第四十章 糸で描く
サマルカンドに来てしばらく。キャラバン用の市場が休みの日に、マリエルは仕入れも兼ねて街中をぶらついていた。
仕入れといっても、今日は閉まっている店も多く、やはり散歩をしているだけという意識は拭えない。
いつか見たあの青く神聖な建物を見たくてそちらの方にも足を運んでしばし見惚れていたし、今は煉瓦造りの壁に赤や青や緑に塗られた木の扉が付いている住宅街を歩いている。そう、マリエルがよく仕入れに行くような店はこの住宅街から離れているので、仕入れだといっても自分を誤魔化せそうになかった。素直に散歩しているのだと認めよう。
もう仕入れのことは頭から追いだして、素直に散歩を楽しむ。所々に植えられたポプラの樹が、長い影を作っている。太陽が天頂から傾いてきているのだ。
穏やかな空気の中ぶらぶらと歩いていると、なにやら家の玄関先に座っている若い女性の姿があった。
外に座り込んで何をしているのだろうとよく見てみると、なにやら大きな布を広げている。それが気になったので、マリエルはその女性に話し掛けてみることにした。
「こんにちは。なにをなさっているんですか?」
すると女性は、少し驚いたような顔をしてからにこりと笑う。
「スザニを縫っているんです」
「スザニですか」
スザニというのは、刺繍の一種だ。これから嫁入りするという女性が、嫁入り道具として細かい模様を刺したスザニを作るのだ。それも、一枚だけでなく何枚も何枚も。多ければ多いほどいいという人も少なくない。
「すこし、拝見してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
女性は快くスザニを刺す手元を見せてくれた。なるほど、スザニはこのようにして作るのかと新鮮な気持ちだ。
マリエル自身、スザニを見るのは初めてではない。妻が自分の元へと嫁入りしてきたときに、それはたくさんの、うつくしいスザニを持って来たものだった。
けれども、マリエルが目にするスザニはいつだって完成品だ。刺しかけであったり、刺したりしているところを見るのはこれがはじめてなのだ。
「随分と、細かく縫うんですね」
「そうですね、細かく刺した方が、きれいな模様になるので」
すこしずつしか進まない針を見ていると、これで布一面に柄を描くなんて、途方もない作業のように思えた。これを何枚も作って妻は嫁入りしてきたのだと思うと、改めて妻への愛しさが湧き上がってきた。
しばらく女性の手元を見て、マリエルが訊ねる。
「これから、嫁ぐのが楽しみですか?」
これだけ一生懸命スザニを縫っているのだ、楽しみに違いない。マリエルはそう思ったのだけれども、彼女は小首を傾げてこう言った。
「それは、わからないです」
「わからないのですか?」
わからないのに嫁入り道具をこんなに細かく縫っているというのが、不思議に思えた。
マリエルの戸惑いに気づいたのか、女性はこう続けた。
「わからないけど、でも、両親は相手の方がとてもすてきな人だと言っていたので」
「ああ、そうなのですね」
こんなにも一生懸命嫁入りの準備をする彼女の未来の夫が、暴君のような人でなさそうでよかったと安心していると、女性ははにかんでスザニを見つめる。
「それに、もし嫁がなくても刺繍は好きだから楽しいです。
たくさん作りたくなっちゃう」
それを聞いて、マリエルも笑顔になる。
「好きなことができるのは、いいことですね」
女性にそう言って、マリエルは自分の妻も刺繍が好きだったのだろうかと思う。嫁入りの時に、たくさんの、本当にうつくしいスザニを持ってこられて、思わず泣きそうになるくらい感動したのを今でもよく覚えている。
妻は、マリエルと結婚するときのために、何年もスザニを縫い続けていたと言っていた。そんなことはつゆほどにも知らず、マリエルは妻のことを迎えたのだ。今思えば、本当にいい人を妻に迎えたと思う。
マリエルはスザニを夢見心地で刺している女性にさらに声を掛ける。
「私も、妻と結婚したときに、たくさんのスザニを持って来てくれてとても感動したんです。
数が多かったから、とか、うつくしかったから、とかそういう理由……も多少はありますが、こんなに自分の所に嫁いでくるのを心待ちにしてくれていたんだと言うのを感じて、その、なんでしょうね。嬉しかったんです」
マリエルの言葉を聞いて、女性は明るい笑顔を見せる。
「私も、喜んでもらえるように頑張ります」
「ふふふ、きっと喜んでもらえますよ」
それだけやりとりをして、マリエルは、ごきげんよう。と言ってその場を離れた。これ以上邪魔をしても良くないと思ったのだ。
住宅街をまたあてもなく歩く。まだ空は明るい。道端で子供達が走り回って遊んでいる。
こんな平和な空気の中で、スザニを縫うというのはどんな気持ちなのだろうと、ふと思った。
先の人生を共にする人のために、一針一針大きな布に糸を置いていく。その途方もない作業は幸せなものなのだろうか。幸せなものかどうかは、いい人と婚姻を結ぶかそうでない人と無理矢理婚姻を結ばされるかで変わってくるのだろうけれども、その気持ちを知りたくなった。ただ聞くだけでなく、体感したいとそう思った。
自分もスザニを縫ってみればわかるだろうか。マリエルは一瞬そう考えてから頭を振る。
そんなことをしてはいけない。スザニを縫うのは女性の仕事で、特権であるのだ。それを男である自分が横取りすることなど許されない。
ふと、女性の仕事というのは随分と多いなとマリエルは思った。タシケントでアリーシャと再会したときにも話していたけれども、料理や洗濯、掃除、いればだけれども子供の世話、それに農作業。それ以外にもきっと、名前のついていない仕事が細々とあるのだろう。その合間を縫って、あのうつくしいスザニを仕上げるのだ。女性を尊敬するということをする人は少ないけれども、仕事の合間にスザニをすこしずつ仕上げる女性を尊敬してもそれはおかしなことではないのではないかとマリエルは思った。もし自分が同じ立場になった時、仕事をして、スザニを縫ってと、どれもそつなくこなせるだろうか。きっと無理だ。
「……女性はすごいな」
考え事で頭がいっぱいになってきたので、そう呟いていったん頭の中をすっきりさせる。それから、マリエルはキャラバン・サライの部屋へと戻っていった。
キャラバン・サライの部屋に戻ると、ヴァンダクが横になってうたた寝をしていた。
起こさないようにそっと部屋の中を歩いたつもりが、寝ぼけた声が聞こえてきた。
「おはよー。おかえりなの?」
「はい、今帰って来たところです」
部屋の中には、ヴァンダク以外はいないようだ。マリエルは起きてしまったヴァンダクの側に座り、こう訊ねる。
「部屋でずっとひとりだったのですか?」
するとヴァンダクはこう答えた。
「あのね、ルスタムと天文台見に行ったんだけどね、ここで夜になるの待つって言ったらだめって言われて、帰ってきてお昼寝してたの」
「なるほど。ルスタムはどうしました?」
「あれ? いないの? 寝る前はいたよ?」
きょとんとした様子のヴァンダクを見て、なるほど、ルスタムはヴァンダクを置いてどこかに散歩か買い物に出たのだなと察する。
「マリエルはお散歩だったんだよね?
なにか面白そうなものあった?」
無邪気にそう訊ねてくるヴァンダクに、マリエルはにこりと笑って先程見た物の話をする。
「街中で、スザニを縫っている女性を見ました」
「スザニ見たの? すごかった?」
「はい。きれいに作っていました」
スザニの話を聞いて、ヴァンダクも妻を迎えたときのことを思い出したのだろう、興奮気味に話をはじめた。
「スザニってすごいよね。あんなにおっきい布に、あんなに細い糸で絵を描くんだもん。
ミウナイもお嫁入りの時にいっぱいもってきてくれてね、それでね」
どうやらヴァンダクも、嫁入り道具として持ち込まれたスザニを見てそうとう感動したようだった。
スザニを持ってこられて心動かされるのは自分だけではないのだなとマリエルは思う。
スザニが女性だけの仕事であって、その気持ちは女性しか知ることがないように、スザニを持った花嫁を迎えたときのあの気持ちは、男性だけが感じられるものなのだろう。