第19話 夢と現の狭間で
煌めくシャンデリア。初夏の花々に彩られた白と金を基調にした大広間。
優雅な旋律に合わせて、ローズとヴァルセンは手を取り合い、踊り始めた。
最初の一歩。
ローズの靴音が大理石の床に小さく響き、旋律に溶けていく。
「上手だな。練習でもしたのか?」
ローズがヴァルセンの導きに身を委ねながらステップを踏んでいると、彼がふとそう言った。
からかうような口調ではなく、ただ率直な感想のようだった。
「失礼のないように、と思って少しだけ……。実は、本番で足がもつれるかもって、心配だったんですけど、そんな心配いらなかったです」
「それは、私のおかげか?」
「……ええ、そうかもしれません」
自然に笑みがこぼれる。
冗談が言えるほど、心に余裕ができていた。
ローズはそっと視線を上げる。
ヴァルセンの赤い瞳は、まっすぐに彼女を見ていた。
「……何だ?」
「いえ、ヴァルセン様もすごくお上手だなって」
「そうか?」
「はい。練習……、されたんですか?」
「いや、していない。せいぜい、本で手順を確認したくらいだ」
「えっ!?」
(それだけで、こんなに完璧に……!?)
ローズが驚きを表情に出した瞬間、音楽が一段と高まり、テンポが少し速くなった。
ヴァルセンが手を引くと、ローズの体がふわりと回転する。
彼女のドレスの裾が大きく弧を描く。
まるで、眩しい陽光が差し込む森の小道を、そよ風が吹き抜けていくような軽やかさだった。
(この時間が、ずっと続けばいいのに)
心地よく、幸せな時間。
今はただ、この一瞬が永遠であってほしいと願うほどだった。
(ヴァルセン様の傍にいると、不思議と安心できる)
ローズの視界には、ヴァルセンしか映っていなかった。
あれほど気にしていたリリィのことも、すぐ近くで踊っているはずなのに、今はもう意識の外だった。
それだけじゃない。
観客の視線も眩い光も、すべてが遠くに感じられた。
「なんだか、こうして踊っていると不思議な気持ちになります」
「それは、どういう意味だ?」
ローズは言葉を探してから、ぽつりと呟いた。
「……何というか、夢みたいで。ヴァルセン様とこうして一緒に踊っていることが」
ローズは静かに目を閉じた。
少し前――、ヴァルセンと出会った頃は、こんな未来など想像できなかった。
なんせ、あのときの彼は、ローズと関わろうとすらしていなかったのだから。
(本当に、あの頃のわたしが知ったらきっと驚くだろうなぁ)
「残念だったな、夢じゃない。現実だ」
ヴァルセンの手がローズの腰を軽く支え、二人の距離がわずかに縮まる。
「今夜は、その夢を最後まで見ることだな」
「は、はいっ」
やがて音楽は緩やかにテンポを落とし、ラストへ向かっていく。
最後の一音が響くと同時に、二人は動きを止めた。
ヴァルセンが手を離して、一礼する。
ローズもドレスの裾を持ち上げ、深く頭を下げた。
大広間には、温かな拍手が巻き起こった。
拍手に包まれながら、ローズはそっと顔を上げる。
すると、ヴァルセンと目が合い、彼は小さく頷いた。
何気ない仕草のようでいて、彼の眼差しはどこか遠くかった。
「……悪いが少しの間、席を外す。父上と話がある」
「あ、……はい。わかりました」
名残惜しさを胸にしまいながら、ヴァルセンの姿がゆっくりと遠ざかっていくのを見つめた。
(行っちゃった……)
ヴァルセンが人波に隠れ、完全に見えなくなったその瞬間。
「ローズ嬢、今日は一段と美しいですね!」
どこからともなく、快活な声が飛んでくる。
金髪を後ろに流し、華やかな刺繍の入ったジャケットに身を包んだ青年がローズの前に現れた。
誰もが知る、名門貴族の嫡男だった。
「……!?」
突然声をかけられ、ローズは戸惑いを隠せなかった。
以前は、彼女に声をかけてくる者はほとんどいなかったのだ。
だが今、状況は明らかに変わり――。
「まさか、あの第一王子とあれほど息の合ったダンスを踊られるとは……! あれは、誰でも真似できるものではありません!」
「ローズ嬢の華やかさ、とても素晴らしかったです! よろしければ、次は私と一曲……!」
金髪の嫡男の言葉に便乗するように次いで現れたのは、栗色の髪に落ち着いた佇まいの青年。
ローズと同世代の中でも、特に将来を嘱望されている逸材だった。
「その前に、僕と話す時間をいただけますか? 一度、貴女とじっくり話をしてみたかったんです」
三人目の令息は、やや斜に構えた笑みを浮かべていた。
杯をくるくると揺らしながら、探るような視線を向けてくる。
(どうしよう、逃げ場がない……)
ローズは戸惑いを覚えながらも、微笑みを絶やさぬように努めた。
さっきまでの夢のようなひと時が、嘘のようだった。
「第一王子のお気に入りだと聞きましたが、それは本当ですか?」
「ローズ嬢は、今夜の主役の一人には違いない!」
一人、また一人と、次々に声がかかる。
正面、左右、背後。
気がつけば、ローズは令息たちに取り囲まれていた。
誰もが笑顔を浮かべ、手にはグラスや花束、小さな贈り物を手にしている。
さながら、一輪の花を取り囲む蝶のよう。
彼らの視線は、一斉にローズへと注がれていた。
(こういうとき、ヴァルセン様ならどうするかな……)
交錯する言葉と熱い視線。
さて、どうしようか、と思案していたときだった。
「まあ、皆さんずいぶんと熱心ですね!」
(……!)
輪の外から、ひやりとした声が聞こえてきた。
夢に浸っていたローズは、その声によって一気に現実に戻される。
「お姉様はヴァルセン様と踊ったばかりで、きっとお疲れです。ご挨拶も、そこまでにしませんか?」
ひらり、と舞うように人混みをすり抜けて現れたのは、リリィだった。
柔らかく巻いた金色の髪に、薄紫の瞳。
花のように可憐な笑みを浮かべながら、彼女は近づいてくる。
「もう、お姉様! 祝賀舞踏会に参加するなら、一言言ってくれてもよかったじゃないですか!」
リリィは頬を膨らませ、可愛らしく抗議する。
そんな彼女の愛らしい仕草に、令息たちは一瞬にして目を奪われた。
「それにしても、ローズ嬢とリリィ嬢が姉妹とは思えませんな。まるで、正反対の雰囲気……」
「どちらも、それぞれに魅力的ですよ。比べようなんて、野暮なことはしません」
令息たちは口々に言いながら、ローズから徐々に視線を外し、リリィへと意識を向けていく。
(リリィが来ただけで、場の空気が一瞬で塗り替えられた……)
昔からそうだった。
どこへ行っても、誰といても、リリィは誰かの視線を引き寄せる。
彼女がその場に現れるだけで、空気が染まる。
無邪気で、人懐っこくて、愛らしくて――。
この場にいる者たちも例外ではなく、皆がリリィの世界に吞み込まれていく。
「……ごめんね、リリィ。わたしも言おうと思ってたんだけど……」
(貴女が何度も遮って、言わせてくれなかったから……)
ローズは口に出すことなく、心の中でそう続けた。
「よかった~! てっきり、わたくしお姉様に嫌われちゃったかと思ってました!」
リリィは無邪気に笑っていたが、目は少しも笑っていなかった。
「ねえ、お姉様。少し、外の空気を吸いに行きませんか?」
リリィはニコニコと微笑んだまま、さりげなくローズの腕に手を添えた。
その手は思いのほか力強く、まるで「これ以上、目立つのは許さない」と言わんばかり。
「わたくし、お姉様とゆっくりお話したくて……」
その瞬間、リリィはローズの腕をぐい、と引いた。
(……っ)
それは、誘いではない。命令に近い圧力だった。
「……そうだね」
ローズは逃れられないと直感で悟り、静かに頷いた。
「皆さん、ごめんなさい! せっかく、お姉様にお声がけくださったのに、わたくしが割って入ってしまって……」
「いえいえ! リリィ嬢、どうかお気になさらず! ローズ嬢もぜひ、機会があれば……!」
「では、お姉様。行きましょう!」
リリィは微笑みを返し、ローズは令息たちに軽く会釈をした。
(何を言われるんだろう……)
リリィに手を引かれ、ローズは令息たちの輪から静かに離れていった。
更新が遅くなり、申し訳ございませんでした!




