第五章 近いか遠いか
キャラバンはパルフを出発し、シャフリサープズへと向かう。途中、パルフのすぐ近くにあるテルメズで一泊し、今は草が茂るステップの中を、方角を見ながら進んでいる。
ステップには、方角を示すような目印はない。もしあったとしても、遙か遠くに霞む山の影くらいだ。
夜であれば、星を見て方角を見られるけれども、昼間はそうはいかない。自分たちの影を見て方角を割り出すというのもやれば出来るのだろうけれども、多少手間がかかる。
マリエル達一行は、ヴァンダクの乗ったラクダを先頭にして進んでいく。ヴァンダクは昼間でも方角を知る術に長けているので、何もないステップではこうやって、キャラバンを先導する役割があるのだ。
ヴァンダクが昼間方角を知るために使っているのは、手のひらほどの大きさの、菱形をした、黄色く透き通った石。ヴァンダクはその石の名前を知らなかったようだけれども、カイルロッドに言わせると、あの石は方解石という物らしい。
あの石は不思議なことに、平らな面から向こう側を覗き込むと、景色がいくつもの像にぶれて見える。そのぶれ方で、ヴァンダクは方角を見ているようだった。
もっとも、どのような原理でそのような現象が起きているのかは、ヴァンダクはもちろん、石に詳しいカイルロッドでさえわからないようなのだけれども。
荷物を載せたラクダとラバや亀に乗ったまま、キャラバンは黙々と歩く。時折、先頭を歩いているヴァンダクを止め、リーダーがヴァンダクと一緒に地図を確認して、また歩く。何もないステップをこうして進んでいくのは、目的の場所へ辿り着けないのではないかと不安になることはもちろんあるけれども、それでもゆったりとした時間が流れていって、マリエルはこの時間が好きだった。
時折ラクダの上で馬乳酒を飲みながら進んでいるうちに、日が傾いてきた。西の地平線が朱く染まり、東の空には深い藍色それに続く紺色が広がり、星がちらほらと見え始めた。
「そろそろユルタを立てるぞ」
リーダーがキャラバンの歩みを止める。みなでラバに積んだ木の棒やフェルトを下ろして、ユルタを立てる。ユルタの骨組みを立てている間は、荷物を載せたラバとラクダが遠くまで逃げないよう、カイルロッドが見張っている。
骨組みに大きなフェルトを被せユルタが出来上がると、ラクダとラバを長い紐でユルタの柱に繋ぐ。長い紐で繋いでおけば、ユルタの周りの草をラクダとラバは勝手に食べるので餌をやる手間も無い。もっとも、ラクダもラバも、道中生えている草を時々食みながら進んでいるのだけれども。
すっかり日が沈むと、そろそろ暑くなりはじめる頃とはいえ、やはり冷え込んでくる。太陽のない夜は、たとえ暑い時期でも寒くなる物なのだ。特にこういうステップや砂漠なんかでは。
ユルタを張り、中で火をおこしてひと休みしていると、同じように脚を伸ばして休んでいるルスタムの側に、膝立ちでちょこちょことヴァンダクが近づいて袖を引いている。
「あのねぇ」
ヴァンダクのその一言でなにを言いたいのか察したのだろう。ルスタムが笑いながら立ち上がってヴァンダクの頭を撫でる。
「わかってるって、晩ごはんだろ?」
「うん!」
そのやりとりを聞いていたリペーヤが、壁際の荷物の中から鍋を取り出す。
「今日も干し肉のスープだろ?
あれ? でも水ある?」
「馬乳酒で茹でるさ」
鍋を受け取ったルスタムに、マリエルが牛の胃袋でできた水筒を渡す。
「これでよければ」
「これ、できたて的な感じ?」
「そうですね、日中踏んでました」
マリエルから水筒を受け取ったルスタムは、たっぷりと中身の入ったそれを手で揉んで様子を見ているようだ。
それから、にっと笑ってマリエルに言う。
「中のチーズも食べて良いのかな?」
「いいですよ。みんなで分けましょう」
そのやりとりを聞いていたヴァンダクが、ワクワクした顔でルスタムの事をじっと見ている。
「ちゃんとヴァンダクの分もあるからな」
はやくごはんを食べたいといった様子のヴァンダクを、リーダーが窘める。その様子を見ていたマリエルは、ヴァンダクは随分と子供っぽいけれども、これでも家に帰ればちゃんとお父さんをしているのだろうなと、なんとなく不思議な気持ちになった。
夕食が終わり、焚き火をみんなでぼんやりと見つめる。カイルロッドなどはコウにもたれかかって満足そうだ。
ふと、リペーヤが手を叩いてこう提案した。
「今日はどうせ周りに誰もいないんだ。ドゥタールでもやるか?」
それを聞いたリーダーが、ルスタムの方を向いて続けて言う。
「リペーヤはこう言ってるが、ルスタムはどうする?」
ルスタムは早速自分の荷物に手を伸ばして答える。
「じゃあ僕も、ギジャクを出しますかね」
そう言って、早速ギジャクと弓を取りだして調弦をはじめた。それを見て、リペーヤもドゥタールを出して、同じく調弦をはじめる。
調弦をするときの楽器の音は独特で、それだけでも十分音楽のように聞こえてしまう。マリエルも時々リペーヤからドゥタールの弾き方を習ったりしているのだけれども、やはり調弦には決まったやり方があるようだった。
調弦の音を聞きながら、カイルロッドは目を閉じているし、ヴァンダクはすでに体を揺すっている。リーダーも楽しそうに髭を撫でている。
今夜は、楽しい夜になりそうだ。
昨晩はみんなで歌を歌って楽しく過ごした。仲間達の中で一番早く目を覚ましたマリエルは、みなを起こす前にユルタの入り口の布をめくり、外を見る。太陽はまだ低い位置にあるようだけれども、空が白んできていて、まだ冷たい空気はたしかに清浄だった。
空にまだ残っていた星を見送ってから、ユルタの中に目を向ける。そろそろみんなを起こして朝食の時間だ。
みなユルタの中で掛布を被って寝ている。まずはルスタムから起こしていく。体を揺すってルスタムを起こし、次にカイルロッドを起こそうとしたら、ぼんやりと目を開けて自発的に起き上がった。次にヴァンダクを起こさないとと体を揺するけれども、なかなか起きない。普段は大人しく起きるのに、昨夜はしゃぎすぎたかと思っていると、突然起き上がって、ぼんやりしたままにこっと笑ってマリエルに言った。
「おはよぉ」
「はい、おはようございます。
もうすぐごはんですからね」
「はーい」
軽くやりとりをした後、次はリペーヤの身体を揺する。リペーヤは朝が弱いのでなかなか起きないのだけれども、耳元で、朝ごはんの時間ですよ。と囁くと、がばりと起き上がった。最後にリーダーを起こそうとそちらに目をやると、既に起き上がっていて、マリエルとリペーヤのやりとりを見ていたのかにこにこと笑っている。
マリエルが全員を起こし終わると、すでにルスタムが食料袋の中を見て、全員分の取りわけをしているようだった。
「朝ごはんはなんですか?」
そうマリエルが訊ねると、ルスタムは木で出来た器を差し出してきながら答える。
「今日はドライフルーツだけ。朝から干し肉もつらいだろ」
それを聞いたリペーヤが、器を受け取りながら言う。
「俺は別に、朝から肉でも構わないんだぜ?」
「あー、干し肉のスープ時間かかるから」
そのやりとりを聞いて、確かに、早めに食事を済ませて先を急ぎたいなとマリエルは思う。こうやって野宿をするのも好きだけれども、野宿をするための食料や水などは、町か、最低でも村には辿り着いていないと手に入らない。何もない場所は早めに通り過ぎたいのだ。
「とりあえず食べようか。今日も神様に感謝だ」
リーダーのその一言で、みな食前の祈りをあげて食べ始める。ドライフルーツだけの食事も、悪くないと思った。
ユルタを畳み、次の街へと向かう準備を整え、地図を開く。マリエルとリーダーとで地図を見ていると、カイルロッドがヴァンダクにこんな事を訊ねた。
「ねぇ、シャフリサープズまであとどれくらいかかりそう?」
「んっとね、方角はわかるけどどれくらいかかるかはわかんない」
申し訳なさそうな顔をするヴァンダクを見て、リーダーが笑って言う。
「そんな顔をするな。
急げば近い、急がなければ遠いさ」
それから、そして我々は急ぐ。といってラバに跨がった。
今日の旅がはじまるのだ。