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第四十五章 フランシャの箱

 ブハラを発ってトゥメルクメナバートに入ったマリエル達一行は、そこで数日を過ごしていた。

 ルスタムやカイルロッドはいつものようにキャラバン用の市場に店を出していて、その合間を縫って仕入れをしている。マリエルも、店番を手伝いながら時々抜けて、なにか仕入れるのによさそうなものはないか街中を見たりしていた。

 この日も、ルスタムと店番を交代して街の商店街を歩いている。布を売っている店を見たり、陶器を売っている店を見たりしながらまわっていると、店内にきらきらとしたものをたくさん置いている店を見つけた。

 扉を開けて中へと入る。

「いらっしゃいませ」

 店主が穏やかな声で挨拶をしてくる。マリエルもにこりと笑って挨拶を返した。

 店内を見渡すと、所狭しとガラス細工が置かれていた。それが、窓から差す光を受けて輝いているのだ。

 ガラス細工の中には、色ガラスを敷き詰めて作られたランプもたくさんあった。これはきっと、オスマン帝国のものだろう。このガラスのランプも、チャルチャンでだいぶ売れたなと感慨深く眺める。

 しばらく天井から吊されているガラスのランプを見ていたけれども、ふと、壁際に置かれた棚を見ると、ガラスでできた箱が目に入った。

 分厚いガラスの角の部分を落として、真鍮の留め金で組み立てられた重そうな箱。すこしくすんでいて、その中にはほつれがみえる緑色のクッションが入っている。この辺りではあまり見掛けない雰囲気の物だ。

 それにしてもきれいな箱だ。そう思いながらマリエルが色々な角度からその箱を覗き込んでいると、店主の穏やかな声が聞こえてきた。

「その箱は、西の国から来たものだよ」

「西の国ですか?」

 西の、どの国から来たのだろう。やはりシィンのようにずっとずっと遠い所から来たのだろうか。マリエルがそう思っていると、店主がこう言った。

「フランシャ」

「え?」

「フランシャという国から来た箱だよ」

「そうなのですか?」

 店主の言う、フランシャというのはどこにあるのだろう。はじめて聞く名前だ。

 けれども、その聞き覚えのない国の名前が、ガラスの箱の持つ魅力をますます深めているように思えた。

 フランシャ。フランシャ。どこにある国だろう。そう頭の中で反芻して、マリエルはまたガラスの箱を見つめる。くすんでいてもやはりうつくしい。そう思った。

「フランシャで作られるガラス細工は、このようにすこしくすんでいる物なのですか?」

 マリエルが店主にそう訊ねると、店主はこう説明した。

「いや、フランシャで作られるガラス細工も、新しい物はきれいに輝いているよ」

「つまり、これは古いもの。ということですか?」

「そう、どれくらい古いものかはわからないけれども、少なくとも私のお祖父さんが生きていた頃か、ひいお祖父さんが生きていた頃くらいの物らしい」

「なるほど……」

 自覚はしているけれども、マリエルは古いものによわい。古いものが過ごしてきた、その身に蓄えてきた物語のようなものを感じるからだ。

 店主の話を聞いて、じっとフランシャから来たガラスの箱を見つめていると、どうしても欲しくなってきてしまった。

「欲しくなってきたかい?」

 その声に振り替えると、店主がにやりと笑っている。マリエルは苦笑いをして返す。

「正直言うと、そうですね」

 店主は満足そうに頷いて、こう続けた。

「そのガラスの箱はね、私のお気に入りだからとっても高いよ」

 これを気に入ってしまうというのは、よくわかる気がした。マリエルだってきっと、これを手に入れたらお気に入りになるに違いないのだ。

 店主に値段を聞こうかと思ったけれども、マリエルは軽く頭を振って考えを改める。きっとこの箱はとても繊細な物だ。そんな物を持って、旅と共にあるキャラバンの生活を続けるのは難しいことのように感じたのだ。

「実は、私はキャラバンの一員でして。

とてもこの箱が欲しい気持ちはあるのですけれど、持っていてもどうしようもない、もしかしたら、旅の途中で壊してしまうかもしれないんです。

そう思うと、購入には至れませんね」

 苦笑いを浮かべてマリエルがそう言うと、店主は腕を広げて、にこにこしながらこう返してきた。

「お客さんがキャラバンの一員だって言っても、いつかは定住するでしょう?

そのいつか。定住が決まるその時まで、この箱をとっておきましょうか?」

 そう提案したあと、店主はこう付け加える。

「それに、この箱はお気に入りだから、なるべく長く手元に置きたいからね」

「本当ですか?」

「大切にしてくれるならっていう条件は付くけれど」

 こういう店主の気持ちも、マリエルはなんとなくわかる気がした。たとえ売り物でも気に入ってしまったものは、買った人の手元で長く大切にされてほしいものなのだ。

 定住することが決まるその日まで、フランシャのガラスの箱を取って置いて貰うか、マリエルはすこし考える。

 それから、寂しそうに笑ってこう言った。

「神が望んだら」

 店主は肩をすくめて笑う。

「それもそうだ」

 名残惜しそうにガラスの箱を見つめて、視線を外す。あのガラスの箱を見ていたら、ずっとこの場に留まってしまいそうな気がしたのだ。

「ありがとうございました。そろそろおいとましますね」

 マリエルは店主に頭を下げてから店の入り口へと向かう。扉を開けると後ろから、いつでもまたおいで。と声が聞こえてきた。


 ガラス細工の店を出て市場へと向かう途中、マリエルは色々と考え事をした。

 あの店にあったガラスのランプは見事なものだった。ガラスの箱どうこうはおいておくにしても、ランプを仕入れるかどうかは他の仲間に相談してもいいかもしれない。これからヒヴァに向かう道中で売れるかどうかはわからないけれども、また東の方の街に行くときに、そちらの方で売れるだろう。

 チャルチャンまでまた行くかどうかはわからないけれど、コーカンドやフェルガナ、カシュガルあたりまでは行くこともあるだろうし、あのあたりではオスマンのガラスのランプは好評なようだったから。

 ガラスのランプのことを考えながら道を歩いていると、母親とおぼしき女性と手を繋いで歩いている子供の姿が見えた。それを見て、マリエルはヒヴァに残してきている妻と子供のことを思い出した。

 これからマリエル達のキャラバンは、ヒヴァに向かう。無事に辿り着けたら、ずっとそこで待たせていた家族に会えるのだ。

 その家族に、具体的には妻に、あのフランシャから来たガラスの箱をプレゼントしたらどうだろう。もしかしたら気に入って、大切にしてくれるかもしれない。自分を思い出すよすがになるかもしれないと思った。

 マリエルは、いま歩いてきたあの店へ続く道を振り返る。もう一度あの店に行って、フランシャのガラスの箱を手に入れたいという気持ちがわいてきた。

 けれども、頭を振ってその考えを頭から追い出す。もし本当にあのガラスの箱を自分の手の内に収めるのは、キャラバンを抜けて定住するときだ。根拠は無いけれどそう感じられた。

 あのガラスの箱は、自分がいつか定住するときまで、あのきらめくガラス細工の中で待っていてくれるだろうか。あの柔和な店主が待っていてくれるだろうか。

 そして、神はそのことを望んでくれるだろうか。


 市場に入り、ルスタムの店へと戻ったマリエルは、ルスタムにこんなことを訊いた。

「あなたは、いつか定住するときが来たら、なにか欲しいものややりたいことはありますか?」

 すると、ルスタムはすこし考えてからこう答えた。

「僕は、引退するときにはとびきりきれいなリシタン陶器が欲しい。

それが買えるかどうかはわからないけど、なんとなくそう思う」

「そうなのですね」

 マリエルが頷くと、今度はルスタムが訊ねてきた。

「なんでそんなことを?」

「ふふっ、実はですね……」

 マリエルは先程のガラスの箱の話をする。ルスタムもフランシャという国のことは知らないようだったけれども、西の国の夢物語を、しばし語り合った。

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