第9話 砕かれた誇りと燃え上がる焦燥(リリィ視点)
「私の心を癒すことができるのは、きっとコイツだな」
ヴァルセンの胸元へと吸い寄せられたローズは、驚きで体を固めていた。
何が起こったのか、と彼女は必死に状況を理解しようとしている様子だった。
「……」
リリィの頭の中は今、真っ白になっていた。
――私の心を癒すことができるのは、きっとコイツだな。
その一言が、耳から離れない。
(どうして?)
ヴァルセンの言葉を、リリィはすぐに理解できなかった。否、理解したくなかった。
その言葉の意味を理解してしまったら、今まで築き上げてきた誇りが崩れてしまう気がしたから。
(どうして、お姉様を選んだの?)
それはつまり、リリィよりもローズのほうが相応しいということ。
これまで当然のように、姉よりも優秀だと言われてきた彼女のプライドに、深い傷がついた瞬間だった。
(ありえない……)
リリィは、ずっと優等聖女だった。
姉よりも優秀で、姉よりも高潔で、姉よりも聖女として相応しい存在。
だからこそ、ヴァルセンに求められるのは自分であると信じていた。
それなのに――。
「お前がどれだけ優秀な聖女であろうが、私には関係ない」
ヴァルセンはリリィに冷たい眼差しを向けて、そう言い放った。
「……」
(リリィのほうがお姉様よりも優秀な聖女なのに! リリィのほうがお姉様よりも力があるのに! ヴァルセン様の心を癒せるのは、リリィなのに……!)
ふつふつ、と姉に対する苛立ちと嫉妬が心の奥底から這い上がってきた。
(何の取り柄もない劣等聖女が、ヴァルセン様の心を癒す、ですって?)
「本当にありえない」
リリィは何をしてもローズよりも上にいた。
どんなときも、選ばれるのは自分。褒められるのも、自分。求められるのも、自分だった。
姉は、常に妹の後ろにいた。それが当たり前だった。
けれども、その当たり前がヴァルセンの一言によって崩された。
(……お姉様は、劣等聖女のくせに……っ!)
ヴァルセンは優等聖女のリリィではなく、劣等聖女のローズを選んだ。劣っている姉が選ばれた。
その事実が、リリィの胸の奥で焦燥感を燃え上がらせた。
(選ばれるのはお姉様じゃなくて、リリィよ!)
リリィは爪が食い込むくらいに拳を強く握りしめた。
その手のひらから、血が滲むほどに力を込めて。
だが、彼女の怒りと悔しさは収まらなかった。
「お姉様なんかが、ヴァルセン様の心を癒せるはずがありません! リリィこそが真の聖女であり、貴方の心を癒す唯一の存在です!!」
リリィはついに抑え込んでいた感情を爆発させた。
「リ、リリィ……?」
品行方正な聖女であるリリィが声を荒げるなど、これまで一度もなかった。
取り乱した妹の姿に、ローズは驚きで目を見開く。
「ヴァルセン様は、お姉様に騙されているんです!」
(……きっと、ヴァルセン様はお姉様に哀れみを感じたのよ! そんな優しさに、お姉様はつけ込んだ。だから、ヴァルセン様は冷静な判断ができていないんだわ!)
リリィはそう強く断言した。
そしてローズの手を掴み、ヴァルセンから引き剥がそうとした。
「リリィ……っ!」
ローズが驚いて抵抗するが、リリィの力はいつになく強かった。
リリィの紫色の瞳には焦燥の色が浮かんでいた。
さらには、決して離さない、という強い意思も感じとれた。
「お姉様もわかっているでしょう? 自分がどれだけ役立たずで、無価値な存在か! お姉様はただ、ヴァルセン様の気まぐれで傍に置かれているんです!」
リリィは必死だった。
このままでは、今まで培って来た名声が姉のせいで一気に崩壊する気がした。
それに、いつも自分の影で生きてきた姉が自分よりも上に立つなんて、絶対に許せなかった。
「……誰が誰に騙されて、誰の気まぐれで傍に置いている……、だと?」
これまで黙っていたヴァルセンが突然表情を変え、声を上げた。
彼のその声はとても低く、冷ややかなものだった。
「ずいぶん好き勝手に言ってくれるじゃないか。……なぁ、優等聖女様?」
ヴァルセンは、皮肉げに口元を歪めて笑った。
「……まぁ、今の姿を見ていると、とても清らかで慈悲深い優等聖女には見えないがな」
「なっ……!」
リリィの表情が一瞬で歪んだ。
「確かに、お前は優秀だろう。風の噂で活躍はよく耳にする。お前は、国民から支持され慕われる、完璧で非の打ちどころのない聖女かもしれないな……。……だがな」
ヴァルセンは「もういいだろう」と言わんばかりに、ローズの手を掴んだリリィの手を冷たく振り払い、彼女を一瞥した。
そして、ローズの肩を抱き寄せ、リリィに対して静かに言った。
「姉を貶めることでしか自分の価値を示せないお前に、私の心を癒せるわけがない」
ヴァルセンはバッサリと、リリィの誇りを切り捨てる。
「……そんな聖女など、私には必要ない。私が選ぶのは、ここにいるローズ・ブランシュだ」
「……っ」
(認めない。認めるものですか! ヴァルセン様がお姉様を選ぶだなんて……!)
自身の存在価値を真っ向から否定されたリリィは、表情を強張らせた。
「……そう、ですか……」
しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
その笑顔は硬く、不自然に引きつっていた。
「ヴァルセン様がそうおっしゃるのなら、仕方ありませんね……。わたくしも、今すぐに答えを変えさせようとは思いません」
(……そうよ、リリィは子供みたいに駄々をこねたりしないもの)
リリィはわずかに目を細めながら、ローズに向かって微笑んだ。
「お姉様、良かったですね? ヴァルセン様に選ばれて」
「え……?」
「せいぜい、ヴァルセン様に迷惑をかけないようにしてくださいね? ……それでは、失礼いたします」
リリィは一礼すると、踵を返した。
「リリィ……」
ローズの呼びかけには答えず、リリィはゆっくりと屋敷の門へと向かう。
強く握りしめた拳を、誰にも見せることなく、ドレスの裾に隠して。
「……」
(いずれ、ヴァルセン様も気づくでしょう)
背筋は伸ばしたまま、歩く速度も一定に保ったまま。
まるで何もなかったかのように、リリィは静かに歩く。
(リリィこそが、貴方に相応しいのだと……)
離れ際、一度足を止めて、先ほどまでいた庭を振り返る。
そして、ヴァルセンの腕の中で微笑むローズを睨みつけた。
(……覚えていてくださいね、お姉様。リリィはこのまま引き下がるつもりなんて、これっぽっちもありませんから!)
カツッ、カツッ、カツッ……。
一定のリズムで石畳を叩く音は、徐々に遠のいていった。