第二話 鬼神ー黒曜ーと闇の契約
杉戸の扉が背後で重く閉ざされる音は、地上との縁が切れたことを意味していた。
十六夜は一切振り返らない。
彼女の真っ黒なドレスと、その髪と、その瞳と、同じ漆黒の闇に包まれた空間は、驚くほど調和していた。
戸の先へと続く冷たい石造りの螺旋階段は、どこか西洋の地下納骨堂を思わせるが、足元には苔むした日本の石灯籠が点々と置かれ、微かな青白い光を放っている。
螺旋階段を三十ほど下りたところで、石造りの壁に立てかけられた古い石灯籠の光が、十六夜の足元を揺めきながらぼんやりと照らしていた。
「この光の弱さ……やはり結界は不安定だわ」
十六夜は、さらに先を進み、階段の途中の踊り場で足を止めた。
重い黒のドレスの裾が、冷たい空気にそよぐ。彼女は、懐に隠し持っていた、古びた紙の束を薄明かりで照らし、指先でなぞった。
それは、ド・カゲツナ家が密かに伝えてきたこの国の「真の伝承」の写しである。
世間一般に広まっているのは、『光の聖戦』というものだ。
初代皇帝の祖先が、白き巫女と共に「闇の鬼神」を封じ、帝都に平和をもたらしたという、英雄譚だ。
だからこそ、その巫女の末裔とされる白百合は「聖女」として崇められ、その力はこの国では至上とされている。
そして、皇子エドワード様は、白百合と共に「鬼神の完全消滅」という、新たな聖戦に挑んでいるつもりなのだ。
十六夜は、自嘲するように口元を歪めた。
「滑稽だわ。真実は、誰も語らない」
ド・カゲツナ家の記録では、古の鬼神はそもそも悪ではなかった。彼ら魔族と呼ばれ、その王たる鬼神は、人間と対等な共存の契約を結び、人間が排出する負の感情――怨嗟や憎悪といった帝都の「闇」を、自ら引き受けて管理する守護者だった。
ド・カゲツナ家は、その契約が円滑に進むよう、鬼神と人間の間に立つ仲介者。つまり、私は代々、怪異に嫁ぐための仲介者、いわゆる「生贄」として育てられたのだ。
「そして、私はその中でも『最後の生贄』となるはずだった」
十六夜が皇子エドワードの婚約者になった経緯も、すべてはこの伝承に繋がっている。
皇室は、ド・カゲツナ家の持つ「契約の秘術」を完全に掌握するために、私を皇子の婚約者として手元に置いた。表向きは次期皇后候補兼聖女。裏では、「怪異の管理者」という忌まわしい運命を持つ娘を、監視下に置きたかったのだ。
だが、私の父――先代の当主は、皇室が真の伝承を歪曲し、鬼神を「永久に消滅させる」計画を進めていることを知っていた。
皇室は歴史を軽んじ、闇があることを忘れ、自分たちに都合のいい世界を作ろうとしている。
鬼神が消えれば、帝都の闇を管理する者がいなくなる。その結果、この国を守る結界は破綻し、帝都全体が怨霊の巣と化してあっという間に滅びる。
「だからこそ、私は自ら悪を演じた」
社殿の秘宝を盗んだとされる罪。それは、「闇との共存契約を修復するための鍵」を、聖女の末裔である白百合の「抑圧の力」が届かない地下へ運ぶため。
そして、私を縛りつける皇子の腕から離れるためだ。
私が悪女として断罪され、「生贄」として地下に送られること。そして全てを正しい形にする。それこそが、父が遺した最後の『共存契約』修復の道だった。
十六夜は、黒いドレスの袖を払い、再び暗い螺旋階段を下り始めた。
「待っていて、鬼神様。あなたへの嫁入り支度は、完璧に整ったはず。もう皇室の邪魔は入らない、あなたを消し去りたい人たちは今日ここへ来ることはない。あとは、私と『真の共存契約』を結び直すだけ」
だんだんと闇が深くなる。冷たい石壁から微かに伝わる、異形の者の重く、力強い鼓動が大きくなり、十六夜の決意を後押ししていた。
「思った通り、ただの牢獄ではないわね」
足元をかすかに照らす光の先に広がる空間は、さらに異様だった。
西洋の円形ドームのような天井から、幾重にも連なる朱塗りの回廊が吊り下げられ、その柱には古代の漢字と西洋のルーン文字が入り乱れて刻まれている。まるで、異なる文明の結界が無理やり一つに縫い合わされたような場所だ。
十六夜は足を止め、ドレスの裾をまくると、小さな革装丁のメモ帳を取り出し、パラパラと開いた。
「構造の解析を急がないと。この空気の淀み方、光の異常な屈折……。これはただの呪いではない。空間そのものが、契約の負荷で歪んでいるのかしら」
彼女の家系は、表向きは神聖社殿の管理者だったが、裏では帝都の『共存契約の維持』を担う、言わば技術者の一族でもあった。十六夜の「悪行」も「盗難」も、すべてはこの歪み、つまり結界の破綻を防ぐための行動だったのだ。
白百合の神聖な力は、共存を維持する古の怪異の力を一方的に抑圧するだけで、解決にはならない。
皇子と白百合が進める「怪異の完全排除」は、実は抑圧による結界のバランス歪めるもので、やがて帝都全体を「怪異の氾濫」へと導く、最悪の選択肢だ。
彼らは浅はかで、そんな技術の基本や歴史を学ばずにこれまで生きてきたようだ。それゆえにそんな行動ができるのだ。
――そして、その結界の中心、最も強大な怪異が封じられている場所。そこに私は今、向かっている。
「私の命と引き換えに、この封印を解く……そして結び直す。それが私の、そしてこの国の最後の希望よ」
十六夜は、回廊の柱に触れた。肌に伝わるのは、石の冷たさだけでなく、何千年も抑圧され続けた「怨嗟」と、かすかな「郷愁」だった。
「ごめんなさいね、鬼神様」
十六夜は、誰もいない闇の中で囁いた。
その声には、冷徹な分析官の顔を脱ぎ捨てた、一人の女の強い決意と、わずかな優しさが滲んでいた。
「もうすぐ、あなたの封印を解き、そして私をあなたの妻として差し出すわ。私と手を組めば、あなたは地上を取り戻すことができる。そして私は、歪んでしまったこの世界を正すことができる」
――闇の底に満ちる鬼神の気配が、彼女の言葉に応えるように、わずかに振動した。
回廊の先、十六夜の眼前に広がったのは、歪んだ漆黒のドーム空間だった。そこは、これまでの回廊とは一線を画す、純粋な「闇」そのものが凝縮された場所だった。
空気は重く、肌に貼りつくように冷たい。そして、その闇の只中に、一つの巨大な祭壇があった。
それは、すべてが黒曜石で築かれた、西洋風のゴシックな意匠を持つ祭壇。その中央に、彼はいた。
ーー鬼神ーー
帝都のすべての闇を背負い、何千年もの間、人間との契約という裏切りによって鎖に繋がれてきた神。
彼の姿は、まさに十六夜の想像を遥かに超えていた。
漆黒の古い軍服のような洋装。
腰まで届く夜色の長髪。
そして、西洋の甲冑を思わせる装飾の下から、二本の鋭利で艶やかな角が、静かに天を突いていた。
その肌は月の光すら届かぬ闇を映したように深く、しかし、人間離れした造形の美しさを際立たせていた。
彼はこの地に拘束されてから、何百、何千年と経っているはずなのに、その姿は若々しく、衣服に乱れはない。
ただ少し、具合が悪そうに見える、その程度だった。
彼の全身には、無数の鎖が巻き付いている。鎖の先は、祭壇と、どこかわからない天井から打ち込まれた杭に繋がれ、時折、その鉄が怨嗟の魔力で微かに青白く光を放っていた。
鬼神は目を閉じていた。まるで、永い眠りについているかのようだったが、十六夜が一歩踏み出した瞬間、彼の双眸がゆっくりと開かれた。
その瞳は、深紅だった。血のように濃く、しかしどこか虚ろで、十六夜を世界では見たことのない「異物」として捉えている。
空間を満たしていた重い空気が、さらに一際重くなった。普通の人間ならば、その威圧感だけで意識を失うか、発狂していただろう。だが、十六夜は動じなかった。彼女は鬼神から視線を逸らさず、一歩、また一歩と祭壇へ近づいた。
「ようやく、ここへ辿り着いたのか。『最後の生贄』の少女よ」
鬼神の声は、低く、深く、そして遠い。何千年も前に使われた言語が、鎖のきしむ音のように十六夜の鼓膜を震わせた。
「ここまで王たちの私を呪う声が届いた。この私を消し去るつもりなのだろう。愚かなことだ、この世の闇を引き受ける私を消してしまったら、世界が闇に呑まれることを忘れたようだな。私を騙してまで、ここに縛りつけたのにな。滑稽だな」
十六夜は祭壇の前に立ち止まった。その距離、わずか数歩。
「生贄ではありませんわ、鬼神様」
十六夜は、まるで午後の茶会の会話をするように、冷静に、そして毅然と言い放った。
「私はあなたの『妻』です。そして、『真の共存契約』を結び直すための使者として、この闇の底へ参りました」
鬼神は初めて、微かに口角を上げた。それは笑みというにはあまりにも冷たく、皮肉めいた、歪んだ表情だった。
「妻だと? お前は奴らとは違う何かのようだな。 卑小な人間が、私と対等の契約を望むのか。面白い。だが、その愚かな頭と、その手に持つ秘宝(共存の鍵)では、私を救うことはできないぞ」
彼の深紅の瞳が、十六夜を獲物として見定めた。
「そうか、お前の望みは、帝都の救済。私の望みは、私を縛りつけた奴らへの報復。そしてお前を追いやった人間たちへの復讐にでもしよう。取引は簡単だ。私を解き放て。そして、永遠に私のものとなれ。そうすれば、お前の目的もついでに叶えてやろう」
鬼神は、鎖に繋がれたまま、わずかに身を乗り出した。その仕草だけで、祭壇全体が轟音を立てて振動する。
「選べ、十六夜。お前が私に捧げるのは、その命か。それとも、その魂とお前のすべてか」
十六夜は息を吸い込んだ。
「命も、魂も、そして私のすべてを捧げます。私の旦那様」
鬼神は、満足そうに目を細めた。
「よかろう。我が名は黒曜。古の盟約は破棄された。今、十六夜、お前との新しい契約を、婚姻の契りとして交わそう」
鬼神、黒曜の唇の端が、妖しく釣り上がる。
「さあ、十六夜。お前が私に捧げた魂のすべてを、今から受け取ろう。これは、復讐のための盟約であり、永遠を縛る夫婦の契りだ」
その瞬間、辺りは漆黒の闇に呑まれ、祭壇から不思議な紫色の光が飛び散った。




