第15話 迎えに来た王子と馬車の行き先
六月末。
今夜は、第二王子であるアルバ・アルデュールの成人を祝う、盛大な祝賀舞踏会が王宮で開かれる。
日が傾き、空がオレンジ色に染まり始めていた頃。
侯爵邸の中では、慌ただしく動く使用人の姿があった。
「あぁ、とても楽しみだわ!」
煌びやかなドレスを身に纏った金髪の少女――、リリィ・ブランシュは鏡の前で侍女たちの手を借りながら髪を整えていた。
彼女は鏡越しに、ちらりと部屋の隅に視線を向ける。
「ねぇ、そう思わない? お姉様」
そこには、何の支度もしていない姉の姿があった。
「えっと……」
ローズが口を濁すと、リリィはくすっと笑う。
「……あら? お姉様、祝賀舞踏会に行かないの?」
「その、実は……」
「あぁ、お姉様ったら!」
リリィがパッと手を叩き、ローズの言葉を遮った。
「もしかして、遠慮なさっているの? そんなに気にしなくてもよろしいのに……。せっかくの舞踏会ですわ、一緒に行きましょう?」
(リリィ、貴女は心配してくれているの? それとも、この状況を楽しんでいるの……?)
鏡越しに見るリリィは何を考えているかわからない、そんな曖昧な笑みを浮かべていた。
「別に、遠慮なんて……」
「あっ、リリィったら気づかなくてごめんなさい!」
ローズが否定しようとするよりも早く、リリィは微笑を崩さず言葉を重ねた。
「お姉様はそういう場が苦手でしたね……。それなら、無理に行く必要はないと思います」
「……」
するとリリィはクスクスと笑い、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
そして、ローズに近づいたかと思うと、彼女の手を取って楽しげに言う。
「安心してください! リリィがお姉様の分までしっかりと楽しんできます!」
リリィは言葉を続ける。
「リリィがきちんと舞踏会の様子を見て、お姉様に話してさしあげますわ! アルバ様がどんなに素敵なお方だったか、どれほど華やかな夜だったか……」
微笑みながら、さらりと告げられた。
「リリィ、あのね……?」
「まあ、もうこんな時間!」
リリィは、姉の言葉など聞く気もない様子で声を上げた。
そこへ、侍女が控えめに部屋をノックして入ってきた。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
「……ええ、ありがとう!」
リリィはドレスの裾を整える。
「では、お姉様。行ってまいります!」
リリィはくるりと踵を返し、優雅な仕草で部屋の外へと向かう。
「あっ」
リリィは突然、何かを思い出したかのように振り返り、ローズのもとに戻ってくる。
「そうそう。お姉様も舞踏会に興味がおありなら、窓から覗いてみるのも良いかもしれませんわね?」
最後にローズの耳元で小さく囁くように言った。
そして、リリィは侍女たちに先導されて部屋を後にしたのだった。
「……」
ローズはしばらくの間、扉を見つめていた。
やがて、そっと息をついた。
「リリィ……」
ローズの呆然とした声が、リリィが去った部屋に残された。
「初めからわたしが祝賀舞踏会に行かないって思ってたんだ……」
それに、最後に告げられた言葉。
――お姉様も舞踏会に興味がおありなら、窓から覗いてみるのも良いかもしれませんわね?
思い出すだけで、ローズの胸の奥をざわつかせた。
あれではまるで、貴女にあの場はふさわしくない。
そう、言われたようで――。
(……って今は、こんなことを気にしてる場合じゃない)
ローズはかぶりを振って、急いで自室に向かう。
今の彼女にとって、リリィの言葉よりも大切なことがある。
ヴァルセンとの約束。
彼が侯爵邸に来る前に支度をしなくてはいけない。
ローズは窓の外へと視線を向けた。
「早く準備をしないと」
夕焼けに照らされていた空は、気づけば紫がかった深い青へと変わり、夜が迫っていた。
(……でも待って。今、この屋敷にわたしの支度を手伝ってくれる人、いるのかな……?)
ローズは足を止めた。
今、侯爵邸にいる使用人のほとんどは、ローズのことをあまりよく思っていない者ばかり。
そんな人々に支度の手伝いをお願いして、果たして快く手伝ってくれるだろうか。
まともに準備されず、嫌がらせ受けるのではないか、そう考えていたそのときだった。
屋敷の中が一気にざわついた。
「どなたか、お迎えに……?」
「あれは、王宮の馬車では……!?」
そんな使用人たちの声が廊下まで届いた。
もちろん、その声は自然とローズの耳にも入る。
彼女は小さく息を呑み、玄関へと向かった。
◇◆◇
ローズが玄関に辿り着いたとき、すでに使用人の大半が何事か、とざわめきながら集まっていた。
開かれた重厚な玄関扉の向こう。
数日前にも見た、王家の紋章が刻まれた漆黒の馬車が静かに止まっていた。
「お、お嬢様……」
侯爵邸を取りまとめる執事が、どこか緊張した様子でローズに声をかけた。
その瞬間、馬車の扉が音もなく開く。
「あ……」
ローズの心臓がドクンと跳ねる。
中から姿を現したのは、一人の青年。
夜の闇に溶け込むようなその人物は、深い赤の衣装に身を包んでいた。
「ヴァルセン様がお見えです」
「ヴァルセン様……」
執事の言葉と同じタイミングで、ローズの口からその名が零れた。
ヴァルセンは鋭くも美しいその赤い瞳で彼女をまっすぐ見つめる。
そして、一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
(いつもと雰囲気が違うと思ったら、前髪が……)
普段は額を隠すように垂れている前髪が、今日はスッキリと上げられていた。
露になった額が、ヴァルセンの整った顔立ちをより際立たせている。
ローズは息を整えて、彼を見つめ返した。
「……」
ローズの目の前までやって来たヴァルセン。
彼は目を細めて、低く問いかけた。
「……ドレスは?」
「え?」
ヴァルセンは黙ったまま、彼女の装いを見つめた。
普段と変わらぬ、比較的シンプルなドレス。
髪もそのまま、飾り一つない。
「……まさか、その格好で行くつもりか?」
「ち、違います! その、着替える時間がなくて……」
「ドレスを持って来い」
「えっ」
「早くしろ」
「は、はいっ!」
ヴァルセンに挨拶する暇もなく、ローズは慌てて駆け出した。
(どうしよう、どうしよう! 準備どころか、髪も整えてないのに!)
ドレスの裾をたくし上げ、屋敷の廊下を駆けるたびに周囲の視線が突き刺さる。
(いくらなんでも、こんな格好で祝賀舞踏会に行くなんてできないよ……!)
ローズが想定していたよりも早く、ヴァルセンは侯爵邸に到着していた。
リリィの言葉に押し切られたせいで準備を全くしていなかったことを、今さらながら痛感した。
「と、とにかくドレス! それと、靴も!」
ようやく自室に飛び込み、息を切らしながらクローゼットを開ける。
視線の先には、ヴァルセンが数日前に選んでくれたドレスが掛けられていた。
淡いピンクと白を基調にした、気品あるデザインだ。
(こんなに素敵なドレス、わたしなんかに似合うかな……)
一瞬、不安が頭をよぎった。
しかし、すぐにローズは強く首を振った。
「……いや、ヴァルセン様が選んでくれたんだもん。ちゃんと着こなせる」
(それに、今はそんなことを考えている場合じゃない)
ヴァルセンが待っている。
「早く戻らないと」
ローズはドレスを抱えて部屋を飛び出した。
◇◆◇
「お、お待たせしました……!」
息を切らしたローズ。
彼女はヴァルセンの前で息を整えながら、抱えていたドレスを掲げるようにして見せた。
「ドレスを貸せ」
「……?」
ヴァルセンは一瞥すると、ローズの手からドレスを取った。
思わずヴァルセンの手に渡ったドレスと自分の手の間を視線が行き来する。
「行くぞ」
ヴァルセンはドレスを持ったまま、馬車へと向かう。
そんな彼の後をローズは慌てて追った。
「ちょ、ちょっと待ってください! わたし、この格好のままじゃ……!」
「構わない。とりあえず、乗れ」
ヴァルセンはローズの言葉には答えなかった。
そうこうしているうちに、ヴァルセンは彼女の手を軽く引いて、馬車の中へ促した。
「……えっ」
ローズが言葉の意味を理解する前に、馬車に乗せられる。
そして、ヴァルセンは御者に何かを伝える。
(えっ、待って……。本当にどういうこと……?)
戸惑うローズをよそに、ヴァルセンも馬車へと乗り込んだ。
その直後、ゆっくりと車輪が動き出した。
「あの、ヴァルセン様……?」
何かを言いたげなローズに、ヴァルセンは静かに言った。
「王宮に行く前に、寄るところがある」
「ど、どこに行くんですか……?」
ヴァルセンは窓の外を眺めながら短く答えた。
「行けばわかる」
二人を乗せた馬車は王宮へと向かう道を逸れ、夜の街を進んで行った。




