激怒
「私桐生由紀奈っていうの。よろしくね工藤くん」
昼休み。
約束通り友人として食堂に付いてきた桐生さんが対面に座る幼馴染に向けて言う。
まるでお見合いでもするみたいに男子グループと女子グループが体面に座っているのだけれど、こちら側もあちら側も私とその隣に座る人を見て驚きと困惑に満ちた顔をしている。
「私は山田さんの友達で桧愛理。まあよろしく」
私の右隣に座るのは、正真正銘友人な桧さん。
不承不承といった様子で自己紹介をする彼女だけなら、周囲もこれほど困惑はしなかっただろう。
「はじめまして。私は三年の古雅綾。山田さんとは生徒会と風紀の仕事を通じて親しくさせてもらっているわ」
そう素敵な微笑みを浮かべながら、万人が魅了されるような声で自己紹介する古雅先輩。
この人がこの場に居る人たちが驚き戸惑っている原因だった。
古雅先輩がこの場に来てしまったのは、まあ私がやらかした尻ぬぐいとしか言いようがない。
幼馴染と他の人間を接触させるのはいい手だと言えなくもないが、完全に味方に引き込んでからにすべきだった。
そうでなければ引き込んだ人間も敵に回り袋叩きにされかねない。
要するに私は焦りすぎたということらしい。
そこで古雅先輩が緊急回避的な手段として提案したのが、現在完全に私の味方だといえる桧さんを同行させるというもの。
そしてある意味禁じ手ともいえる、古雅先輩という学内にほとんど逆らえる人間が居ない人が、私の味方だと周知することだった。
「下手をすれば藪を突くことになりそうだけれど、少なくとも矛先は私に向くと思うわ」
そう言って微笑む古雅先輩に、本当に申し訳なくなった。
ただでさえ迷惑をかけてきたのに、またしても。
本当に恥ずかしくて消えてしまいたくなった。
「ほら。また後ろ向きなことを考えてるでしょう」
しかしそんな私に、古雅先輩は何でもないように苦笑して言った。
「私が山田さんを助けるのは、山田さんが好きだからなの。遠慮せずに私の好意を受け取ってちょうだい」
その言葉に、私は顔が赤くなってないか心配になった。
どうして古雅先輩が私をそれほど気に入ってくれているのかは分からない。
分からないけれど。社交辞令でしかないかもしれないその言葉が、天に舞い上がるほどに嬉しかった。
「はい。もちろん知ってます」
しかしそんな気持ちも、目の前の幼馴染を見たら急速に萎えていく。
古雅先輩の自己紹介にニヤニヤしながら応える幼馴染。
表情と馴れ馴れしさが気になるけれど、この男も生徒会副会長の存在はさすがに知っていたらしい。
というか以前藤絵先輩は「古雅さんに無礼を働いた」と言っていたし、古雅先輩も幼馴染のことは知っていたから、恐らく二人は面識自体はあるのだろう。
その証拠に馴れ馴れしい様子で笑っている。
「ふふ。それにしても綾さん。意外に可愛いところがあるんですね」
「はい?」
そんなことを考えている私を尻目に、幼馴染は笑みを浮かべながら古雅先輩を見ている。
そして次に放たれた言葉に、幼馴染を除くその場にいた全員が硬直した。
「俺のことが気になったから璃音を通じて接近したんでしょう。そんな遠回りしなくても、直接俺に声をかけてくれればいいのに」
「……」
爽やかな笑顔で最高に気持ち悪い発言をぶちかます幼馴染。
こいつぶっころがしてもいいかな? そう確認しようと思ったら、古雅先輩も目を丸くして固まっていた。
うん。そりゃさすがの古雅先輩も、こんな勘違い発言を自信満々にされたら思考停止しますよね。
「……ふふ。どういうことかしら? 私は貴方に好意を抱いたような素振りを見せた覚えはないのだけれど」
「やだなあ。この間別れ際に『貴方みたいな人と話せて面白かったわ。もう話すことはないでしょうけど残念だわ』って言ってくれたじゃないですか」
満面の笑みで言う幼馴染だけれど、それは「おまえみたいな阿呆と話して疲れた。二度と会いたくない」という意味ではないだろうか。
前半部分はまだしも、後半部分を何故そんなにポジティブに解釈できるのだろうか。
「あら。ごめんなさい。社交辞令を本気に取られるとは思っていなくて(遠回しに嫌いだっつってんだろ。気付けよ阿呆)」
「はは、そんな人前だからって照れなくていいんですよ」
「照れてなどいないわ。私は貴方に好意なんて持っていないから(は? 頭わいてんのか貴様)」
「またまた。近くに来るたびに目が合うじゃないですか。あれって俺のことが気になってずっと見てるんですよね」
どこからどう見ても全力で拒絶している古雅先輩に、もはや芸術とすら言える勘違いっぷりでポジティブな発言を繰り返す幼馴染。
どうしよう。満面の笑みの古雅先輩から黒いオーラが噴出して周囲の人間(幼馴染除く)が震えてる。
というか古雅先輩の言葉に重なって副音声が聞こえるよ。何で幼馴染は平然としてるの。
「ごめんなさい。私は成人したら本家の養子に入る予定だから、下手な人とはお付き合いできないの」
「そんな、何て酷い家なんだ。彩さんは俺を愛してくれているのに、その気持ちを無視するなんて!」
「あらあら。相変わらず面白い人ね」
駄目だ。勝てない。
上品で遠回しな皮肉が主武装の古雅先輩では、この精神スーパーアーマーを持つ幼馴染には勝てない。
ここはやはり説得(物理)のできる生徒会長に出張ってもらう行かないのだろうか。
しかし今さらりと言われた言葉。
「成人したら本家の養子に入る予定だから、下手な人とはお付き合いできない」
幼馴染をけん制するための嘘……ではない気がする。
これほど多くの人が見ている場所で、そんな不用意な嘘を古雅先輩がつくとは思えなかった。
本家に養子に入る。そして自由に恋愛をすることもできない。
もしかして古雅先輩は養子になると同時に政略結婚でもさせられるのだろうか。
普通ならありえない。けれど古くて大きな家ならありえるのかもしれない。
そう思うと胸が小さな針にでも刺されたみたいにジクジクと痛んだ。
私はきっと古雅先輩に恋してる。けれどこの思いを古雅先輩に伝えようとは思っていなかった。
恋に恋して浮かれても、それが普通じゃないことは自覚していたし、伝えることで何かが壊れるのが恐かったのかもしれない。
でも、きっと。
古雅先輩なら私の思いを知っても「ありがとう」と微笑んで、そして「でもごめんなさい」と謝って私の存在を許してくれると思う。
私を親鳥みたいに包み込んで、新しい道を選べるようになるまで見守ってくれると信頼してる。
私は自分の恋が叶わぬものだと自覚している。
そしてそれを自覚したうえで、この温かい気持ちを大切にして、古雅先輩のそばにできるだけ長く居られたらどんなに幸せだろうと夢見てる。
けれど古雅先輩はそんな気持ちを抱くことすら許されないのだろうか。
例え誰かに恋しても、その思いを封じて愛してもいない人と結婚するのだろうか。
そんなのは私の下世話な想像で、案外普通に恋愛して本家とやらに相応しい人を伴侶に選ぶのかもしれない。
けれどもしかしたら、私の知らないところで古雅先輩が不幸になるかもしれないと思ったら、自分の恋が叶わないと自覚した時以上に強い痛みが私の胸を襲った。
「それにしても貴女は山田さんに好意を抱いているのではなかったのかしら? 私に好かれて随分と嬉しそうだけれど、不誠実な男は嫌われるわよ?」
古雅先輩に自分の名前を出されて、私は意識をその場に戻した。
確かにそれは気になる。
幼馴染に話が通じないのは今更だけれど、それは主に私との関係に限定され普段は本当に普通の人間だった。
だからこそ私の反論は皆に信じられず、幼馴染の言葉が真実であるかのように広まっていった。
しかしここに来て古雅先輩に対してまで発動したポジティブシンキング。
もしかして粘着対象が古雅先輩に移ったのだろうか。
それならそれで喜んでもいられず、幼馴染を社会的に抹殺する方法を考えないといけないかもしれない。
「大丈夫ですよ。璃音は俺がいないと生きていけませんから」
その発言に、少しずつ戻っていた周囲の空気が再び固まった。
「……どういう意味かしらそれは?」
「璃音は俺のものですから。俺の言うことはなんだって聞きます」
心なしか震える声で聞いた古雅先輩に、幼馴染は嬉しそうな声で返した。
その発言に狼狽え、ざわつく周囲の生徒たち。
けれど私はその発言に妙に納得していた。
前々から思ってはいたのだ。幼馴染の独占欲のようなそれは、恋愛感情とはどこか違うものではないのかと。
要は最初から幼馴染にとって私は格下の存在であり、自分がどうにかしてやらないと立ち行かない所有物のような感覚だったのだろう。
釣った魚に餌をやらないというが、幼馴染にとって私は最初から自分の水槽の中に囲われている熱帯魚。
そりゃ優しさも気遣いもないはずだ。
そして中学時代の友人の大暴れがなければ、事実私はそういった幼馴染に都合のいい存在になっていたのだろう。
意識してやっているのか、それとも天然か。
どちらにせよ今まで周囲には隠していたであろうそんな本音を、浮かれたのかそれとも最初から隠すつもりなどなかったのか幼馴染はぶちまけてしまったらしい。
これで周囲も幼馴染の異常性を理解してくれれば……。
「……」
「ッ!? やっば!」
「え?」
焦ったような桧さんの声。
それにつられて隣を見た私は、一瞬何が起こっているのか理解できなかった。
「……」
「ちょっ、古雅さん落ち着いて。す、蘇芳! 古雅さん止めて!」
いつの間にか立ち上がり、拳を握りしめて机を乗り越えようとしている古雅先輩を、桧さんが腰にしがみついて必死に止めていた。
その顔は張り付けたみたいな能面で、しかし目には明らかに怒りの炎が灯っている。
「どうしたんですか綾さん? 大丈夫ですよ。俺はちゃんと綾さんは大切にしますから」
この期に及んでそんなことを言える幼馴染がますます理解できなくて宇宙人に見えてきた。
幼馴染には見えていないのだろうか。目の前で静かに激昂する古雅先輩の姿が。
理解できないのだろうか。桧さんが止めていなければ、間違いなく拳で殴られていたということが。
「おい! 古雅さん落ち着いてくれ! アンタが素人本気で殴ったら死んじまう!」
桧さんに呼ばれて現れた蘇芳くんが、後ろから古雅先輩を羽交い絞めにしてじりじりと机から離していく。
しかしそれでも古雅先輩は前に出ようと地面を蹴り、そのたびに蘇芳くんの体が引っ張られて体勢を崩しそうになっている。
平均的な女子よりは背が高いとはいえ、どんな鍛え方をすれば蘇芳くんのような巨漢を揺らがせるほどの力が出せるのか。
そもそも古雅先輩は何故そんなに怒り狂っているのか。
「おまえ! 何古雅さんに馴れ馴れしく触れてんだよ!」
「おまえもう黙れ! ただでさえ古雅さんの地雷踏んでんだから、これ以上関わんな!」
蘇芳くんと桧さんの二人がかりでじりじりと食堂の外へと引きずられていく古雅先輩に、幼馴染が肩を怒らせながら歩いていく。
それはまるで鎖に繋がれた猛犬に恐いもの知らずな子供が近づいていくみたいな光景で。
要するにそれを見ていた私を含むほとんどの人間は、幼馴染が次の瞬間にでも噛み殺される未来を想像したに違いない。
「ッ! 避けろ!」
蘇芳くんの警告とほぼ同時、ドォンと何か固いものが爆ぜたような音が響き渡り、地震でも起きたみたいに食堂全体が揺れた。
「……」
いつの間に放たれたのか、そこにあったのは蘇芳くんに羽交い絞めにされ、桧さんに正面から押さえられながらも、右足を幼馴染に向かって突き出した古雅先輩の姿。
幼馴染の腹の横を通り過ぎて伸びたその右足が、食堂の柱に直撃していた。
「あら。残念外れたわね。当たっていたら内臓を幾つか持って行けたのだけれど」
静まり返った食堂に、古雅先輩の凛とした声が通った。
その言葉が冗談には聞こえなかった。
わざと外してやったのだからそれ以上近寄るな。
そう言っているような気がした。
「……」
幼馴染が笑顔を蒼白に染めてその場にへたり込む。
相変わらず古雅先輩の遠回しな警告には気づいていないのだろうけれど、自分が殺されかけたことくらいは理解したのだろうか。
「蘇芳くん。桧さん。もう大丈夫だから離してくれないかしら」
「……いや、今の見て離せるわけないっしょ!? 蘇芳! そのまま連行!」
「おう」
「あら、信用ないわね。わざと外したことくらい分かったでしょう」
「次も外してくれるとは信用できないです!」
心なしかいつも通りになったように見える古雅先輩が、素直に蘇芳くんに引きずられて食堂からフェードアウトする。
それを追おうとして、けれど幼馴染のことが少し気になり視線を向ける。
「……」
顔を引きつらせ、尻餅をついたまま動かない幼馴染。
その姿を見て少しは溜飲が下がるかと思ったけれど、何も感じなかった。
ただ今は大人しくなった幼馴染だけれど、明日にでもなれば喉元過ぎた熱さは忘れて、いつも通りに振る舞うであろうという確信がある。
そういう人間なのだと嫌になるほど私は知っている。
「……」
でも今はそんなことよりも古雅先輩の方が気になった。
騒然とし、好奇の視線を向けてくる生徒たちを無視して、私は古雅先輩たちを追うように食堂を後にした。