第3話 赤い薔薇の牢獄(ヴァルセン視点)
(退屈だ)
ヴァルセンの住まう屋敷には、いつもバラの香りが満ちている。
どこを見ても、赤いバラが咲き誇っていた。
何があっても枯れることのないバラは、彼の呪いの症状を鎮めるためのもの。
症状を軽減させるが、それは一時しのぎでしかなかった。
「はぁ……」
ヴァルセンは椅子に腰掛け、深いため息をつく。
いつもと変わらぬ日々。いつもと変わらぬ時間。
屋敷の外へ出ることはできるが、行く先はどこにもない。
(バラは私を生かし、私を縛り続ける……、か)
屋敷のバラは、決して枯れない。
それすなわち、ヴァルセンの呪いが終わることなく続いていることを意味していた。
バラがある限り、彼は呪いから解放されない。
バラは彼の命を繋ぐ鎖であるのと同時に、逃れられぬ牢獄でもあった。
一生このままなのか。それとも、いずれこの呪いに食い尽くされるのか。
(……どちらにせよ、くだらないな)
ヴァルセンは目を閉じ、先ほどの出来事を思い出す。
◇◆◇
ヴァルセンの世界は、常に退屈だった。
剣術を磨こうにも、戦う相手がいない。
彼はただ技を繰り返すだけの空虚な時間を過ごしていた。
また、屋敷にある本はあらかた読み終え、もはや繰り返し読むことすら苦痛になりつつあった。
(いつまで、この地獄は続くのか)
そんなことを考えながら、屋敷の周辺を歩いていたときだった。
いつもの馴染んだバラの香りに、ほんのわずかに違和感が混じっていた。
僅かに漂うそれに、ヴァルセンは思わず足を止める。
(この匂いは……?)
屋敷のものとは違う、馴染みのない香り。
ほのかに甘く、どこか温かみのある匂いだった。
「……」
気づけば、ヴァルセンの足は自然と匂いのもとへ向かっていた。
そして、屋敷の扉の前。
そこには、一人の女性がいた。
「そこで何をしている」
滅多に人が来ることなどないこの場所に現れた、異質な存在。
扉の取っ手に手を添え、躊躇うように立っていた。
(誰だ……?)
見たところ、侍女でもなければ近衛兵でもない。
だが、王宮の者でなければ、ここに来ることはあり得ない。
(ならば、この女は――)
「……もう一度聞こう。そこで何をしている」
ヴァルセンの声に、女性はビクリと肩を揺らした。
しかし、返答はない。
(なぜ、黙っている)
ヴァルセンは、ゆっくりと彼女へ歩み寄る。
その気配に押されるようにして、女性――、ローズはようやく振り返った。
ブラウンの髪にダークピンクの瞳。
どこか幼さの残る顔立ち。
(見たことがない……。誰だ?)
ローズはただ目を見開くだけで、何も言わなかった。
「お前は口が聞けないのか?」
一言も喋らないローズに、ヴァルセンは眉を顰める。
(なぜ、何も喋らない)
ヴァルセンは組んだ腕を指で軽くトントンと叩き、じっとローズを見下ろした。
「はぁ……」
相手にするのも無駄かもしれない。
そう思いかけた、その瞬間――。
ふわり。
風に乗って、甘い匂いが鼻を掠めた。
(……?)
バラの香りがした。
しかし、それは屋敷のものではなかった。
(この匂い……)
ヴァルセンは思わず目を細め、ローズを注視した。
そして、彼は無意識のうちに一歩踏み出していた。
距離を詰めるたび、ローズは戸惑ったように後退る。
ドンッ、とローズが背後の扉にぶつかった。
(逃がすものか)
ヴァルセンは静かに手を伸ばし、扉に手をついた。
ローズの退路を塞ぐように。
そして、ゆっくりと彼女の首元へ顔を寄せ――。
「……お前、聖女か?」
低く囁く、耳元で問いかけた。
ローズは息を止め、声を出さずにいる。
ヴァルセンは彼女の反応をじっと見つめながら、僅かに唇を歪めた。
「そ、そうです……!」
ローズは怯えながらも、なんとかそう答えた。
(やはり、そうか)
ローズから漂う甘い香り。それは、聖女特有の匂いだった。
ヴァルセンはゆっくりと息を吐き、鼻で笑った。
「……父上に何か言われたな」
この場所に理由もなく、来る者はいない。
ローズが動揺するのを、ヴァルセンは見逃さなかった。
「何を言われた?」
「な、何を、って……」
ローズは声を詰まらせ、視線を泳がせる。
(何を言われたかは想像がつく。どうせ、『私を殺せ』とでも言われたのだろう)
「まぁ、いい」
そう呟くと、ヴァルセンはローズから距離を取った。
そして、扉に手をかけた。
「あ、あのっ! ヴァルセン様……!」
そのとき、ローズが震える手でヴァルセンの手を掴んだ。
ヴァルセンは彼女の手を見下ろしながら、静かに目を細めた。
(……何のつもりだ)
「離せ」
「……す、少しだけ、お話できませんか……?」
「……何を話すと言うんだ。……お前が何を言おうと、私には関係ない」
「わたし、貴方のことを知りたいんです! 貴方が抱えている呪いのことを!」
ローズの必死な声。
しかし、彼女の声でヴァルセンの心が揺れ動くことはなかった。
「……私のことを知りたいだと?」
わずかに首を傾げ、嘲笑うように口元を歪める。
「お前の力で、私の呪いをどうにかできると思っているのか?」
「わたしなら、貴方を助けられるかもしれません!」
(助ける?)
「劣等聖女と呼ばれるお前が、私を助けるだと?」
(背を丸め、声も出せずにいた、この愚かな聖女が……?)
「……面白い」
ヴァルセンは乾いた笑いを浮かべた。
(どの口が言う)
ヴァルセンはわずかに口を開きかけたが、すぐに閉じた。
「だがな、私は時間を無駄にするつもりはない」
呆れと共に、ヴァルセンはローズの手を振り払い、扉を押し開けた。
「ヴァルセン様!」
「……」
ヴァルセンの足が止まる。
(もし、私も父上と同じように、この女を駒として扱ったら? 私の呪いをどうにかできるか……?)
彼は何かを言いかけるように、ゆっくりと息を吸い込む。
しかし、言葉にはしなかった。
(……いや、何もできないし、何も変わらない。この女は、所詮、劣等聖女なのだから……)
すぐに首を振り、そして振り返ることなく静かに扉を閉じた。
◇◆◇
ヴァルセンは目を開けた。
部屋には相変わらず、バラの香りが満ちていた。
(助けられる、か……)
それは、愚かな考えか。それとも、ただの甘い幻想か。
「……本当に、くだらない」
吐き捨てるように呟き、ヴァルセンは椅子に身を沈めた。
「ローズ・ブランシュ……」
(王国に二人いる聖女の内の劣った聖女……、か)
「父上の意のままに動く操り人形かと思えば、妙につかみどころのない女だ……」
ヴァルセンは立ち上がり、窓の外を眺めた。
咲き誇る花々が、静かに風に揺れている。
そしてその瞬間、窓の隙間から、ふわりと、またあの香りが鼻を掠める。
「……っ」
ヴァルセンの背筋に冷たいものが走った。
喉の奥が焼けるように熱くなり、胸がざわつく。
獣の本能が目を覚ましかけているような、呪いの発作の前兆。
(……またかっ)
ヴァルセンは喉の奥に残る違和感を噛み締めながら、ゆっくりと息を吐いた。
(あの香りが、発作を誘発しているのか? それとも……)
「……どちらにせよ、父上が何かを企んでいるのなら、あの女はまたここへ来るだろうな」