MRE
最近行きつけの喫茶店がある
これといって特徴のあるお店ではないが、古臭くて、薄暗くて、
でも掃除は行き届いていて嫌な感じはしない
いつもほのかにコーヒーの香りが漂っている
レコードプレイヤーはひどい音質だが
聞いたこともないような曲がいつも流れている
店の入り口は狭く階段は少し急で下りづらい
扉の前には招き猫と狸の置物、申し訳程度の観葉植物
少しさびた看板には店名が書かれている
『喫茶ゆかり』
こんな店だし毎日通うのは私のような変人くらいだが
ときどき、訳ありの客がやってくる
何せこの店は「失われた料理」を再現できるマスターがいるから
それは思い出の味、忘れてはいけない味、もはや忘れられた味
今日もまた、誰かが来たようだ
「いらっしゃいませ、今日もいつものでよろしいですか?」
いつものようにマスターが水を持ってやってくる
今日はなんだか刺激が欲しい
久々にこの店のメニュー表(といってもここから選ぶ人間は少ないのだが)
を開いてみる
その時
パチン
急に天井のすべての電球が切れてしまった
「お客様、お怪我はありませんか?」
「いや、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだよ」
これは望んでない刺激だ…
するとマスターが申し訳なさそうに
「おそらく太陽フレアでしょう。復旧には1日ほどかかるので
本日料理の提供はできなくなってしまいました…」
ここに通って一年と少し、定休日以外にこの店で料理が出ないのは初めてだ
しかし、私のおなかも空腹に耐えかねていた
「何かレトルトでもいいから食べれるものはないかな?」
「そうですね、災害用の備蓄ならあるのですが、こんなものをお客様にお出しするのも…」
「とにかく食べれるものなら何でもいいんだ、それを出してくれよ」
マスターはプライドが高い。申し訳ないような悔しいような、
なんとも言えない険しい顔で奥の倉庫に行った
すると、一つの袋を持って出てきた
「MRE」
袋にはそう書かれている
「マスター、これって軍の戦闘糧食じゃないか。こんなものを
どこから?」
「出所は聞かないでくださいよ、ちょっとしたコネです」
軍にコネがある喫茶店主、マスターの謎はいよいよ深まるばかりだ
マスターは中身を取り出すと付属のヒートパックで水を温め
皿に乗せたフードキューブにかけていく
すると10倍ほどに膨らみ、じょじょに形ができていく
軍用食から民間へと転用され、今や家庭でも親しまれる
フードキューブだが、いつ見ても不思議とワクワクする光景だ
マスターは膨らんだ料理をせめてもの料理人としてのプライドからか
丁寧に盛り付けし直し、ソースを皿のふちに少し塗り、パセリを添えた
見た目だけはいつものマスターの料理に変わらないものになった
「こんなものしか用意できず申し訳ありません」
マスターはもはや怖い顔で料理をテーブルにのせた
愛星心高めの鳩の形のクッキーに
スパイスのきいたスープ
ふわふわより少し湿ったパン
メインには合成肉のステーキ
いかにも軍用食といった感じだ
味もそれなりで可もなく不可もない
「お客さんも物好きですね、こんなかろうじて食べれる
としか言いようのない軍用食を食べたいなんて」
「僕は木星出身で、小さい頃は食べ物かもわからないようなものを
食べていたからバカ舌なんだよ」
「うちに通うくらいですからなかなか良い舌の持ち主でいらっしゃいますよ」
「まぁこのバカ舌でも今日の料理はこの店で一番おいしくないことは
わかるね」
「今時、地球の味をここまで保存できている店も少ないですから
こりずに通っていただけると嬉しい限りです」
こうして今夜も閉店するまでマスターとたわいもない話で盛り上がった
望んだ形ではなかったが少し刺激的な日になったし
マスターの今まで見たことない怖い顔も見れた
お土産にもらったMRE付属のスプーンは明日から愛用しよう
ここは『喫茶ゆかり』
きっとあなたの忘れたくない味、忘れてしまった味を味わえる
見た目以上に長く生きているマスターと
古ぼけたレコードがあなたを待っている
つづく