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第四十四章 木陰とチャロップ

 ブハラに滞在してしばらく。ある日差しの強い日に、マリエルは市場を抜け出して、昼食を食べに食堂街へと向かった。

 今日はカイルロッドの店を見ていたので、店番をしばらくカイルロッドに任せることになってしまうけれども、今日はなんとなく、ひとりで食事をしたい気分だった。

 そのことは素直にカイルロッドに伝えてあって、たまにはそういう日もある。と快く送り出してくれた。

 食堂街を歩いていると、色々な匂いが流れてくる。不快な匂いはないのだけれども、肉の焼ける匂いやにんにくが蒸される匂い、コクチャイやカラチャイの香りにヨーグルトの匂いと、そういったものが一斉に鼻に入ってくるので体よりも頭が疲れてしまう。

 この匂いの中から美味しそうなものを毎回選んでいるリペーヤやヴァンダクはすごいといつも思う。絶対自分にそれはできない。

 暑いせいか、それとも一気に混ざり合って漂ってくる匂いのせいか、どうにも食欲がわかない。けれども、食べずに済ますわけにはいかない。そんなことをしたら、いくら日陰に店を置いているとはいえ、店番をしているときに暑さにやられて倒れてしまう。

 しかし、なにを食べたものかは本当に迷ってしまう。シャシリクやプロフを食べれば体力が付くのだろうけれども、今の自分の状態で、一人前を食べきれる気がしないし、そもそもで一人前で注文するのが難しい料理だ。マリエルは思わず立ち止まって額に手を当てる。

 ふと、目の端にスープのようなものを器に入れて売っている店が目に入った。スープなら食べられるかもしれないとその店の方へ行くと、売り子に声を掛けられた。

「チャロップはいかが?

うちのチャロップはおいしいよ!

今しか食べられないよ!」

 威勢の良い声にすこし驚いてしまったけれども、たしかに、この暑い中食べるにはチャロップは丁度良いかもしれない。

 どこかゆっくり食べられる場所はあるのかと周りを見渡すと、近くの木陰にタプチャンがある。そこで食べようと、マリエルは売り子にチャロップを一杯注文した。


 あの店はどうやら、店頭で売っているチャロップは近くのタプチャンで食べて、器とスプーンを自分で返しに行くという決まりの店のようだった。空いた器を返しに行くくらい、たいした手間ではない。その多少の手間で静かな場所で食事ができるなら、何も損はない。

 日陰にあるタプチャンに座り、食前の祈りをあげてからチャロップを口に運ぶ。日陰に吹き込む風は乾いていて涼しく、口に運んだチャロップは、ヨーグルトの風味と濃厚でほのかに甘い塩の味、それに歯ごたえのあるきゅうりが調和していてとてもおいしい。

 たしかに、この冷たいチャロップはこの時期にしか食べられないものだなとしみじみ思う。冬の寒い時期に暖かいチャロップがあったらと思うことはたまにあるけれども、冬にきゅうりは採れないし、そもそもとして暖かいチャロップというのはどういうものなのだろう。想像ができない。

 それに、野宿をするときに食べたいと思っても、食べることができないのもこのチャロップだ。きゅうりと塩は手に入るとしても、ヨーグルトを手に入れて、なおかつ冷やすということが、旅の台所では難しいのだ。

 マリエルはもちろん、ルスタムもチャロップづくりに挑戦したことがあるのだけれども、いずれもどうにもこれではない。というできになり、生暖かくもったりしたきゅうり入りヨーグルトをみなで食べたことがある。

 あの時、カイルロッドの呆れたような視線はともかく、思っていたものと違ったものを出されたからか、いささかしょんぼりしていたヴァンダクの表情が心にきた。それ以来、マリエルもルスタムも、野宿の時にチャロップを作ろうという気は起こさなくなったのだ。

 つらいような気恥ずかしいような出来事を思い出しながら、マリエルはゆっくりとチャロップを口に運ぶ。静かな時間が流れていた。

 ひとりで静かな場所にいると、つい物思いに耽ってしまうけれども、その時間はキャラバンの行動に迷惑をかけない範囲でなら、好ましいものだった。今もその時間を楽しんでいたのだが、少し遠くから、マリエルを呼ぶ声が聞こえた。

 なにかあったのだろうかとそちらを向くと、通りの向こうからルスタムが手を振ってやってきた。

「なんだ、今日はひとりなんだな。

なに食べてるの?」

 意外そうな顔をするルスタムに、マリエルは器の中身を見せて答える。

「そこのお店で売っているチャロップです。

器は自分で返しに行かないといけないのですけれど、とてもおいしいですよ」

 マリエルの言葉に、ルスタムは後ろを振り返って店の位置を確認している。

「僕も食べたい!

マリエルここにいるよね? ちょっと行ってくる」

「あ、はい」

 今日はひとりで食事を済ませるつもりだったのですこし戸惑ったけれども、ルスタムが自分を見つけて声を掛けてくれたのはすこし嬉しかった。

 ルスタムのことをタプチャンの上から見ていると、チャロップを買ったあと、他の店でもなにか購入したようだ。一体なんだろうと思いながらルスタムが戻ってくるのを待つ。

「ただいま」

「おかえりなさい。そちらの袋に入っているのは?」

 タプチャンに据えられた食台の向かい側に座ったルスタムに。紙袋の中身を訊ねる。すると、ルスタムは袋に手を入れてこう答えた。

「チャロップだけだと足りないと思ってナンも買ってきたんだよ」

「ああ、なるほど」

 なんだかんだでルスタムもまだまだ食べ盛りだ。さらっとしたチャロップだけでは足りないのも頷ける。

 そう思っていたら、ルスタムは二枚あるナンのうち一枚を、マリエルに差し出した。

「え? これは?」

 ナンを受け取りながらマリエルが戸惑うと、ルスタムはにっと笑って言う。

「マリエルも、チャロップだけだと体が持たないぞ。

どうせ、暑いからって他になにも食べてないんでしょ」

「んんん、お察しの通りです」

 内心をすっかり見透かされているようで、なんだか照れくさい。そして、キャラバンに入ったばかりの頃は自分のことで精一杯だったルスタムが、こうやって気遣いも出来るようになったのを再確認すると、なんとなく感慨深い気がした。

「それでは、いただきますね」

「おうよ」

 マリエルがもらったナンを手で千切ってチャロップに浸しながら食べている間に、ルスタムも食前の祈りをあげ、ナンとチャロップに手をつけはじめた。

 チャロップをひとくち含んで飲み込んだルスタムが声を上げる。

「あー、やっぱ暑い時期はこれが一番だよな!」

「ふふふ、そうですね」

 ふたりでチャロップの味を楽しんで、チャロップ作りに失敗したときのことも話しながら、涼しい木陰でゆっくりと食事を楽しんだ。


 食事が終わり、ふたりは市場へと戻る。

「ルスタムの所は、リーダーが店番をしているんですよね?」

「うん、リーダーと、ヴァンダクもいるかな?」

「リーダーと一緒ならヴァンダクも安心ですね」

 市場の入り口でわかれる直前に、マリエルはルスタムに訊ねた。

「そう言えば、今日はなんでひとりで食事に出てきたんですか?」

 ルスタムは困ったように笑って答える。

「なんとなく、そういう気分だった。

でも、結局マリエルとご一緒しちゃったしな」

「嫌でしたか?」

「いや? そっちは」

「楽しかったです」

 そのやりとりのあとお互いに、それはよかったと言ってそれぞれの店へと向かった。


 市場に出していた店も閉め、みながキャラバン・サライの部屋へと戻ってきた頃。先に部屋に帰ってきていたヴァンダクが、マリエルが帰って来るなりこう訊ねた。

「今日ひとりでお昼ごはんだったみたいだったけど、なにかあったの?」

「なにがあったわけではないのですが、そういう気分だったんです」

「そうなの?」

 ヴァンダクは、食事の時は誰かと一緒のことが多い。正確には、ひとりになることをなるべく避けている。

 そんなヴァンダクからすれば、ひとりで食事をしたいというのは、不思議なことなのだろうなとマリエルは思った。

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