逆葬
元号が明治に変わる少し前のこと。とある裕福な呉服商の屋敷で、葬儀がしめやかに執り行われていた。
仏となったのは、この家に嫁いでまだ三年足らずの若い嫁。肺炎をこじらせてから一向に体調が戻らず、長い間床に伏せたまま帰らぬ人となった。
「若奥様はほんに幸せな方だ」
「ほんに。あのような優しい旦那様と添い遂げられて」
弔問客は皆同じ言葉を囁く。病床の嫁に対する若い主人の献身ぶりは、使用人達から近所の口の端に上り、今やこの村では知らない者は居なかった。
毎朝毎晩、自らの手で嫁の髪を梳き、痩せ細った身体を清めてやる。良い薬があると聞けば、どんなに高額でも手に入れ、良い医師がいると聞けば、自ら遠方へ赴き呼び寄せた。
嫁が息を引き取った時の悲嘆は凄まじく、座棺に納める為まだ温かな足をあぐらに折る姿に、皆が涙した。
連日蝉の鳴き声が響く夏の盛り。だがこの日は陽射しを濁った雲が遮り、今にも重い雨の手を伸ばしそうだった。
先祖代々の墓がある山までは、屋敷から二十町ほどの距離がある。更にそこから山頂まで、木の棒をくくりつけた座棺を男衆数人で担ぎ、登らなければならない。
万一降り出せば、折角飾った座棺が汚れるし、担ぐ者にも負担がかかる。埋葬の日を改めてはとの話し合いになるも、主人はこの日に野辺送りをすると譲らなかった。日が延びれば仏の腐敗も進む。早く埋めて楽にしてやりたいと頭を下げる姿に、誰も何も言うことは出来なかった。
水分を含んだ生温い空気が汗を誘い、肌と着物とをぺたりと貼り付ける。それでも照りつける太陽がないだけで、大分過ごしやすかった。
これで天気さえもってくれれば……
夜の入口のように暗い空を見上げ、弔問客らは思う。
先頭の主人、僧侶に続き、男衆八人で棒を担ぐ。その後ろを、ぞろぞろと親族が続いた。
口を真一文字に結び、前だけを見て歩く主人に、村の者達は涙しながら手を合わせる。初めは野辺送りらしく、ゆっくり、ゆっくりと進んでいたが、鈍い雷の音が聞こえた途端、夫の歩調は速くなる。それに続く僧侶と男衆、親族らの足も自然と速くなる。
降られることなく、なんとか無事に山の麓までやって来た時には、皆肩で息をしていた。すると急に僧侶が眩暈を起こし、立ち上がることすら出来なくなってしまった。これでは山登りなど到底無理だろう。埋葬に僧侶が立ち合わないことなど異例であり、親族の一人が日を改めてはと忠告するも、やはり主人は譲らない。
また、本来であれば、高齢者以外の親族は共に山を登り埋葬まで見届けるが、いつ天気が急変するか分からないこの状態。幸い仏も軽かった為、今回は主人と、座棺を担ぐ男衆四人のみで山頂に向かうことにした。
濃い木々の葉が頭上に幾重も重なり、暗い空を更に暗く覆い隠す山中。相変わらず唸り続ける雷を耳に、五人は歩き続けた。
山道は次第に傾斜を増すも、主人は軽快に登り続ける。一方後ろでは、座棺を担ぐ男衆らの息が上がり、足取りが遅くなってきた。距離の空いた派手な座棺を見下ろし、主人は苛立たしげに彼らの元へ下っていく。
「貸せ!」
座棺の上部にくくりつけられた太い二本の棒には、座棺を挟んで前後に二人ずつ配置されている。その片方の棒だけを主人が無理やり担ぎ上げた為、バランスが崩れ、座棺が軋みながら激しく揺れた。ただでさえ病で痩せ細っていた仏の身体。余りすぎた座棺の中を、ザザッと滑る音に男衆らは慌て顔を見合せる。
主人はそんな些細な音には気にも留めず、傾いた座棺をとっとと山頂まで運ぶことだけを考え、足を動かし続けた。
山の中腹まで来た頃だろうか。葉の間を滑り落ちた雫が、ついに頭を濡らした。それは棒を担ぐ十本の手や肩まで、重みを増しては濡らしていく。
汗と湿気と雨。身体中に濡れ布巾が密着しているかの不快さに、主人は棒に爪を食い込ませた。
突如、棒が大きく揺れ、後ろにがくんと引っ張られる。振り向けば、座棺の後方、左側の棒を担いでいた男衆が膝を突いていた。
「おい、どうした」
呼び掛けても返事はない。腑抜けた顔で棒から手を離し、とうとう湿った土の上に座り込んでしまった。
主人は後ろへ回り男衆を揺さぶるも、状態は変わらない。仕方なしにさっきまで男衆が居た場所に入ると、棒を担ぎ上げ、「退け」と蹴り飛ばした。
担ぎ手が四人になったことで、速度は落ちたが安定した座棺。だがしばらく行くと、今度は右側にがくんと傾いた。隣を見れば、座棺の後方、右側を担いでいた男衆が、膝を突き動かない。さっきの男衆と同様、腑抜けた顔で座り込んでしまい、使い物にならないのは明白だった。
「くそ……どいつもこいつも!」
主人は棒から手を離し、その男衆も蹴り飛ばすと、再び前へ回り男衆の一人へ言う。
「お前が後ろを担げ」
一人欠け負担の大きい後ろ側に追いやり、自分は前の棒を担ぎ上げた。
ところが数歩も歩かない内に、また後ろにがくんと引っ張られる。振り向けばさっきと同じ光景が広がっており、主人は乱暴に棒から手を離すと、雷と共に唸りながら男衆と座棺を蹴とばした。
「旦那様、たったの二人では山頂まで運べません。一度引き返して」
と青い顔で訴える男衆を突き飛ばし、主人は座棺と棒を繋ぐ縄をほどいていく。重い棒を抜きその辺に放ると、縄だけを座棺の前側に二本通し、それぞれに持ち手となる輪を作った。
「お前はそっちを持て。引きずって行く」
俄に騒々しくなった雨に、男は聞き間違いだったかと耳を疑う。仏を引きずって行くと? ぬかるみはじめたこの山道を。
罰当たりな行為に震えたが、普段は温厚な主人の狂気の方が今は恐ろしかった。さっさと縄を持ち、引っ張りはじめる主人に並び、自分も山頂を目指すしかないと腹を括る。
二人だけで引っ張る縄は何故か軽かった。あまりの軽さに縄が外れたのではと振り返るも、しっかりと座棺に結ばれている。
ズッ……ザザッ……ザ……
雨音の中には、確かに土の上を座棺が滑る音と、仏が座棺の中を滑る音が混じっている。その音に耳をそばだてながら、ぬかるむ山道を登る。
その内奇妙なことに気付いた。登っているというのに、下っていると錯覚するくらい足取りが軽いではないか。泥水を跳ね散らしながら車輪のように回転し、いつの間にかトットッと走っている。隣を見れば、唯一残っていた男衆の姿はない。一人で座棺を引っ張り、急な山道を走って登っていることに何の疑問も抱かず、主人はただ、高揚感と解放感のまま山頂に辿り着いた。
もう少しだ……あともう少しで……
一心不乱に縄を引き続け、墓まで来ると、予め掘らせておいた穴から莚を捲る。
座棺を足で押し、深く暗い穴へ落とすと、漸く終わったとばかりにその場に座り込む。
どしゃ降りの雨がぴたりと止んだその静寂に────
ザッ……ズ……ザザ……
背後から、あの嫌な音がはっきりと聞こえる。
主人は立ち上がると、墓石の横に並べられていた鋤を手に取り振り返った。
そこにはさっきまで共に縄を引いていた男衆が、生気のない顔で地面を這っていた。その足は、仏を座棺に納める時のあぐらとは逆の方向に折れている。全く動かせないのか、手と腕の力だけでこちらへ向かってきた。
「雨露……雨露の……う……」
焦点の合わない目で雨露がどうのと呟いているが、よく聞き取れない。気味が悪くなった主人は、鋤を男の前に転がすと、穴に土を盛れとだけ命じ一目散に下山した。
……下山しようとした。
登りは下りのように楽だった山道が、逆に下りは登りのように辛く足が回らない。見えるのは確かに下り坂なのに、足で踏んでいるのは傾斜のきつい登り坂だ。
早く、早く帰らねば。
急かす心に足が追いつけぬ。
ザザッ……ズ……ズ……ザザ
またあの音だ。あの男衆か、それとも途中で抜けた男衆の誰かか。
ズズッ……ザッ……ザッザッ
ズズズ
音は、凄まじい速さで自分の背に追い付き、ピタリと張り付いた。
汗でも湿気でも雨でもない冷たいものから、生温い息がねっとりと耳にかかる。
「ろの……雨露の……ろ」
違う。男衆の誰でもない。これは、
恐怖で忽ち赤く染まる白目。そこに泳ぐ眼球の前に垂れたのは、雨露ではなく、細く長い髪の毛だった。
日が暮れても一向に戻ってこない五人を案じ、灯りを手に山へ入る男衆と村人達。結局雨は降らず、雲の隙間から青空さえ覗いたというのに、何故か山道は大雨の後のようにぬかるんでいた。
中腹辺りで、倒れた男衆が三人。頂上には、墓穴に土を盛り続ける男衆が一人。皆、足の骨があらぬ方向に折れていて、村に戻ってからも正気が戻らなかったという。
あくる日も、またあくる日も探し続けたが、主人の姿は何処にも無かった。足を滑らせ川に落ちたか、もしくは哀しみのあまり自害したかと、村には様々な憶測が飛び交った。
また、葬儀の日に行方不明になった者が、主人以外にもう一人。
若奥様付きだった器量良しの若い女中で、看病も任されていた。暴れる口に苦い薬を上手く飲ませることが出来、誰よりも主人の信頼が厚かったが……裏の井戸に水を汲みに行ったまま、二度と戻ることはなかった。
若い夫婦を一度に失った哀しみの中、ついに四十九日を迎え、親族らは棺を割る為山へ登った。
この辺りでは埋葬した棺を掘り起こし、四十九日後の仏の顔を拝んでから土で棺内を満たし再び埋めるという風習があった。
まだ完全に白骨化していない仏の顔を拝むのは、何度経験しても酷なこと。覚悟し対面した仏の顔に、一同はあっと叫んだ。
それは納めたはずの仏ではなく、行方不明になっていた主人だったからだ。
体格の良い主人には狭すぎる座棺。首も手足も、関節ではない所で不自然に折れ曲がっていた。カッと見開いた赤い目は、まるで恐怖におののいているようで、背筋が凍りつく。何を叫んだのか、縦に開いたまま硬直した口には、長い髪の毛がぎっしり詰まっていた。
おまけに皮膚は黒ずみ、ガサガサと醜く荒れ、頭皮の髪は抜け落ちまだら。それは、若い嫁が仏になった時の悲惨な姿とよく似ていた。
座棺の横の、裸の土からはもう一体。男衆と同じく足があぐらとは逆の方向に折れた、あの女中の遺体があった。皮膚も頭皮も、主人と同様悲惨な状態で。そして女中の口にも……
死後何日かは不明だが、この暑さで少しも腐敗していない二つの遺体。目にした者の頭から一生離れず、夢にまで見ては苦しみ続けたという。
本来の仏は何処へ消えたのか。
今ではもう、探す者も語る者も居なくなった。