だ」
十六夜は、口元に艶やかな笑みを浮かべた。緊張は消え、あるのは敵を蹂躙する冷酷な女王の顔だけだった。
「ありがとうございます、愛しい旦那様。では、お見せしましょう。貴方の愛する妻が、あの偽りの光を解体する様を」
聖峰に吹き荒れたのは、冷たい風と、ミゼラの精神干渉だった。
「……ひっ、あああ!」
アルク枢機卿が、突然頭を抱えて蹲った。
ミゼラの力により、彼らが心の奥底に隠していた本音が、強制的に口から漏れ出し始めたのだ。
部屋中には真紅の魔力が漂い、神官たちは次々と倒れていく。
「助けてくれ! 私は死にたくない! 神などどうでもいい、私の資産だけは守ってくれ!」
その叫びは、大聖堂に響き渡った。周囲の神官たちが凍りつく。
「す、枢機卿!? 何を仰るのですか!」
だが、他の神官たちも同様だった。
「俺だってそうだ! 出世のために祈るふりをしていただけだ!」
「聖女の力なんて気味悪いと思っていたんだ!」
聖なる場所は一瞬にして、欲望と罵倒が飛び交う地獄絵図と化した。
中には光の存在を崇拝しているものがいたようだが、この状況を見続け、その尊敬は消えていった。
レムス大司教は、崩れ落ちる祭壇の前で呆然としていた。
「違う……違う……私は選ばれた人間だ……神よ、なぜ答えない!?」
そこへ、扉が蹴破られた。
入ってきたのは、漆黒の軍装に身を包んだジャンヌと、冷ややかな目のミゼラだった。
レムスは這いつくばりながら、ジャンヌに縋り付こうとした。
「ま、待て! 話せばわかる! 私は大司教だぞ!世界の半分を導いてきた男だ! 金ならある、地位もやろう、だから……!」
ジャンヌは、剣すら抜かなかった。
彼女は、路傍の石を見るような、完全なる無関心と憐憫の目でレムスを見下ろした。
「……醜いな。光の教義の正体が、これか」
ジャンヌは、汚いものに触れるのを避けるように一歩下がった。
「貴様を裁くのは私ではない。貴様が搾取してきた、民衆の怒りと論理的な法だ」
「いやだ、いやだぁぁ!!」
その姿は、あまりにも無様で、滑稽だった。
「愚かな光の神官たちよ。もう光の時代は終わります。聖女の姿をした愚かな皇子にも気付かず、壮大な儀式お疲れ様でした。どうでした? 意味のない祈りを続けたご感想は……」
ジャンヌ、ミゼラの後に続き、十六夜と黒曜がゆっくりと歩いていた。
「十六夜! 貴様、なんということを!」
「あなたの忠実な駒だった可愛い聖女さんは、私たちの漆黒の闇の一部となっていますよ」
十六夜はレムスの前に、自身の闇の魔力を浮かべた。そこには誰にも知られずに、ひっそりと闇の一部となった白百合の姿が映し出された。
「そんな……」
レムスとアルクは、抵抗する気力すら、ミゼラの精神干渉によって奪われていた。彼らは、闇の軍勢に武力で負けたのではない。自分たちのついた嘘の重みと、十六夜の知性の前に、人間としての尊厳を完全に剥ぎ取られて敗北したのだ。
制圧は、一時間もかからずに終了した。血はほとんど流れなかった。敵が勝手に自壊したからだ。
聖峰グラツィアの最奥、かつて始まりの聖女が作った始祖の封印の間。そこにはさらなる混沌があるといわれていた、
そこへ、悠然と足を踏み入れる二つの影があった。
黒曜と、十六夜だ。
結界の崩壊に伴い、近くに封じられていたヴォルグとルーナリアの封印も砕け散り、二つの強大な闇の気配が世界へと飛び去っていくのを、二人は感じていた。
「……厄介だな。方々へ逃げ出したな」
黒曜は、逃げた魔王たちの方角を見もしないで言った。彼の瞳には、隣に立つ十六夜しか映っていない。
「ええ。ですが、計算通りですわ」
十六夜は、崩壊した祭壇跡に立ち、涼しげな顔で言った。
「彼らが逃げれば、世界は混乱する。混乱すれば、人々はより強力な秩序を求める。つまり、私たちの支配を、世界が自ら望むようになるのです」
黒曜は、喉の奥で低く笑った。
「恐ろしい女だ。世界を盤上の駒のように操るとは」
彼は、十六夜の腰を引き寄せ、その体を抱き上げた。瓦礫の山となった聖地の上で、闇の王は高らかに宣言するかのように、王妃を見つめた。
「だが、それでこそ私の妻だ。よくやった、十六夜」
「旦那様……」
「お前の知恵が、光を砕いた。私の力が出る幕もなかったほどにな。……褒美をやろう」
黒曜は、皆が見ている前であることも構わず、十六夜の唇を深く塞いだ。
それは、勝利の口づけであり、これから始まる世界統一と混沌との戦いに向けた、新たな契約の儀式でもあった。
十六夜は、その圧倒的な愛に溺れながら、確信していた。
この人の腕の中にいる限り、どんな混沌も、どんな神も、自分たちの愛と秩序を揺るがすことはできない、と。
聖峰グラツィアは陥落した。
偽りの光は消え、世界は今、闇の王と王妃による、甘美で冷徹な支配の時代へと足を踏み入れた。




