限界
靴箱に手紙なんていうのはお約束ではあるのだろうけれど中々に古風なことだと思う。
「……」
その日靴箱を覗いたのは完全に気まぐれだった。
何せ私は上靴を毎日持ち帰っているので、靴箱が靴箱として機能していない。
じゃあ何のために靴箱があるのかと聞かれれば、恐らく嫉妬に狂ったお嬢さん方のポストのためだろう。
誹謗中傷の書かれたもの程度なら可愛いもので、酷いときには虫の死骸が入っていたりする。
私は生憎と虫は平気なので何のダメージにもなっていないのだけれど。むしろその虫をわざわざ用意して入れた女子の方がダメージは大きいのではないだろうか。
「……呼び出し?」
そして久方ぶりに開けてみた靴箱に入っていたのは、名前すら書かれていない簡素な文章だけの手紙だった。
今時こんなやり方をしなくても連絡をとる手段はあると思われるだろうが、私は知り合い以外の電話やメールは着信拒否しているので、何らかの手段で連絡先を知ったとしてもこれまた機能しないことだろう。
ちなみに幼馴染ももちろん着信拒否している。
そして着信拒否という非常に分かりやすい拒絶手段をとられても、気にせず付きまとってくる幼馴染はやはり頭がおかしいと思う。
自分の都合の悪いことは忘れてしまうのか、はたまたわざとか。
わざとだとしたら幼馴染を少し見直すことになるだろう。ただの馬鹿ではなく計算できる馬鹿だったのだと。
「……」
「おお、山田さん男前」
読んだ手紙をくしゃっと丸めて捨てたら、偶然通りかかったらしい男子生徒に笑いながら言われた。
それに苦笑で返すと、男子生徒は「頑張ってなー」と手をひらひらしながら去っていく。
自分でも意外だが、私は高校に入ってからは女子生徒より男子生徒と良好な関係を築いている。
さすがに休日遊びに行くような友人は居ないけれど、幼馴染やそのファンたちが気付かない程度に、やんわりとフォローを入れられることが多い。
これは私が風紀委員になったばかりのころに、よく一緒に行動していた同じ一年で風紀委員の男子生徒が発端らしい。
ある意味当然のように幼馴染の嫉妬を買った彼は、呼び出しを受けて忠告とやらを受けた。そこで何があったのかは知らないけれど、確かなのはその行動が一部の男子生徒から反感を買ったということ。
それ以来少しずつ、水が布に染み込むように、男子生徒の間には反工藤同盟とも言える派閥が広がっているらしい。
私が幼馴染のことを嫌いながら放置しているのも、いつか彼らの力関係が逆転し、幼馴染と周囲が凋落するのではないかと期待しているからでもある。
もっとも、そんなのは自分から行動を起こせないことへのいいわけなのだろうけれど。
「チッ」
舌打ちが聞こえて周囲を見渡す。
靴箱から校舎に入った廊下には生徒がチラホラといたけれど、舌打ちをしたのが誰なのかは分からなかった。
だって数人の女子が明らかな敵意を持ってこちらを見ていたから。
「……」
文句があるなら直接言えばいいのに。
そう思いながら教室を目指した私は、水をかけられたばかりだというのに危機感が足りなかったのかもしれない。
此方と彼方。数は違えど同じ人。
そんな対等な関係など、彼女らとは最初から望むべくもなかったのだから。
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自分のことだというのに他人事みたいだと、友人に言われたことがある。
きっとそれは私なりの自己防衛だったのだろう。真剣に自分の状況を考えたらストレスでどうにかなっていただろうと、それこそ他人事のように自覚している。
私は疲れたのだろう。私を見ない人の前で、私のままで居続けるという虚しさに。
けれど皮肉なことに、その自己防衛のはずの私の無自覚さが今回はマイナスに働いた。
放課後。風紀委員では交代で、使われていない教室などの戸締りがされているか、生徒が居残って風紀が乱れるようなことをしていないかと見回りが行われている。
前回水をかけられたのも、この見回りを行っていた時だ。
なのでさすがの私もそこは注意して、頭上を気にしながら歩いていたのだけれど、残念ながら私の注意は明後日の方向にズレていたらしい。
「ちょっと! 聞いてんの!?」
現在私は校舎からは死角になるであろう倉庫裏に居る。
周囲には私を囲うように並び立つ女子生徒たち。いずれもアンタら学校に何しに来てんだと言いたくなるような派手な出で立ちで、苛立った様子で私を睨んでいる。
油断した。文句があるなら直接来ればいいのにとは思ったけれど、まさか徒党を組んで来るとは。
いや、十分に予想できたことを予想できなかったのは単に私が間抜けだったから。
いくら陰口を叩かれ嫌がらせを受けても動じない私に苛立ち、そしてエスカレートした結果があの水浴びだ。
ならそこからさらに事態が発展することだって当たり前のはずなのに、対処しようとするどころか可能性すら考えなかった。
これは私の悪いところだろう。反省しなければ。
「無視すんな! ムカつくのよアンタのその人形みたいな顔!」
「いつも『私は気にしてません』みたいな態度。何? 余裕なの? そんな工藤くんと比べたら可哀想な顔でさ!」
そうやって現実逃避気味に状況を考えている間にも、女子生徒たちは口々に私を罵っている。
その声が遠く聞こえる。
この人たちは何を言っているのか。そんなことすら認識できなくなってきた。
――そもそもこんな人たちに価値などあるのだろうか?
ああ、きっと今私は壊れかけている。そんな風に冷静に私を観察する自分が居た。
自分ではもう少し神経の太い人間だと思っていたのだけれど、限界というのは自分では分からないうちに訪れるものらしい。
「――! ――!?」
女子生徒たちが何を言っているのか、本当にどうでもよくなってしまったせいか聞き取れなくなってきた。
「――最近じゃあの副会長にも媚び売ってさ。あんな頭軽くて遊んでそうな女なんて、アンタを見下してるに決まってんじゃん」
しかしそんな諦めてしまった私でも、その言葉は諦めて聞き流すことはできなかった。
「……今何て言った?」
「は? アンタが……」
「侮辱した! あの人を!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
丹田に力がこもり、目頭が熱くなるのを感じる。
「アンタたちみたいな自己中心的で愚劣で、自分も他人も見えてない想像力の欠片もない人間に、あの人を侮辱する資格なんてない!」
何を言ってるのか自分でも分からない。
ただ目の前の人間たちを許せないという強い思いがあり、こんな連中に屈してなどやれないという意地があった。
「な、何叫んじゃってんの? 馬鹿みたい」
「馬鹿は貴方たちでしょう! 好きだの何だの嘯きながら、自分から動こうともせずに他人を蹴落とすことばかり考えて。見下されることを恐れているのは他でもない貴方たちじゃない!」
「ッ……うるさい! 意味分かんないのよアンタ!」
「黙って言うこと聞いてればいいのに、痛い目みないと分からないの!?」
女子生徒の一人が私の前に立ち、右手を大きく振りかぶる。それを目を閉じることなく見ながら、気合を入れるように拳を握りしめる。
あんな腰の入ってない平手打ち、受けてもせいぜい口の中を切るくらいだ。
明確な正当防衛の証拠を得てから一気に殴り返す。
きっと人数差で負けて酷い目にあうだろうけれど、こっちだって酷い目にあわせてやる。
完全に理性が飛んだ頭でそう考え、私は相手の一撃を待ち受ける。
「ッ!?」
相手の平手は大きく狙いを反れ、ほとんどひっかくみたいに私の顔を撫でていった。
頬が熱い。でもそんなことはどうでもいい。やられたらやり返す。今はそれだけでいい。
「痛!? あ、アンタよくも!?」
すぐさま顔面を殴り返した私に、相手の女子生徒は目を見開いて後退った。
何を驚いているの?
まさか私が殴り返さないとでも思っていたの?
まさか相手が同じ人間で、やられたらやり返されるということすら予想しなかったの?
――そんな軽い頭であの人を貶して笑っていたの?
「――」
許せない。許さない。
こんな人たちが、好き勝手に生きてることが許せない。
「コラァッ! 何やってんだてめえら!?」
抑えきれない衝動にかられて足を踏み出そうとしたところで、野太い男の声が響いた。
同時に大柄な影が倉庫の向こう側から走り出してきて、あっという間に距離を詰め私を隠すように立ちはだかった。
「な、アンタは三組の……」
「何でアンタが出てくんのよ!? 関係ないでしょ!?」
どうやらその大柄な男は教師ではなく生徒だったらしい。
肩幅は私のからだをすっぽりと隠すほどに広いが、背も二メートルに届くのではと思う程に高い。
「俺だって女の諍いには関わりたくねえよ。しかしどう見ても喧嘩じゃなくてリンチだろうがこの人数差は」
うんざりしたような、疲れたような声で大柄な男子生徒は言う。
「おまえも、この状況で殴りかかんじゃねえよ。よっぽど腹に据えかねたんだろうけど、もっと自分を大切にしろ」
そう言って振り返り肩越しに私を見る目は、大柄な体に見合うように鋭く、しかし何かを憂うように静かだった。
その目を見ていたら、怒り狂って後先考えない自分の行動が酷く滑稽なもののような気がして冷めていくのを感じた。
「チッ、ほっぺた切れてんじゃねえか。ほら、保健室行くぞ」
「ちょ! 待ちなよ! 横からしゃしゃり出てきて、ふざけんな!」
私の手を取り歩き出そうとした男子生徒の前に、女子生徒の一人が躍り出る。
その手にはどこから持ってきたのか角材が握られていた。その角材を、女子生徒は躊躇いもせずに思い切り男子生徒の体に叩きつける。
「……満足したか?」
その角材を、男子生徒は避けようともせず体で受け止めていた。
避けるまでもない。そう言わんばかりの態度に、殴りかかった女子も他の女子も飲まれたように言葉を失う。
「行くぞ」
そして動けない女子生徒たちを置き去りに、私は男子生徒に手を引かれてその場を後にした。
あれほどの激情だったというのに、まるで水でも浴びせられたように私の心は冷え切っていた。
・
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「チッ。また保健室が空になってやがる。居ないなら居ないで鍵くらいかけとけよ」
そのまま保健室まで連行された私は、男子生徒に促されてベッドの上に座っていた。
今まで学校で体調を崩すことなどなく、保健室のお世話になるようなことなんてなかったのに、最近の利用率の高さは何の因果だろうか。
しかも原因はどちらも幼馴染絡みの嫉妬であり、自分ではどうしようもなくなって人に助けられている。
情けない。
そう思ったら、女子生徒たちに囲まれていた時にも流れなかった涙が零れそうになる。
「どうした? 傷が痛むのか?」
心配した様子で男子生徒が聞いてくる。
それに黙って首を振ると、男子生徒は「そうか」と短く応えた。
「結構深いな。どういう爪してやがんだあの女」
何やら呟きながら治療をしてくれる男子生徒。
お世話になってばかりなのは申し訳ないけれど、私はもう動くのすら億劫なほど気力というものが湧かなくて、ただされるがままにその治療を受ける。
「ほら。終わったぞ。後でちゃんと医者に診てもらっとけ。痕が残ったらことだからな」
そう言うと、男子生徒は私の頬に大きな絆創膏を貼った。
「……ありがとうございます」
「おう。まあ災難だったな。しかしあの女どもも風紀委員相手に何考えてんだか。下手すりゃ停学だって分かってねえのかね」
「そこまで頭が回るようならあんな馬鹿にはなってないですよ」
「おう。大人しそうな顔して言うなおまえ」
「……ふふ」
呆気にとられた顔をする男子生徒を見ていたら、何だか笑いが漏れた。
同時に今までの自分は何をやっていたのだろうかと、怒りにも似た自嘲の念が湧いてくる。
そう。私は人生で今までなかったほどに怒っている。
古雅先輩を侮辱されたときの激しい怒りと憎しみの情念は目の前の男子生徒のおかげで静まったけれど、時間が経つと胸の奥で炭火のように静かに再燃した。
ああ、私が愚かだった。
事態の鎮静化を望みながらも何もせず、幼馴染や女子生徒たちへの理解を諦め、どうせどうにもならない存在なのだと無視していた。
人と人である以上対等だと自らを律していたというのに、彼ら彼女らを対等な存在として見ていなかった。
私こそが彼女たちを侮辱していたのだ。
そんな私を、目の前のことに目を向けず俯いていた私を、彼女たちは頭を引っ掴んで上を向かせた。
そして私は見た。彼女たちを自分と同じ対等な人間であると認識した。
ならば私は戦おう。彼女たちと対等な人間として。
「……何か静かに盛り上がってるとこ悪いが、おまえとりあえず帰って寝ろ。そんで冷静になったら自分の先輩に相談して自重しろ風紀委員」
自分でもよく分からない高揚感に包まれやる気を滾らせる私。
そんな今までになく生き生きとしているであろうと確信する私に、男子生徒は呆れた視線を向けると疲れたように言った。