第2話 呪われた王子との出会い
「……お前、聖女か?」
低く囁くヴァルセンの声が肌を撫でるように響き、ローズの肩がビクッと跳ねる。
息がかかるほどの距離。
ヴァルセンの端正な横顔が、彼女の視界いっぱいに迫った。
「そ、そうです……!」
(ち、近い……っ)
ヴァルセンの吐息が肌を掠め、ローズは息を止める。
しかし、それが彼に悟られないように唇を引き結んだ。
「……父上に何か言われたな」
ヴァルセンはフッと鼻で笑った。
ローズは恐怖に体を強張らせながらも、必死に冷静さを装った。
そんな彼女を見たヴァルセンは微かに口角を上げ、ゆっくりと顔を離した。
「何を言われた?」
顔を上げたヴァルセンと再度、視線が合う。
彼の目は、捕食者の目ではなくなっていた。
(き、気のせいだった……?)
激しく鼓動する胸を落ち着かせながら、ローズは身を正した。
「な、何を、って……」
(陛下に言われたことを正直には言えない……)
何と言うべきか、とローズが考えていると――。
「まぁ、いい」
ヴァルセンはつまらなそうに呟き、まるで興味が失せたとでも言うように、ローズから距離を取った。
そして、扉に手をかけた。
「あ、あのっ! ヴァルセン様……!」
ローズは、咄嗟にヴァルセンの手を掴んだ。
扉を開け、屋敷へ入ろうとする彼の行動を阻止するために。
(このままじゃ、話す機会を失っちゃう……!)
ヴァルセンの手に触れている自分の指先が震えているのを感じ取ったが、それでも手を離すわけにはいかなかった。
「離せ」
ヴァルセンの低い声が落ちる。
(彼がわたしの言葉に耳を傾けるか、わからない。けど……)
ローズは、ちらり、とヴァルセンの顔を盗み見た。
そして、ヴァルセンの警戒心を和らげるために、言葉を選んで声を絞り出した。
「……す、少しだけ、お話できませんか……?」
「……」
ヴァルセンが静かにローズを見下ろした。
「何を話すと言うんだ。……お前が何を言おうと、私には関係ない」
ヴァルセンの冷たい態度に、喉の奥がひりついた。
(けど、わたしの存在価値がかかってる。何としてでも、彼との接点を作らないと、いけないのに……!)
ヴァルセンの目を見た瞬間、ローズのそれまでの決意が揺らいだ。
彼は、ずっと一人でいることに慣れすぎたような、そんな目をしていた。
「わたし、貴方のことを知りたいんです!」
(陛下の命令を果たすために!)
声が震える。
「貴方が抱えている呪いのことを!」
(これは、彼と友好関係を築き上げるために必要なこと!)
ローズの言葉に、ヴァルセンの目がわずかに細められる。
「……私のことを知りたいだと?」
首を傾げるヴァルセンの表情は、嘲りにも、興味にも見えた。
「お前の力で、私の呪いをどうにかできると思っているのか?」
その声には、冷ややかな軽蔑と警戒が滲んでいた。
ローズは後退りしそうになる足を必死に踏みとどまらせ、まっすぐにヴァルセンを見つめた。
「わたしなら、貴方を助けられるかもしれません!」
(それなのに、わたしはいったい何を言ってるの!?)
そう言った瞬間、ローズは驚いた。
だが、その言葉を取り消すつもりはなかった。
(……あぁ)
ローズは自分がなぜあんな言葉を発したのか理解した。
(彼は呪いのせいで孤独だ。誰にも頼れず、誰にも救われない。わたしと同じ、独りぼっち……)
ヴァルセンが心の底から助けを拒んでいるのか、ローズにはわからなかった。
ただ、彼は誰かに救われることを諦めているように見えてしまった。
(貴方の諦めきった目を見ていると、どうしようもないほどに悔しくて、胸が強く締めつけられる……!)
ローズは、自分の目的を果たすために、ヴァルセンに対して口先だけのことを言っていた。
言っていたのだが……、彼の瞳を見て自分と重ねてしまった。
助かる方法なんてない。誰も自分を救うことなんてできない。
そう、最初から彼が決めつけているように感じた。
そして、それを当然のこととして受け入れているのが、ローズにしてみれば何よりも悔しく、たまらなく嫌だった。
「劣等聖女と呼ばれるお前が、私を助けるだと?」
ヴァルセンは片眉を上げ、肩を竦めた。
「……っ」
(ほら、またそうやって。全部を切り捨てるような言い方をして、諦めきった顔をする)
そんなことできるわけがない、と言わんばかりの目。
お前には無理だ、と断じるような目。
自分の存在を全否定されたような気がして、胸が痛い。
言葉にできないほどの悔しさが込み上げる。
ローズは歯を食いしばり、ギュッと拳を握りしめた。
(わたしは無力だ。だけど、わたしは……!)
逃げたくなるような目を向けられても、ローズは視線を逸らさなかった。
「……面白い」
ヴァルセンが乾いた笑いを浮かべる。
彼はわずかに口を開きかけたが、すぐに閉じて息を吐いた。
「だがな、私は時間を無駄にするつもりはない」
そう言うと、ヴァルセンはローズの手を振り払い、扉を押し開けた。
「ヴァルセン様!」
ローズは思わず彼の背中に手を伸ばしそうになるが、寸前で止めた。
「……」
ヴァルセンの足が、ピタリと止まる。
ほんの一瞬、静寂が流れた。
(……え?)
彼は何かを言いかけるように、ゆっくりと息を吸い込む。
しかし、言葉にはしなかった。
すぐに首を振り、そして振り返ることなく――。
バタン。
「あ……」
静かに扉が閉じられた。
「……どうしよう」
ローズは扉に手を添えて、その場で立ち尽くした。
耳を澄ますと、扉の向こうからは静寂しか聞こえない。
ヴァルセンの足音も、彼の存在さえも、もうそこにはない。
「……出直さないと」
ヴァルセンの警戒心を解くためには、もっと時間をかけて信頼を築かなければならない。
(これは、試練。わたしが聖女として認められるための試練であって、彼を救うための試練!)
ローズは心の中でそう思いながら、屋敷を後にした。
◇◆◇
帰り道、ローズは地面に落ちているガラスの花瓶を見つけた。
花瓶は割れ、欠片が散らばっている。
「ん……?」
その中から、ひと際美しい白い花が顔を覗かせていた。
ローズは思わず足を止め、その花を見つめる。
「バ、ラ……?」
声にならない呟きが漏れた。
花瓶の中から引き寄せられるように、白いバラに視線が吸い込まれていく。
「……綺麗」
周囲の破片とは対照的に、純粋な雪のように美しいバラはまだ瑞々しさを保ち、輝いていた。
「……」
ローズは少し躊躇ったが、足を一歩踏み出し、破片に気をつけながら花瓶に近づいた。
視線を上げると、周囲には誰もいない。
彼女は優しく白いバラの茎を掴み、花瓶の中から取り出した。
「いたっ」
指先に痛みを感じた。
見ると、小さな棘が肌を裂き、そこから赤い血が滲んでいる。
(棘が刺さっちゃった……)
小さな痛みを気にしながら、ローズは立ち上がって歩き出す。
じわじわと、白いバラが彼女の血を吸い上げたかのように、花弁が赤く染まっていく。
赤いバラへと姿を変えつつあるそれは、まるで、意思を持っているかのようだった。
だが、その異変に気づくことはなく、ローズはただその花を胸に抱いた。