第10話 呪われた王子の不器用な優しさ
リリィの姿が見えなくなり、バラ屋敷には嵐が去った後のような静けさが訪れた。
「はぁ……」
ローズは張り詰めていた心がフッと緩むのを感じ、無意識のうちに深くため息をついた。
(リリィ……)
ローズの頭の中には、リリィの言葉が繰り返し渦巻いていた。
モヤモヤした気持ちが消えない。
考え込む彼女に、ヴァルセンは少し躊躇うように問いかけた。
「……なぁ。お前の妹は、いつもああなのか?」
「いえ、そんなことは……。今まで一度も、リリィがあんな風に感情をむき出しにするなんてこと、ありませんでした……」
(リリィ……、まるで別人だった……)
初めて見る、リリィの姿。
敵意とも取れる視線、激情に任せた攻撃的な言葉。
そんな妹の姿に、ローズは戸惑いを隠せずにいた。
「すみません、ヴァルセン様……。わたしのせいで……」
ローズが申し訳なさそうに、ヴァルセンに謝った。
すると彼は眉を寄せ、ローズをまっすぐ見据えて言った。
「それは、何に対しての謝罪だ?」
「……え?」
「お前が聖女として劣っていることに対してか? それとも、私の前であんなやり取りを見せたことに対してか?」
「そ、それは……」
「どちらにせよ、お前が謝る必要はない」
「でも、わたしのせいでヴァルセン様も……」
「お前のせいじゃないだろ。あの女が一方的にお前を責めていただけだ」
「でもっ……」
「私は、私の判断でお前を選んだんだ。あの女がそれに納得できないと言って来ても、放っておけ。相手にするだけ時間の無駄だ」
「……」
ヴァルセンは、ローズのことを決して軽んじることはしなかった。
彼のまっすぐな言葉が彼女の心の奥に染み込み、じんわりと温かさを広げていく。
「……それに、お前は何かあるたびに自分を卑下している。それは、楽しいか?」
「楽しく……、ないです……」
(でも、わたしはずっとそうしてきたから……。もう、それが当たり前になってしまった……)
ジワリ、とローズの瞳に涙が滲む。
そして──。
「わたしは……っ!」
ぽろっ、と涙が零れ落ちた。
「……なっ!?」
ヴァルセンは、ローズの涙に面を食らった。
「え、あ、あれっ……、わたし、どうして……っ」
ローズもまた、頬を伝う涙に驚いていた。
「……泣くな」
「す、すみません! わたし、泣くつもりじゃなくて……っ!」
ローズは涙を拭おうとする。
しかし、涙は依然としてポロポロと零れ続ける。
(なんで……、どうして止まらないの……?)
ローズの涙は止まらない。
それもそのはず、彼女は自分の心の奥底にある痛みに気づいていなかった。
彼女の心は、長年の自己否定の言葉で傷ついていた。
知らぬ間に積み重なった傷。
そこに、追い打ちをかけるようにリリィの攻撃的な言葉が突き刺さり、ついに彼女の抑えられていた感情が堰を切ったように流れ出したのだ。
「……おい、じっとしてろ」
「え……?」
ヴァルセンの黒革の手袋がローズの頬に当たる。
ひんやりとした感触に、彼女は思わず身を竦めた。
「あ、あのっ……」
「……」
ヴァルセンは黙ってローズの涙を拭う。
少しだけ乱暴な拭い方には、ぎこちなさが滲み出る。
「……泣かれるのは、好きじゃない」
「え、あっ、す、すみませ……」
「だから、謝るなと言っているだろう。……まったく」
ヴァルセンが苛立ったようにため息を吐いた後、再度ローズを自身の方へ引き寄せた。
(……え?)
ローズは、ヴァルセンの胸元に身を預ける形になっていた。
「あっ、あの、ヴァルセン様?」
服越しでもわかる、鍛え上げられたヴァルセンの体。胸元から伝わる体温と鼓動。
それらがローズの動揺に繋がった。
「暴れるな」
「で、でもっ……!」
「泣き止め。落ち着くまで動くな」
「えぇ……」
(な、なんでこんなことに……)
こんなにも近い距離で異性と触れ合うことが初めてのローズ。
彼女にとってこの状況は、戸惑いと逃げ出したいと思わせるほどの緊張をもたらした。
しかし、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、彼女の心を落ち着かせた。
「……」
ヴァルセンの温もりに包まれながら、ローズは静かに目を閉じた。
不器用なヴァルセンが取った一連の振る舞い。
それら全ては、彼なりの優しさだった。
「……落ち着いたか?」
「……!」
ヴァルセンの腕の中で静かに涙を流してしばらく経った頃、彼に声をかけられ、ローズはハッと我に返った。
「す、すみません……!」
そう言い、ローズは慌ててヴァルセンの腕の中から離れる。
彼女の頬にはもう、涙は流れていなかった。
「だから、謝るなと言っただろう」
再度謝ったローズに、ヴァルセンは釘を刺す。
「す、すみ……。……もう大丈夫です」
出そうになった言葉を飲み込み、別の言葉を出した。
「ならいい」
(……わ、わたし、今、ヴァルセン様に抱きしめられて……)
ローズは赤くなった頬を隠すように顔を背ける。
(あぁ、どうしよう。すごく顔が熱い)
ヴァルセンから少し距離を取ったものの、頬が燃えるように熱い。
冷静になろうとしても、先ほど彼の体温や鼓動を思い出してしまい、元に戻るのだ。
「すー、はぁ……」
心を落ち着けるため、ローズは深呼吸を繰り返す。
「……」
急に何をしているんだ、というヴァルセンの不可解そうな視線がローズの体に刺さるが、彼女は気にしなかった。
気にしていられるほどの余裕はなかった。
(……大丈夫。……よし、もう大丈夫!)
ローズは頬の熱が引いたことを確認し、何とか平然を装った。
「……」
「……」
二人の間に発生する沈黙。
(……あぁ、やっぱりだめだ!)
ヴァルセンと目が合い、ローズはすぐに目を逸らした。
(彼の顔を見ると、思い出しちゃう……!)
じわじわと、ローズの胸の奥から恥ずかしさが込み上げてくる。
「あ、あのっ、今日はもう帰りますね!」
ローズはヴァルセンに背を向け、逃げるように階段を駆け下りた。
その焦りがいけなかった。
「……あ」
ツルッと足を滑らせて階段を踏み出したローズは、バランスを崩した。
フッ、と足元の感覚が消える。
(あっ、まず――……)
このままでは、地面にぶつかる。
ローズは目を瞑って、衝撃に備えた。
次の瞬間――。
ドンッ!!
ローズの体に衝撃が走った。
(……? 痛くない……?)
しかし、それは地面に衝突した衝撃ではなかった。
「……ぐっ」
ローズの近くから、低い声が聞こえた。
「……、……え?」
驚いて目を開けると、目の前にはヴァルセンの顔があった。
「……あ」
ローズは、ヴァルセンの胸に乗る形で倒れ込んでいた。
彼の腕がしっかりとローズの腰を支えている。
そう、ヴァルセンが庇ってくれたのだ。
「……」
ヴァルセンはゆっくりと体を起こす。
「……落ち着いたんじゃなかったのか?」
ヴァルセンは強く打った背中を押さえながら、ローズを睨んだ。
その表情は、呆れと心配が入り混じったようなものだった。
「それで? いつまで私の上にいる気だ?」
「……! わ、わわわっ! す、すみません!」
そこでようやく状況を理解したローズは、急いで立ち上がった。
もはや口癖となってしまったその言葉が口から漏れ出たが、ヴァルセンは何も言わなかった。
「あ、あのっ!」
ローズはヴァルセンの顔をまともに見ることができず、視線を泳がせる。
「た、助けていただきありがとうございました! も、もう帰りますね! で、で、では……!!」
早口でお礼を言うと、ローズはバラ屋敷の門へ向かって駆け出した。
今度は、しっかりと足元を確認しながら。
「お、おい!?」
ヴァルセンの呼び止める声が聞こえたが、ローズは振り返れない。
(全身が熱いし、胸の鼓動がやたらとうるさい……!)
何も考えられない。
(早く、ここから離れなきゃ……!)
ローズは息を切らしながら、ひたすらに走る。
バラ屋敷の門を抜け、小道を駆け抜け……。やがて、バラ屋敷を抜けた先の並木道に出た。
「はぁ、はぁっ……」
息を整えながら、ローズが冷たい風で頭を冷やしていたとき――、
(……あれ?)
ふと、脳裏に先ほどの出来事がよみがえった。
階段から落ちそうになった自分を庇った瞬間に聞こえた、ドンッという衝撃音。
そして、自分の下敷きになったヴァルセンのわずかに歪んだ顔。
(あのとき、背中……、打ってたよね……?)
そのことに気づいた瞬間、ローズは顔を真っ青にして足を止めた。
(……わたしを庇ったせいで、怪我をしたんじゃ……!?)
急に不安が込み上げる。
(……どうしよう。戻るべき? ……いや、戻るべきなんだろうけど……!)
簡単には戻れない。
ヴァルセンの顔を見ると、まともに呼吸すらできない気がするから。
「で、でも、あんな風に庇ってくれたのに、ヴァルセン様に何もしないまま帰っていいの……?」
ローズは迷いながらも、バラ屋敷の方向を振り返った。
「……。……うん、やっぱり。何もせず帰るのは、間違ってる」
(きちんとお礼と手当てをしなくちゃ)
自分の感情を優先している場合ではない。
そう考えたローズの足は、自然とバラ屋敷へ向かっていた。




