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第22話 バラ屋敷への帰還

 ヴァルセンに手を引かれて庭園の小道を抜けると、舞踏会の華やかな音はもう聞こえなくなった。聞こえるのは、梟の鳴き声だけ。

 ローズは木陰から響くその鳴き声に耳を傾けながら、自分の手を握る彼の手を見つめていた。


(あったかい……)


 黒革の手袋で覆われているため、ヴァルセンの素肌の温もりではない。けれど、その手のひらはしっかりと温かかった。

 決して、強引に握りしめられているわけではない。逃げ出そうとすれば、すぐにでも離せる。ローズの傷ついた心を労わるように繋がれていた。

 もしかしたら、彼の優しさが指先にまで宿っていたからかもしれない。


(本当にあったかいなぁ)


 ドレスの裾はまだ湿ったままで、時折足元にまとわりついて歩みを鈍らせる。しかし、一歩、一歩と進むたびに、ローズの心から少しずつ緊張が解けていく。


「……ヴァルセン様」


 そっと名前を呼ぶと、ヴァルセンは振り返らずに「ん」と小さく応えた。

 二人の歩く足音は、夜の静寂に溶け込んでいく。


「あの、いったいどこに向かっているんですか?」


 ローズの問いかけに、ヴァルセンは足を止めた。

 振り返った彼の表情は、月明かりの下で静かに揺れていた。


「……バラ屋敷だ」

「えっ? ど、どうしてバラ屋敷に?」

「……」


 ローズは思わず顔を上げ、ヴァルセンを見つめる。

 彼女の瞳は、戸惑いで揺れていた。

 ヴァルセンは問いに即答しなかった。

 しばらく、夜風に揺れる木々の音だけが二人の間を満たす。


「……お前のドレスは濡れている。そのままじゃ体を冷やすだけだ」

「バラ屋敷にわたしの着替えなんてありませんよね?」

「? 私の服を着ればいいだろう」

「んんっ!?」


 あまりにもさらっと言われたその言葉に、ローズは声を上げた。

 顔が一気に熱くなるのを感じて、慌てて俯く。


「いやっ、あのっ! ヴァルセン様の服をお借りするくらいなら、このまま侯爵邸に帰ります!」


 ローズの声がひときわ大きく響く。

 ヴァルセンは彼女の反応が予想外だったのか、肩を揺らした。


「……別に、私の服に毒はないが?」

「そ、そういう問題じゃなくて……っ」

「どういう問題だ。それに、その格好で帰って、誰にも何も言われないとでも思っているのか?」

「うっ……」


 図星を突かれたように、ローズは口を噤んだ。

 確かに、今のまま帰れば周囲の目は避けられない。

 あの場で何があったのか、あれこれと詮索されるだろう。

 それがローズにとってどれだけ苦痛か、ヴァルセンはしっかり理解してくれていた。


「うぅ……。それじゃあ、お言葉に甘えて……」


(ちょっと恥ずかしいけど、まぁしょうがない……)


 照れながらも、覚悟を決めるように頷いた。

 しばらく歩いた頃、ふと、ローズが口を開いた。


「……なんだか、こんなふうに手を引かれていると、誘拐犯にでも連れ去られているみたいです」


 静かな夜道で、そんな冗談を口にする。

 それは、緊張を和らげるための照れ隠しでもあった。


「誘拐犯なら、今頃とっくに口を塞いでいるだろうな」


 ヴァルセンは口元に薄く笑みを浮かべて言った。


「まぁ、安心しろ。お前はまだ喋っている」


 その言葉に、ローズは小さく吹き出した。

 二人の影は月明かりの下、寄り添うように並びながら、ゆっくりとバラ屋敷へと伸びていった。



   ◇◆◇



 赤いバラがぽつりぽつりと咲き始めた小道を抜けると、バラ屋敷が見えてくる。

 夜闇に包まれた屋敷は、普段よりもより一層静寂を際立たせていた。まるで、屋敷そのものが眠りについているかのようだった。


(よくよく考えてみたら、この時間帯にここに来るのは初めてかも)


 そんなことを思いながら、ローズは月光を受けてほんのりと輝く、咲き乱れたバラたちを見た。

 ヴァルセンは無言で屋敷の扉を押し開けた。


(……やっぱり、誰もいない)


 当然ながら、二人を出迎える者はいなかった。

 遅い時間だから、という理由ではない。バラ屋敷は、もともと最低限の者しか出入りをしないからだ。


(この屋敷は、いつだって静かだよね……)


 ローズは心細さを感じながら、屋敷の中に足を踏み入れた。


「……まずは風呂だな。身体を温めろ。浴室は、ここをまっすぐ進んで右側」

「えっ、あの」

「タオルは浴室にある。勝手に使え。着替えは……、お前が入っている間に用意しておく」

「あ、ありがとうございます」


 ぶっきらぼうに告げたヴァルセンだったが、ローズにはその気遣いが伝わっていた。

 しかし、こんなに優しくされるほど、自分はヴァルセンの特別な存在ではない。それをわかっているローズは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「……お風呂、お借りします」


 小さな声でそう告げると、ローズはヴァルセンにぺこりと頭を下げた。

 彼は頷きだけ返すと、屋敷の奥へと姿を消した。


(ちゃんと温まって来い、って言いたかったのかな?)


 ローズは静かに笑い、浴室へと向かった。



   ◇◆◇



 浴室に辿り着いたローズは、恐る恐る扉を開けた。そして、思わず目を見開いた。


「わぁ!」


 広々とした、美しいタイル貼りの大浴場。

 大きな湯船には幾輪ものバラの花が浮かび、ほのかに甘い香りが漂っている。

 もわりと白く立ち昇る湯気は、夜の冷気を柔らかく包み込んでいた。


(早く入ろう)


 ローズは慎重にドレスを脱ぎ、湯船に身を沈めた。


「はぁ~……」


 ずいぶんと色気のない、無防備な声が漏れた。

 もしも、ヴァルセンがローズのこの声を聞いたら、きっと顔を顰めていただろう。


「ふふっ」


 そんなヴァルセンを想像して、ローズは笑った。


(あぁ、あったかい……)


 ローズはホッと息をついた。

 身体の芯からじわじわと温まっていくのと同時に、今まで無理に張り詰めていた緊張が溶け、疲れがどっと押し寄せてきた。

 彼女は湯船の中で小さく体を丸め、天井をぼんやりと見上げた。


(ヴァルセン様には、たくさん迷惑をかけちゃったなぁ……)


 あの舞踏会での突き刺すような視線も、リリィの嫌がらせも、今はもう遠く過ぎ去った出来事のように感じられた。

 けれど、ローズの胸の奥には小さな後悔とどうしようもない自己嫌悪が残っていた。


(わたしがもっとしっかりしていれば、ドレスを汚すこともなかったかもしれない)


 胸の奥に残る鈍い痛みは、簡単には消えてくれなかった。

 それでも――。


(……わたし、頑張ったよね)


 ポツリ、と心の中で呟く。

 傷ついた心を抱えたまま、それでも笑って立ち続けた自分を少しだけ認めてあげたくなった。

 ぽちゃん、と湯船に浮かんだ一輪のバラが静かに揺れる。

 その小さな花をぼんやりと眺めながら、ローズは微笑んだ。


(侯爵邸に帰ったらお父様に何か言われるかもしれないけど……。絶対に、下は向かない……!)


 湯気に包まれたこの場所は、現実の痛みからほんのひととき逃してくれる小さな楽園。

 今はただ温かな湯に背中を預け、心を休ませることに集中した。

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