決別と決着
会議が終わり校門の前に行く頃には、既に帰宅部の生徒の大半は帰ったのか人の気配はなかった。
グラウンドの方から運動部の練習の喧騒が聞こえてくるのに周囲だけが静かで、まるでこの場所だけ日常から切り離されたような錯覚を覚えた。
「話がある……か」
一体何の話だろう。
もしかして告白? そんなありえないことを考えて一人苦笑する。
実を言うと話の内容には見当がついている。
古雅先輩の家に連れていかれたときに出会ったお爺さん。
高市鉄之助さん。
きっと古雅先輩は鉄之助さんと私を会せるつもりはなかったのだと思う。
だってあんなに秘密にしたがっていた、本家の事情というのがバレてしまうから。
個人情報保護の重要性が叫ばれて久しいけれど、人の口に戸は立てられないし、深く考えずに自分や周囲の出来事をネット上で垂れ流しにしてる人だっている。
ましてやそれなりに有名な人だったら、個人情報がおおっぴらに公開されていてもおかしくない。
少し調べれば高市鉄之助という人が、私のような若造ならともかく、その筋では知る人ぞ知る有名人だとはすぐに分かった。
古雅先輩は私がそうやって真実にたどり着く可能性に後になって気付いたのだろう。
だからこうやって呼び出して口止めをしようとしている。
もしかしたら全てを話してくれる可能性もあるけれど。
「……?」
不意に、校舎から一人の男子生徒が出てくるのが目に入った。
それだけなら気にもしないのだけれど、その男子生徒はこちらを見るなり走り出し、一直線にこちらへ向かってくる。
見るからに必死な様子で、わき目もふらずに。
もしかしてと思ったけれど、その男子生徒が近づくにつれその顔がよく見えてきて思わず私は後退っていた。
「……何で懲りないの?」
その男子生徒は、まあ予想に反してというかある意味予想通りというか、先日古雅先輩に殴り飛ばされた幼馴染だった。
顔には湿布が張られており、倒れたときについたのか傷も見て取れた。
どうしよう。逃げようか。
そんなことを考えていたら、がさりと何かがかすれるような音がする。
「……」
生徒会書記。三枝先輩が校門そばの茂みの中から上半身を出して、左手で携帯電話を保持しながらグッと右手で握り拳を作っていた。
それは何かあったら助けを呼ぶから大丈夫という意味なのか、それとも犯行現場はきっちり撮影するから安心して散ってくださいという意味なのか。どっちなのだろうか。
常識的に考えたら前者なのだけれど、この人は見た目に反して常識から逸脱した存在だと今日の会議で分かったので判断しづらい。
生徒会の残りの一人。会計の男子は二年生だったはずだけれど、彼も変人なのだろうか。
まともならもともで、他の生徒会役員の濃さに耐えきれないだろうから、変人で正解なのかもしれないけれど。
「璃音!」
「……」
そうしている間に幼馴染との距離は縮まり、二メートルほど離れたところで止まった。
いつでも逃げ出せるように体重を後ろに移動させながら、幼馴染へと顔を向ける。
「ごめん。何もしないから。話だけしたいんだ」
そんな私の警戒心を察したのか、幼馴染は距離をとったままそう口にした。
「……今更?」
意識せずに、そう言い放っていた。
話がしたい。その話を聞かなくて私を散々苦しめてきたというのに、話がしたい?
それこそ話にならない。でももしかしたら。
そう思って私は今まで以上に様子がおかしい幼馴染と対峙した。
「俺たちって幼馴染だよな?」
「一応」
幼いころからの知り合いなのだから幼馴染だろう。
もっとも、一緒に遊んだのは小学生にあがるまでで、それから中学まではろくに顔を合わせたことがなかったけれど。
「それは……周りの男子にからかわれたんだ。女子と一緒に遊んでんのかよって。だからそのまま一緒に居たら璃音もからかわれると思って」
「へえ」
それは意外な事実だった。
この幼馴染に私を庇うなんて心理があったとは。
もっとも、私は幼馴染と会えなくなったのをまったく気にしてなかったので、何の救いにもならない事実だけれど。
「でも俺はずっと璃音のことが気になってた。中学に上がってからは周りも色気づき始めたし、璃音のことが心配で仕方なかったんだ」
「心配で仕方なかったなら何であんなに厭味ばっかり言ってたの?」
「それは……その……何だか気恥ずかしくて。それに璃音のことを悪く言えば、他の男子は璃音に目を向けなくなると思ったから」
もしやこの幼馴染阿呆じゃなかろうか。
それなりにモテてるから女の子の扱いも心得てるのかと思ったら、やってることは小学生の男子と変わりない。
「でも信じてくれ。俺はずっと璃音のことが好きで、大事にしようと思ってたんだ」
そうして最後の締めとばかりに、幼馴染は真摯な様子でそう言い放った。
「……」
開いた口が塞がらない。
いや、実際にはきっちり閉じているのだけれど、今の心境はそうとしか言い表せない。
どうしてこの男はここまで全てを間違えたまま突っ走ってしまったのだろうか。
「それ絶対気のせい。あなたは私のこと自分を飾るのに丁度いい道具程度にしか考えてないから」
「何でだ璃音! 俺は本当におまえのことが大事で……」
「だって、一度も私の気持ちを聞かなかったじゃない」
「……え?」
私の告げた当たり前の一言に、幼馴染は不意をつかれたみたいに唖然とし、固まった。
「中学生の時に再会してから今まで、一度も私の気持ちも都合も考えてなかったでしょう? それに今も。自分の都合と言い訳ばかりで一度も謝ってないし。あなたが好きなのは私じゃなくて、自分が何をしても許してくれる都合のいい女でしょう?」
「……」
私の言葉に幼馴染は体を強張らせたまま不安げに瞳を揺らめかせていた。
すぐに反論しないということは、私の言葉が事実だと気付いたからだろう。
けれどこの幼馴染には自分が悪いと認められるような器量はない。
だから今ショックを受けているように見えるのも、きっと無意識のうちにやってしまっている演技だ。
彼は今、自分に都合のいい現実を探し出そうとしている。そうやって自分と周囲を騙してきたのだ。
その探し出した現実(妄想)が、目の前の私(現実)と致命的に噛み合わないということも見えないふりをして。
「……何でだよ璃音! おまえは俺のことがずっと好きだったんだろう!?」
ほら、こうなった。
途中まで私の言葉を聞いていたからもしかしたらと思ったけれど、結局こうなってしまった。
もしかしたら彼がここまで拗れてしまったのは、彼が都合よく解釈するのを反論せずに諦めていた私にも責任があるのかもしれない。
そんな僅かな罪悪感があったから、私はずるずるとここまでこの幼馴染に付き合ってしまった。
「……工藤乃兎」
だけどそろそろこの関係に終止符を打たなければならない。
私は彼の姉でも母親でも、ましてや恋人でもないのだから。
これ以上自分の身を削って彼に付き合うことはできない。
「私はあなたのことが嫌いです。二度と話しかけないで」
だからきっぱりと、決別の言葉を口にした。
「あ……そん……な……」
目を見開き、信じられないとばかりに工藤乃兎は一歩後退った。
その様子を見て、もしかしたら本当に彼は私に好意を抱いていたのかもしれないとも思う。
けれどそれに私が付き合いきれるかどうかは別だ。
欠片ほどの優しさも見せてはならない相手も居る。
ようやく私は、工藤乃兎を諦めるのではなく切り捨てる覚悟が決まった。
「うそだ……嘘だ! 璃音はそんなこと言わない!」
そして予想通り、私に裏切られたと思った工藤乃兎は、感情を爆発させて殴りかかってきた。
ああ、また殴られるのか。
三枝先輩ちゃんと助け呼んでくれたのかな。
そんなことを考えながら反射的に両手で顔を庇った私に、しかし衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
「……何やってんだてめえ」
聞き覚えのある。だけど知らない声が聞こえた。
「痛!? は、はなせ!?」
「離すわけないだろうが。今何しようとしやがったてめえ」
そこに居たのは、私より背が高く、しかし工藤乃兎より少し小柄な男子生徒だった。
輪郭が隠れる程度に長い黒髪のその男子生徒を私は知らない。
工藤乃兎も知らなかったのだろう。おまえは誰だ。邪魔するなと叫びながら取られた右手を引きはがそうとしている。
「この!? 痛!? いたたたたた!?」
「あんま逆らうなよ。下手に力がかかったら折れるぞ」
平然とそんな恐ろしいことを言って、黒髪の男子生徒は工藤乃兎の手を引っ張る。
すると腰でも抜けたみたいに、工藤乃兎は崩れ落ちて取られた右手にぶらさがるような態勢になった。
掴まれているのは右手だけなのに、全身を支配されたように。
「だ、誰だおまえ!? こんなことして、後でどうなっても……」
「あ? それが人にものを訪ねる態度……」
「好きな人」
「……は?」
ああそうだとようやく気付いて、私はそう口にしていた。
「私が今一番大好きな人。きっとこれからもずっと好きでいられる人」
「……」
私の言葉を聞いて、それまで争っていた二人が揃ったように目を見開いて固まった。
どちらもその方向性は違えど、信じられないことを聞いたとばかりに。
「……そういうことか!」
「っ!?」
そして我に返ったのは工藤乃兎の方が早かった。
取られていた右手を無理やり引き離し立ち上がると、黒髪の男性生徒へと向き直る。
「おまえが璃音を誑かしたんだな!」
どうしてそうなるのだろう。いや、きっとこれからもこの男はずっとそうなのだろう。
他人を思いやることをせずに自分の都合だけで生きていく。
工藤乃兎が男子生徒に向けて右手を振り上げる。
しかしその手が動き出す前に、パンと音がして工藤乃兎は目を回しながらよろめいた。
「振りかぶって『いち、に』で殴るんじゃ遅い。俺たちみたいなのは予備動作なしの『いち』で殴るからな」
そう事もなげに言う男子生徒。その言葉通り、彼の左手が先に動いたはずの工藤乃兎よりも早く相手に届いていた。
速すぎるせいで、私にはそれがパンチなのか掌底なのかすら見えなかった。
「やめとけ工藤。加減なしの喧嘩ならこの人は俺より強いぞ」
ああ前にもこんなことがあったな。そんなことを考えていたら、いつの間にか蘇芳くんまで駆け付けてきて、男子生徒と並び立って工藤乃兎を威嚇していた。
「く、くそ!」
「オイ、やめとけって」
「いや、いいんだ蘇芳。向かってくるなら迎え撃つ。……それに」
「……?」
工藤乃兎を止めようとする蘇芳くんを遮ると、男子生徒は言葉を切り私を一目見た。
「いい加減に俺も我慢の限界なんだ。これ以上この子に付きまとうなら、二度と近づけないように叩きのめす」
そう宣言すると、男子生徒は指を鳴らしながら一歩進み出た。
「ひっ!?」
それに呼応するように、一歩後退る工藤乃兎。
きっと本人も自分が何故それほど怯えているのか分かっていないだろう。
でもきっと体は覚えている。
この人には絶対に勝てないのだと。
「さあ、来ないならこっちから行くぞ!」
「ひやぁ!? あああああ!」
男子生徒が凄みながらまた一歩踏み出すと、工藤乃兎は尻餅をつきながら後退り、反転して立ち上がると脱兎のごとく逃げ出した。
中々に情けないその姿に、ちょっと溜飲が下がる。
「蘇芳……。俺あそこまで怯えられるほど人相悪いか?」
「人相じゃなくて殺気のせいでしょうよ。アンタいい加減自分が人間凶器なの自覚しろよ」
「でも蘇芳は俺といい勝負だろう」
「タッパが違いすぎる俺といい勝負な時点でおかしいでしょうが」
その逃げっぷりが予想外だったのか、蘇芳くんと漫才のようなやり取りをする男子生徒。
ああこんな一面もあるのかと、何だか嬉しくなる。
「あ、大丈夫山田さん? 怪我とかしてない?」
「はい。何ともありません。ありがとうございました」
私の方へ振り返って聞いてきた男子生徒に、軽く頭を下げながらお礼を言う。
すると男子生徒はほっとしたように息をついて、そして怒ったように眉間に皺をよせた。
「でも何であんな煽るようなこと言ったの? それによく知らない俺のことを恋人役に仕立てるのもどうかと思うよ?」
「嘘はついてないですよ?」
「いや、だから何で知り合いでもない俺のことを好きだって……」
そこまで言いかけてようやく気付いたのか、男子生徒の顔が「やばい」とばかりに引きつる。
むしろ気付かれていないとでも思ったのだろうか。ちょっと服装を変えただけだというのに。
「蘇芳……。もしかしなくてもこれバレてる?」
「でしょうね。だから言ったじゃないっすか。桧もアンタも山田を甘く見すぎだって」
焦ったように言う男子生徒と、呆れたように言い返す蘇芳くん。
まあ確かに。特に桧さんは度々あんなに挙動不審になっていて、何故疑問を持たれないと思ったのだろう。
「……山田さん。俺が誰だか分かる?」
「はい。古雅先輩」
「……うわあー、ちょっと待って。心の準備が」
私が満面の笑みで答えると、男子生徒――生徒会副会長である古雅先輩は恥ずかしそうに顔を両手で覆って蹲った。




