第二十章 東の国の星
日差しが照りつける夏のある時。この日はキャラバンのための市場が休みの日なので、マリエル達は街の中にあるチャイハネでゆっくりとしていた。そのチャイハネは台所のある店内だけでなく、外にもタプチャンを設けてあり、そこでもお茶を楽しめるようになっている。
ポプラの樹の影で涼みながら、香り高く熱いお茶を飲む。マリエルが飲んでいるのは、澄んだ若草色が清々しいコクチャイだ。
ふと、隣に座ってちびちびと飲んでいるリペーヤの器の中を見る。こちらは赤みがかった茶色の、華やかな香りがするカラチャイだ。
「いやはや、暑い中飲む熱いお茶も、なんだか贅沢でいいね」
器を置いて一息ついたリーダーが言う。たしかに、暑い時期のこんな昼間に、熱いお茶を涼しい木陰で飲むなんて、野宿をしているときにはできないことだ。
茶葉自体はそこそこ大きい街であれば買うことはできるけれども、ユルタの中で飲むお茶と、開放的なタプチャンで飲むお茶とでは違った味わいがあるように思える。
コクチャイを飲んで、周囲に耳を澄ませる。人のざわめきを聞いていると、心なしか聞き慣れない言葉も混じっているように感じた。
ふと、カラチャイを飲みながら野いちごをつまんでいたヴァンダクがリーダーを見て言う。
「そういえば、このお茶ってどこから来てるんだろう」
その疑問はもっともだ。マリエルのキャラバンが普段訪れる土地では、お茶の葉は生産されていない。それはつまり、ほとんど、もしくは全く足を踏み入れたことのないどこかで作られ、運ばれてきているということだ。
リーダーが器に入っているコクチャイの香りを聞いてから、頷いて答える。
「この辺りで飲まれてるお茶は、コクチャイも、カラチャイも、シィンで作られて陸路で運ばれてくるんだ」
「シィンって、すごく遠くにあるんでしょ?
そこから運んでくるの?」
「そう。それも、おれ達キャラバンの仕事だ」
今の話で、改めて自分たちの仕事の重要性を認識したのか、ヴァンダクが感動したような顔をしている。それから、手元にあるカラチャイが注がれている器を大切そうに撫でた。
「これは蛇足かもしれんが」
リーダーが言葉を続ける。みなが、リーダーの方に視線をやる。
「シィンではカラチャイよりももっと黒い、発酵させたお茶も作ってるらしいな」
それを聞いたリペーヤはにまっと表情を崩して手元のカラチャイを見る。
「へぇ、そんなお茶は見たことないな。
どこかでお目にかかったら飲んでみたいもんだ」
そう、リペーヤの言うとおり、カラチャイよりも黒いお茶という物を、マリエルも見たことがない。それはきっと、ヴァンダクも、ルスタムも、カイルロッドも同じだろう。
リーダーはさらにお茶の話を続ける。
「飲んでみたいのはやまやまなんだが、その黒いお茶は海を渡ってここよりもずっとずっと西の国に運ばれていくそうだ」
海を渡って、と言われてもいまいちピンと来ない。マリエルにとって海と言えば、砂漠の中にあるアラル海だ。それ以外の海を見たことがない。それはきっと他のみな、そう、きっとリーダーも含めて同じなのだろうけれど。
西の国を相手にしているシィンは、一体どんな国なのだろう。マリエルがシィンについて知っていることは、その国がとても広く、強大だということだけだ。
そう、改めて考えてみると、あまりにもシィンのことを知らないのだ。もしかしたら、リーダーが言っていたように、いつかシィンへとお茶を買い付けに行くこともあるかもしれない。その可能世は捨てきれない、決して訪れることが不可能な国ではないのに、ほぼ何も知らないに等しいのだ。
もっとも、訪れることが可能だけれどもほとんどのことを知らないといえば、オスマン帝国とロシアもそうなのだけれども。
シィンは、どんな国なのだろう。少なくとも、マリエルはシィンのことを良くも悪くも思っていない。だからこそ、その国は自分たちを受け入れてくれるのではないかという期待を持ってしまうのだ。
すっかり考え込んでいると、隣にいるリペーヤが少し大きい声でこう言った。
「そういえば、仕入れの時になんか知らないけどおまけで本貰ったんだけど、ちょっと見てくれる?」
荷物の中から古びた糸綴じの本を出して広げる。リペーヤが出したその本は、見たことがない文字で綴られていた。
「なにこれ? 模様なの? 文字なの?」
「暗いところで見たら模様にしか見えなかったから、明るいところで見ようと思って」
ルスタムの疑問に、リペーヤは困惑気味だ。そのふたりに、リーダーが本の文字を指さしてなぞる。
「この文字は、シィンで使われているものだ。この本はきっと、シィンから来たものだろう」
それを聞いて、カイルロッドが少し身を乗り出した。
「シィンのことに興味があるのですか?」
マリエルが訊ねると、カイルロッドはまじまじと本を見ながら答える。
「シィンには珍しい宝石があるって聞いてる。
白くて艶のある、密な石が。
その石はシィンで良く採れるらしいんだ」
「宝石、なるほど」
興味を示している理由はわかったけれども、この本は宝石について書かれているのだろうか。きっとカイルロッドは、その宝石の絵が載っているのではないかと期待しているのだと思う。けれども、めくってもめくってもその様な物は出てこなかった。
リペーヤが本をめくり続けているとなにやら丸を何本もの線で分割し、その中に文字や模様を書き込んでいる絵が出てきた。
「これ、なんでしょうね」
マリエルが思わずそうこぼすと、ひょこっとヴァンダクが覗き込んで声を上げた。
「天文書だ!」
みながヴァンダクの方に視線をやる。
「なんでこれが天文書だってわかったんだ?
おまえ、もしかしてシィンの文字が読めるのか?」
疑問に思ったらしいリーダーがヴァンダクに訊ねると、ヴァンダクは手振り身振りを交えながら説明する。
「その絵はね、星と月と太陽がぐるぐるってして、ぐるぐるってするのに動物とかをぴってして……」
例によって専門的な上に擬音が多くてわからない。けれども、楽しそうに、一生懸命天文の話をするヴァンダクの姿はなんだか微笑ましいもののように思えた。
ひとしきりヴァンダクの説明を聞いたところで、リペーヤがにっこりと笑って訊ねた。
「この本、いる?」
「欲しい!」
素直な答えを口にして、ヴァンダクもにっこりと笑う。それから、リペーヤがヴァンダクに本を渡して頭を撫でた。
「それは、全体的に星の本なの?」
ルスタムがそう訊ねると、ヴァンダクは笑顔のまま返す。
「よくわかんないけど、星の本なのはなんとなくわかる」
カラチャイも野いちごも口に運ぶのを忘れて本をめくるヴァンダクに、カイルロッドが不思議そうに言う。
「ねぇ、もしかしてヴァンダクって、本当は西の国の字やシィンの字が読めるんじゃないの?」
その問いに、ヴァンダクは困ったような顔をして返す。
「読めないよ。読めないんだけどね、なんとなく星のことが書いてあるのかなって気がするの」
「うん? うーん、なんか不思議だね」
カイルロッドも首を傾げてしまっているし、マリエルとしても、ヴァンダクの直感は不思議なもののように思える。けれども確実にわかるのは。
「言葉が違ってもわかるくらい、星のことが好きなんですね」
「うん!」
そう、ヴァンダクがただただ純粋に、星が好きだということだけがマリエルにわかることだ。
本を見ながら笑顔になっているヴァンダクを見てマリエルは思う。ヴァンダクはやはり、キャラバンに入るのではなく、天文学者になるべきだったのではないかと。
でも、以前も思ったけれども、今更そんなことを考えても何も変えられるわけでもないし、本当に天文学者になると言ってヴァンダクがキャラバンを離れてしまったら、寂しいような気もする。
また思索に耽って思わず溜息をつく。そこで意識が外に向き、タプチャンの食台の上を見ると、山と積まれていた野いちごがほとんど無くなっていた。何ごとかと思って仲間達を見渡すと、本を置いたヴァンダクとルスタムが一生懸命野いちごを口に運んでいた。
気づかぬうちに、時間は流れすぎていっていたようだった。