第七章 サクソールの花の影に
マリエル達のキャラバンはその日、日が昇りきる前にシャフリサープズの街へと着いた。この街にももちろんキャラバンが泊まるためのキャラバン・サライがあるのだけれども、ここはいささか一部屋が小さく、コウのことをラクダやラバを繋ぐ厩に置いておかなくてはいけないようだった。
その事にカイルロッドは不満そうだったけれども、キャラバン・サライに泊まるときはコウと一緒の部屋には入れる方が珍しいのだ。
カイルロッドがこのキャラバンに入ってしばらくは、コウを厩に置いておかなければいけないときはカイルロッドも厩で寝泊まりしていたものだけれども、このところはちゃんと人間用の部屋で寝泊まりをしてくれていて、なんとか人間のていを保てている。
リーダーが宿泊の手続きを終わらせ、みなが重い荷物を部屋に置いて一息ついている時に、マリエルはふと思いだした。
「そういえばみなさん、水筒の水がだいぶ減っていますよね?
水を汲んで来ましょうか」
キャラバン・サライの中庭に井戸があるのでそこから汲んでくるつもりだったのだけれども、くっとマリエルの方を向いてカイルロッドがこう言う。
「それなら、僕も行くからそこの井戸じゃなくて泉で汲みたい。
そろそろ、コウを水に浸けたいし」
「ああ、なるほど」
コウはステップだけでなく、なんなら砂漠も移動できるほど乾燥に強いけれども、道中なかなか水を飲ませることが難しかったので、カイルロッドとしては心配なのだろう。
「それなら、カイルロッドも一緒に汲みに行きましょう。
他にもうひとり、手伝ってくれる人はいませんか?」
マリエルがそう訊ねると、ヴァンダクがひょこっと顔を上げた。
「俺も水汲み行く」
「わかりました。それじゃあ我々で行ってきましょう」
マリエルが立ち上がると、カイルロッドとヴァンダクも立ち上がったので、水を汲むための瓶を用意する。マリエルとヴァンダクはそれぞれひとつずつ、カイルロッドはコウに乗せて運ぶだろうので、いつもの棒とその両端に括る瓶ふたつだ。
瓶を持って部屋を出ようとすると、リペーヤが声を掛けてきた。
「俺とルスタムで昼に食べるなんらかをいい感じに買っておくから」
「はい、お願いします」
なんとなく薄らぼんやりしたことを言われたような気はするけれども、いつも調理を担当しているルスタムと、食いしん坊のリペーヤが選ぶ物なら間違いないだろうと、マリエル達はキャラバン・サライを出た。
抜けるような青空の下、泉へと向かう。
この街はキャラバンが店を出したりするような街ではあるけれども、そこまで大きいわけではない。人気の少ない道を歩いていると、市場のざわめきは遠かった。
しばらく歩いて泉に近づいてくると、泉のほとりにたくさんの木が生えているのが見えた。その木は幹が細く、そこからさらに細い枝を茂るように生やしていて、付いている葉も小さいものだ。
その木の枝の所々に、薄いピンク色のふわふわとした花が咲いている。
「サクソールが咲いてる!」
「あっ、ヴァンダク、急に走ると危ないですよ!」
細い枝にたくさん付いたサクソールの花を見て気持ちが昂ぶってしまったのだろう、ヴァンダクが瓶を抱えたまま泉に向かって走り出した。マリエルは慌てて追いかけたけれども、ヴァンダクに追いつき後ろを振り返ると、コウは悠々と歩いているし、その上に乗っているカイルロッドも、顔色を変えた様子なく飄々としている。
ヴァンダクがかがんでサクソールの花の香りを嗅いでいる間に、コウはマリエル達に追いついた。
「いいにおい、する?」
コウが小首を傾げてそう訊ねると、ヴァンダクはにっこりと笑って元気よく頷いた。
なんとか無事に水を汲んだマリエル達がキャラバン・サライに戻ると、すでにルスタムが昼食の準備をしていた。
「お昼ごはんなぁに?」
瓶を置いたヴァンダクがそう訊ねると、ルスタムはにっと笑って答える。
「野菜のスープとナンだよ」
「あれ? 水はどうしたの?」
「水筒に残ってた水が悪くなる前に使い切ろうと思って」
「なるほどなー」
ルスタムがすでに出来上がっているスープで満たされた鍋から、いつもの器に人数分取り分けていく。その傍らで、リペーヤは紙袋からいくつものナンを取りだして陶器の平皿に盛っていく。
それを見て、マリエルはつい目を丸くしてしまった。
「あの、そんなに買って来たんですか?」
そう、リペーヤが用意したナンはどう見ても人数分よりも多いのだ。その多い理由を、リペーヤはこう説明する。
「いやはや、おいしそうな匂いに負けちゃってさぁ。
近所でもおいしいって評判のお店って聞いたら我慢できなくなっちゃって」
「この有様と」
「そのとおり」
リペーヤに食材の買い物を任せると確かにこうなりがちだと思いながらも、わざわざ買って来てくれたのに文句を言うのは筋違いな気がして、マリエルは苦笑いをするしかできない。
その何ともいえない気持ちを察したのか、リーダーが笑いながら言う。
「まぁ、ナンはすぐに腐る物でもなし。
どうせ夜中になったら誰かしら腹を空かせて勝手に消えるだろう」
旅路の途中で食料が勝手に消えることがあると困ってしまうけれども、ここはある程度安定して食料が買える街だ。多少の食いしん坊は許されるのだろうと思うと、マリエルはなんとなくほっとした。
昼食後、疲れと体の熱をとるために、みなで部屋の中で昼寝をした。寝入ってしまうまでは、速やかに寝てしまったヴァンダクやルスタムの寝息が聞こえていたのだけれども、それも次第に聞こえなくなって、気がつけば目の前にサクソールの木と花が広がっていた。
ああ、自分は今寝ているのだなとマリエルは思う。夢の中のサクソールをぼんやり眺めていると、その木陰から人影が見えた気がした。その人影は女性と子供のようで、それを見てマリエルは、今頃他の街に置いてきた妻と子供はどうしているのだろうと思いを巡らせる。
少しだけ、胸が締め付けられる感覚がした。
みなが目を覚まし日が暮れた頃、夕食を食べに街の食堂へと向かった。
キャラバン・サライにも一応台所は付いているけれども、他のキャラバンとの共用なので、外食できるのであればなるべく外食をしたい。
もっとも、そう考えるキャラバンが多いのか、あの台所はあまり使われていないようだけれども。
夕食は、久しぶりに街に来たのだからとシャシリクとプロフを注文した。シャシリクは大きめに切った肉を鉄の串に刺してじっくり焼くし、プロフも米を羊肉とにんじんとでじっくり炊き上げるしで、どちらも出来上がるまでに時間が掛かる。
その空いた時間、ただおしゃべりをしていてもいいのだろうけれども、今日は何故だか、なんとなく。という理由でルスタムとリペーヤがそれぞれギジャクとドゥタールを持ってきている。それを見た店主は、ふたりにこう言った。
「お客さん、いい物持ってるね。
出来上がるまでの間それを弾いて聞かせてくれたら嬉しいな」
「よろこんで」
店主の言葉にリペーヤは愛想よく返し、ドゥタールをつま弾き出す。それに合わせて、ルスタムもギジャクを構えて弓を引いた。
店の中にはじけるような音が響き、軋むような音が染み渡る。そうして次第にマリエル達だけでなくほかの客も合わせて歌を歌い、体を揺すり、盛り上がった雰囲気になってきた。
こう言った雰囲気は、ヴァンダクをはじめマリエルやリーダーも好んでいるし、カイルロッドも積極的ではないにせよ、少なくとも嫌ではなさそうだ。
店の客みなで歌って騒いでいるうちに、シャシリクとプロフが運ばれてくる。それから、店主が奥から声を掛けてきた。
「曲のお礼に、ちょっとおまけして置いたよ」
なにをだろうと思ってよく見てみると、シャシリクの串がメニューの記述よりも一本多かった。