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第27話 ささやかな贈り物

(あれから、もう二週間か)


 七月も中旬にさしかかり、夏という夏の日が続く今日この頃。緊張と不安でいっぱいだったローズも、気づけばノクティエルでの暮らしにすっかり馴染んでいた。


「ローズお姉ちゃん、こっちこっちー!」

「わたし、お腹空いた!」

「俺、早くバナナ食いてぇ!」

「えっ、ルル、さっき二本も食べてたじゃん! まだ食べるの!?」


 今日は晴天、まさにピクニック日和。日差しは暑いが、木陰にいれば心地よい風が吹き抜け、外でのんびりと過ごすには絶好の一日だ。


「待って、待って! そんなに急がなくても、パンは逃げたりしないよ!」


(子どもたち、すごく元気……!)


 ローズは現在、湖のほとりにピクニックに来ていた。

 湖の近くに敷いたレジャーシートの上では、女の子たちが中心になって持ち寄ったお弁当や果物を所狭しに並べている。

 男の子たちは、レジャーシートの横で元気いっぱいに走り回っていた。

 院長のフローラはすぐそばの大きな木の根元に腰を下ろし、ぎゅうぎゅうと体をくっつけてくる子どもたちに囲まれながら、微笑ましそうにその様子を見守っている。


「パン、いっぱい持ってきたからね。サンドイッチに、ロールパンに……。あと、ほら、ハチミツバターのやつ!」


 ローズは残りの子どもたちに手を引かれ、持参したバスケットを大事そうに抱えてみんなの輪に加わった。


「やったー! ローズお姉ちゃん、ありがとう!」

「わたし、お姉ちゃんの作ったやつ大好き~!」

「ふふっ、そんなに言ってもらえると、また作りたくなっちゃうな~!」


 レジャーシートの上で、子どもたちの笑い声が響く。

 ローズは持ってきたパンを一つずつ手渡しながら、どこか不思議な気持ちになっていた。


(名前で呼ばれるのって、いつぶりだろう)


 普段から名前を呼ばれることを意識したことのなかったローズだが、ノクティエルに来てから妙に意識するようになっていた。


(考えてみたら、誰かに名前を呼ばれることって、……あまりなかったかもしれない)


 実の父親であるブランシュ侯爵は、必要最低限の時にしか口を開かず、名前を呼ばれることはまず少ない。

 義理の母――、リリィの実母からは、存在すらないように扱われることのほうが多く。

 リリィからは、「お姉様」としか呼ばれたことしかなかった。


(ヴァルセン様は……、うん。お前呼びが定着してるもんね)


 誰かに愛情を込めて「ローズ」と呼ばれた記憶が、驚くほど少なかったことに今さら気づく。


(だから、ちょっと嬉しかったかも)


「ねぇねぇローズお姉ちゃん、ジャムのやつってある?」

「うん、もちろんあるよ」

「やったー!」

「ねー、姉ちゃーん、バナナねぇんだけど! どこ!?」

「ルルくん、さっきいっぱい食べてたから、さすがにもういらないかなって思って置いてきちゃった……」

「えっ、嘘だろ!? バナナねぇの!? そんなぁ……!」


 気づけば手を繋がれ、スカートの裾を掴まれ、髪に草花を編まれるようになり、いつの間にか子どもたちは自然と「ローズお姉ちゃん」と呼ぶようになっていた。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん、あの花の名前知ってる?」

「ええと、確か……。ひまわりだったかな?」

「ひまわり~! かわいい名前~!」

「おひさまみたい!」

「ローズお姉ちゃん、いろんなこと知ってるんだね!」

「すごーい!」

「そんなに褒められたら、照れちゃうなぁ~!」


 ぱちぱちと手を叩く子どもたちに囲まれながら、ローズは微笑んだ。


「みんなー、お昼にしましょうかー!」


 フローラは立ち上がり、スカートの裾についた砂を軽く払ったあと、遊びに夢中になっている子どもたちに手を振りながら声をかける。

 フローラの呼びかけに気づいた子どもたちは――。


「わーい!」

「ごはんだー!」

「やったー!」


 無邪気な歓声を上げて、一斉にレジャーシートのほうへと駆けていった。



   ◇◆◇



 お弁当を食べ終えた午後。湖のほとりでは、ゆるやかな時間が流れていた。

 お腹が満たされたおかげか、レジャーシートの上では何人かの子どもたちがフローラに寄りかかるようにして眠っていた。

 小さな体が重なるようにしてすやすやと寝息を立てている様子は、まるで巣の中の雛鳥のようだった。

 一方で、まだ元気を余らせている子たちは湖のそばで石を投げたり、草花を集めたりして遊び続けていた。


「わぁ、見て見て! お水が光ってるー!」

「ほんとだ! きらきらだー!」


 歓声をあげた子どもたちが、湖の方へと駆けていく。


「桟橋の先は滑りやすいから、気をつけて!」


 ローズの声に、何人かは「はーい」と返事をしながら立ち止まる。

 けれどその中で、ひときわ自由奔放な背中がふらふらと桟橋の近くまで進んでいった。


「おーい、姉ちゃん見て見てー! これ、めっちゃ遠くまで飛びそうじゃねぇ!?」


 そう言いながら、ルルが調子に乗って大きめの石を拾い上げる。


「ルルくん、それはちょっと危ないから、小さいやつでやろう?」

「えー、これ投げたら、きっと湖の真ん中まで届くって!」


 ルルは勢いよく振り返ると、石を手にしたまま桟橋の方へと駆けていく。


「待ってルルくん、そっちは――!」


 ローズの呼びかけも届かず、ルルの体が湖の目と鼻の先にまで近づいたそのとき――。


「うわっ!」


 バシャッ――!


 水音と共に、ルルの姿がローズの視界から消える。


「ルルくん!!」


 湖に落ちたのだと気づいた瞬間、ローズはルルの名を叫ぶなり、迷わず駆け出していた。


「ルル!?」

「え、落ちた!?」

「うそっ!」


 周囲にいた子どもたちが一斉に声をあげ、桟橋の方へ駆け寄る。


「みんな、下がってて!」


 水面に浮かんだのは、小さな腕とばたつく足。

 ローズは靴を脱ぐ間もなく、ルルが落ちた場所に飛び込む。


(うっ……)


 夏とはいえ、湖の水は冷たい。

 冷たい水が一気に身体を包み、服も一瞬で重くなる。けれど、そんなことを気にしている余裕などなかった。


(お願い、間に合って……!)


 視界がぼやけるなか、ローズは手探りで湖の中を探る。

 足元にぬるりと何かが触れた気がして、すぐに両腕を伸ばす。


(……っ、いた!)


 掴んだのは、小さな腕。

 必死に水をかくルルの手だった。


(大丈夫、ルルくん! もう大丈夫だから!)


 ルルを安心させるように水中で何度も深く頷き、ローズはルルの体をしっかりと抱き寄せて、水をかき分けながら桟橋の方へと泳ぎ始める。

 水を吸って重くなった服が、二人の体力を奪っていく。

 それでも、ローズは腕の中の温もりだけを頼りに、懸命に前へと進んだ。


「ローズお姉ちゃん!」

「ルル、大丈夫!?」

「フローラ先生~!!」


 桟橋の上で騒ぎ立てる子どもたちの声が、だんだんと近づく。


(もう少し……、もう少し!)


 ようやく桟橋の柱に手が届いたところで、ローズの背中に誰かの腕が伸びてきた。


(……!)


 それは駆けつけたフローラの腕で、ローズとルルの体を支えるように引き上げてくれた。


「ごほっ、ごほっ!」


 無事に岸に引き上げられたルルは咳き込んだあと、水を吐き出して大きく息を吸い込んだ。


「はぁっ……、はぁっ、うっ……!」


 ルルの小刻みに震える手が、ぎゅっとローズの濡れた袖を握る。


「姉ちゃん、俺、おれっ……!」

「怖かったよね。でも、よく頑張ったね! もう大丈夫だよ」

「うううっ……!」


 ローズは濡れた髪を撫でながら、ルルの小さな体を抱きしめた。

 心臓がまだ激しく脈打っている。


(本当に、手遅れになる前に間に合ってよかった)


 そう思った瞬間、張り詰めていた緊張がふっと緩み、ローズの全身から力が抜ける。

 濡れた髪が顔に張りついても拭うことはしなかった。ただ、震えるルルを優しく抱きしめたまま、静かに息を整える。


「ローズさん、大丈夫? 水は、あまり飲んでなさそうね?」


 フローラが近くに座り込み、濡れた二人に手早くタオルをかけてくれた。

 その手はどこか慣れたように、けれど丁寧にローズとルルの髪を拭っていく。


「ありがとうございます……」


 小さく礼を言うローズの背中にそっと手を添え、フローラは微笑んだ。


「お礼を言うのは、私の方よ。ローズさん、ありがとう。貴女がいてくれて、ほんとうに良かったわ」


 フローラの穏やかな声に、ローズは黙って頭を下げた。

 自分でも気づかないうちに、頬には涙が混じっていた。


「ローズお姉ちゃん、大丈夫?」

「怪我してない?」

「ルル、ちゃんと生きてる?」


 心配そうに取り囲む子どもたちの顔を見て、ローズは少しだけ笑った。


「うん、大丈夫。ルルくんも、ちゃんとここにいるよ」


 その言葉に、子どもたちの顔がぱっと明るくなる。


「よかったー!」

「ルルのバカっ、もう走ったらダメだよ!」

「ほんとだよ! ローズお姉ちゃんがいなかったら、大変なことになってたんだから!」


 ルルはまだ少し涙を浮かべながら、うつむいて小さく頷いた。


「……うん、ごめん」


 その素直な声を聞いて、ローズはふっと笑う。


「ルルくん。今日はもうおうちに戻って、ゆっくり過ごそうか」

「うん……」


 ルルがこくりと小さく頷く。


「さぁ、みんな帰りましょうか」


 フローラの穏やかな声が響くと、子どもたちは顔を見合わせながら、それぞれの荷物を片付けはじめた。



   ◇◆◇



 その日の夜。

 少し熱を出して横になっていたローズのもとに、小さな訪問者が来た。


「姉ちゃん……、起きてる?」


 おそるおそるというような控えめなノック音とかすれた声が聞こえ、ローズが体を起こして枕元のランプをつけると、ゆっくり扉が開いた。

 入ってきたのは、パジャマ姿のルル。手には何か包みを持っていて、遠慮がちにベッドのそばまで歩み寄る。


「ルルくん、どうしたの?」


 ローズが体を起こそうとすると、ルルは慌てて手を振った。


「いい、いいよ! 寝てて! あの……、これ、たいしたものじゃないけど、渡したくて来ただけだから」


 ルルが差し出したのは、小さな紙袋だった。

 ローズが受け取り、袋を覗き込む。

 中には、折り紙で不格好ながらもバラの形に折られたピンクの花が一輪入っていた。


「……これ、俺が作った。姉ちゃんの名前と同じ花」

「わぁ、すごく上手だね。ありがとう!」

「……でしょ」


 ローズは花を見ながら、そっと微笑んだ。

 ルルはその笑顔を直視できず、俯いて小さく声を漏らす。


「……あのさ、俺、今日すっげー怖かった」

「うん」

「あのとき、死んじゃうかと思った」

「うん」

「水の中、真っ暗で、何も見えなくて。息もできなくて……」

「うん……」


 ルルの声が少し震える。

 言葉を詰まらせながらも、一生懸命話そうとするルルの手を、ローズは優しく握る。


「……俺、バカだった。あのとき、ちゃんと姉ちゃんの言うこと聞けばよかったのに!」


 ルルはゴシゴシと強く目元をこする。


「……姉ちゃん」

「ん?」


 グスッ、と鼻をすすりながら顔を上げたルル。彼の目元は赤く腫れ、まだ涙の跡が残っていた。けれど、必死に涙をこらえるような顔でまっすぐローズを見つめて言った。


「今日は、ありがとう。助けてくれて、ほんとにありがとう。それと、心配かけてごめんなさい」

「うん、無事でよかったよ。本当に、よかった」


 ローズはゆっくりとルルの頭を撫でた。

 ルルの細い肩が、少しだけ震える。


「でも、次はちゃんと約束して? 危ないところには、一人で行かないって」

「……うん。する。約束する」


 ルルは涙をぬぐいながら、強くうなずいた。


「……姉ちゃんがいてくれて、よかった」


 照れ隠しをするように視線を逸らしたルルが、ぽつりと呟く。

 何気ないその一言は、ローズの胸にじんと響いた。


「……あのさ、今日だけ、ここにいちゃダメ?」


 ルルがそっとベッドの端に視線を向けた。


「……なんか、怖くて。夢とか、見そうで」


 ローズは一瞬迷ったあと、ふっと笑ってシーツの端をめくる。


「……じゃあ、今日だけね? みんなには内緒だよ」

「うん」


 ルルは遠慮がちにベッドにもぐり込み、そっとローズの腕に寄りかかる。

 そして、ふいに顔を上げて真剣な表情で言った。


「俺、いつか姉ちゃんの王子様になるから」

「えっ?」


 一瞬、意味がわからなかったローズは、ぽかんとルルを見る。


「強くなって、誰よりもかっこいい大人になったら、姉ちゃんと結婚する。そしたら、姉ちゃんとずっと一緒にいられるし、守れるでしょ」


 ルルは真剣な眼差しで、まっすぐにローズを見つめる。


「姉ちゃんに王子様がいるって知ってっけど……、俺、諦めねぇから。姉ちゃんを守れるかっこいい男になったら迎えに行く。それまで姉ちゃんの隣、空けといてよね」


 ローズは目を丸くしたまま、しばらく言葉を失っていた。

 けれどすぐに、ふっと息を漏らして微笑んでルルの髪を撫でた。


「ふふ……、じゃあ、期待してるね。ルル王子」


 子どもが言うには少し大げさすぎる言葉。

 ローズはルルの真剣な告白が冗談混じりだと思っていた。しかし、彼の言葉に冗談や嘘など微塵もなかった。

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